目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀の独り言です。

「先生! 治してくれるな!」 - 疾病利得の真の意味 -

2020-08-15 11:40:55 | いけてつオタク話
元大阪大学医学部助教授の辻悟先生が行った「辻説法」。
はたまた東京都精神保健福祉センターの相談員小坂英世先生の提唱した「小坂理論」。
それらの人々の後継者たちは、寡聞にして、完全治癒率や寛解率を公表しようとはしません。

「辻説法」は、いわゆる病的体験が病理的であることを認識させ、体験に病識を持たせるには意味があると、辻先生の本を読んで感じました。
「小坂理論」は、はじめはライバル理論、次に復讐理論に移行したそうですが、患者の逃げ道をふさいで、徹底的に人格改造を行う。
病気を治す。
それは正しい。
ただ、世の中、正しいことがすべて正しいというわけではないのです。
このことは、小坂先生の後継者と自称する、笠原敏雄先生のホームページの記事を読んで感じました。

どちらの「治療法」も、患者を選ぶようです。
辻先生の定則的接近を理解しない患者さんは、辻先生はほかの治療者と交代してもらい、小坂先生は、この療法は、私しかできないし、誰でも受け入れられる治療法ではないと、いっていたそうです。

どういう動機かは知りませんが、辻先生や小坂先生のタカ派的治療を患者さんに強いる彼らの理論的後継者は、完全治癒率や完全寛解率を発表しません。
彼らは、その治療法の切れ味に酔いしれ、治せばよろず好転していく。

そんな楽観主義にたっているように思うときすらあります。

さて、中井久夫先生の本に書いてあるエピソードを引用して、この記事を締めくくりたいと思います。
ある患者さんが、「先生。志賀直哉先生の『暗夜行路』とプルースト先生の『失われた時を求めて』を、貸してください。」といって、中井先生から本を借りましたが、患者さんはいっこうに読む気配は見せなかったそうです。

あるとき中井先生は、ハッと気がついた「この患者さんは、私に治してくれるな!」といっていると。

発病前から、真っ暗闇の中を手探りで歩き、病を発症して、いきづらさの上に症状というつらさがプラスされる。
病が治ったところで、もはや身内の数は少なくなって、社会に患者の受け皿はなく、世間が貼り付けたレッテルとスティグマは一生ついて回る。
失われたときは、いや、患者さんの若き日は、二度と戻ってこないのです。

そんな環境の中で、患者さんの人生苦を救うために現れた、患者の悲鳴とも言うべき、病という最後の適応手段を奪って、何の利益があるのか?

世の中、安心して病を治せる人ばかりではないのです。
それどころか、よしんば治ったところで、よりつらい人生苦が待っている場合すらある。

病よりもつらい人生苦。
病棟よりも過酷な環境に舞い戻らなければならない状況での、操作的に決められた退院。

それは誰得なんでしょうかねえ? 本当に誰得なのかしら?

閑話休題
Икэмотоがこれらのことに気がついた今、疾病利得の真の意味に気づいたのです。

もう一度いいます。
病よりも過酷な環境や病棟よりも過酷な環境に切羽詰まった人が、過酷な環境におぼれ沈む前に、わらにもすがるような気持ちで、病というわらにすがる。

そういうケースもあるのかもしれません。

さて、私の書いたこの記事をどのように感じるか、患者のずるさに憤るか、はたまた、八方ふさがりと孤立無援の中で、最後の最後に思いついた、悲しい自己救済とみるか。

いろいろ感じ方はありますが、その感じ方は、読んだ人の生き方の好み、はたまた人間観なのかもしれません。

さて、
孫子の兵法に出てくる「欠囲」、囲む帥は欠く。
小坂理論にはこれがない。

小坂理論の例に出てくる、イヤラシイ再発。
それは一切の逃げ道を失った状態で、人生苦に直面した小坂理論の「犠牲者」が放つ、イタチのなんとやらなのかもしれません。

そう思ったИкэмотоでした。

しんぶんクロハタ。終戦七十五年記念特別号。

2020-08-15 11:00:55 | しんぶんクロハタ並びに小黒金剛石
「上級国民」
このネットスラングにぞっとするものを感じた。

明治憲法で、四民平等が建前になり、
日本国憲法によって、華族や士族と呼ばれている人たちがいなくなった。

ぶっちゃけ、今の日本には階級がないのである。
階級はないが、階層はある。
そのことが、ネット民の共通認識になった。

刑事事件を起こしても、上級国民は刑事訴追を受けなくてすみ、訴追を受けて有罪になっても軽い量刑ですみ、はたまた、税務当局のお墨付きで、課税を免除される。

名誉と権力そして富が一部の人たちに集中したら、その人たちの腐敗は加速し、食うや食わざるやの人たちが、乱を起こすこと、必定です。

今はネット民と呼ばれる人たちが騒いでいるだけですが、こんな認識を国民の多数が持つようになったら、崩壊前のソ連と全く同じ社会病理を、日本が持っている証拠になります。

それは実に恐ろしいことなのです。

日本崩壊!
祖国が崩壊する。
あの、戦後の無秩序がまた起きる。
怖いです。

が、その危機感を、政財官は全く持たず、それどころかそんな認識が加速するようなことばかりしている。

くわばらくわばらであります。

終戦から七十五年たった、記念すべき日にこんな記事は書きたくありませんが、愛国心の発露というものは別に戦争に行ったり、国を儲けさせることだけではありません。

それらも大事ですが、亡国の兆しを感じたら、それをはっきりと主権者に伝え、諫めるのも発露の一つであります。

むしろ、これははなはだ危険なことであり、まかり間違うと、本人だけではなく、九族誅殺の憂き目に会います。

それを承知で主権者を諌めたのが、諫義大夫(かんぎだいふ)と呼ばれる人たちは、彼らは命がけで、これをやったのです。

以上、しんぶんクロハタ主筆・いけもとてつこう。
でした。



紙と鉛筆で実験ができる学問。それは数学。- 学問の神に愛された証とは -

2020-08-15 08:58:52 | いけてつオタク話
数学は紙と鉛筆という実験器具を用いて実験する自然科学です。

ほかの自然科学にも実験書があるように、数学にも実験書があります。
それが教科書傍用問題集です。

あれによって、教科書に書いてある公理や定理が正しいかどうかを検証するのです。

故に数学の問題を解いて間違うと言うことは、実験の手順に誤りがあったわけであり、別に取り立てて悩む必要はないのです。

それはさておき、生物の授業でプレパラートを顕微鏡で見て、細胞の美しい幾何学模様に感動したり、化学の実験で再結晶法の実験の時、硫酸銅の青い色や、美しい結晶を見て感動するのと同じように、数学の問題を解いたときにも、何らかの感動があるはずです。

この、自然科学の勉強をしているうちに出会う、「感動」を感じた人は幸いです。

その人は、自然科学の神に愛された人なのでしょうね。
幸いなことです。

閑話休題。
まとめ。

数学の教科書傍用問題集は、ほかの自然科学の実験書のようなもの。
この実験をやって、答えが合わなかったときは、実験の手順に誤りがあったわけであり、それ以上の意味はないと言うこと。

どんな学問でも出会う、「感動」を感じた人は、その学問の神に愛されている証を得たのだと言うこと。

それが言いたかった、ИКМТでした。