木屋瀬宿で記念館などの公共の建物以外で唯一常時開放しているのは高崎家のみ。
木屋瀬祭りではそのほかの建物の公開もあり中の展示物も観ることが出来ます。
西構口の少し前にあります。
高崎家手前に木屋瀬図の看板があり、その前は広い駐車場になっています。
高崎家住宅・・・『江戸時代末期の宿場建築物で極めて貴重であることから、北九州市は平成6年に、市の文化財に指定しました。平成7年11月から修復工事にかかり、平成9年3月に寸竣工しました。』
この高崎家住宅は”伊馬春部”生家でもあります。
伊馬春部(いまはるべ)本名:高崎英雄・・・放送作家で戦後のラジオドラマ「向う三軒両隣」「本日は晴天なり・・・他多くの学校の校歌も手がけています。
幾つかの校歌を聴くことが出来ます。
ここは遠賀川のすぐ横でたびたび川が氾濫したそうです。
2階は荷物置の倉庫になっていって、川の氾濫時は滑車を使い2階に荷物を上げたそうです。
今は荷物置の部屋はありませんが、この窓は2階の明り取りの窓になっています。
部屋の奥には箱階段があります・・・生活の工夫と無駄がありません。
雨戸も家の角もをうまく通すような工夫があります。
出隅、入隅で雨戸を斜めにして通すことが出来ます・・・良く考えたものです。
ボランティアの方が詳しく説明してくれました、見学者が少なく詳しく聞けました。
川の氾濫に備え蔵の下に3段の石垣が築かれていました。木屋瀬図には5ヶ所蔵が描かれていますが今は2ヶ所の蔵石の跡が残されています。
ここから見える建物の2階は天井がカーブし船底のようになっています。
これ階級の低い商人が建物を高くすることを禁じられたため、天井が低くなるのを防ぐ工夫です。
当時2階からは遠賀川を行き交う船の様子を観ることが出来たそうです
。
建物右横には6角の井戸があります『内部は瓦質(がしつ)で当時の状態を保存しています。』
縁側の畳はヘリがありません、畳のヘリを付けるのは武士にしか許されていませんでした。「へりくだる」の語源はここから来たものです。
大戸口・・・『通り土間の広い出入口で、通常は全体を吊り上げて出入りし、夜間は全体を閉めてくぐり戸から出入りします。』これは吊り上げた状態です。
同じように右横の窓(写真右)も吊り上げになっています。
摺り上げ戸・・・『道路側に面するところなどに用いられる建具で、溝に沿って上げておきます。昼間は開き口の上に吊るします。』
大きな荷物の時はこの建具をはずすことも出来るようです。
溝に沿ってキッチリ閉まるので防犯にもなります、雨戸も溝があり外からの進入を防ぎます。