目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀の独り言です。

居心地の悪い完璧な人より、居心地のいいちょっと抜けた人でありたい。

2022-09-21 21:42:49 | いけてつ独り言
普通って何?
普通の定義がわからない。

当たり前だ。
普通は自明なものだから。

当たり前だからこそわからなくなる普通。
普通の集合の中に生きていながら、普通からはみ出した感じ。

思春期のメタモルフォーゼ以降、よっぽど鈍感じゃない人でない限り、普通に生きて行きながらも、

「あ、自分は普通からはみ出している。」

そんな勘違いを持ちながらある年まで生きていくのだ。

あるメンタルの専門家はいう。
「正気の証明ほど、滑稽なものはない。」と。

正気の証明。
自分は普通じゃないという勘違いを抱いた瞬間から、人は自分の定義した普通にしがみつく。

そして自分が定義した普通と、自分は普通じゃないという思い込みだけが、どんどん拡大再生産され、いつしか精神の均衡を失ってヘトヘトに疲労困憊していくのだ。

さて、定義された普通は理念世界にある真円だ。
真円は定義された世界にしか存在しない。

はっきりってしまえば、現象界にあるところの円は、すべてゆがんだ円なのだ。

なのに自分は真円でないからといって、ほぼ真円に近いありのままの自分を疎外し、真円である自分を生きようとする。

それが上に述べた、正気の証明なのだ。

正気の証明をやめるためには、ほぼ真円に近い他者を受け入れる作業が必要だ。
そのほぼ真円に近い他者を受け入れる作業こそ、受容の本質なのだ。

育児ノイローゼになって子供を殺す親以外は、子供が育児書通りの存在ではなく、育児書通りに発達しないからといって、子を憎む親はいまい。

恋も同じだ。
偶像崇拝に生きる人以外、恋人が完璧じゃないからといって、別れを持ち出す人はいまい。
友情もまたしかり。

さて、私は真円通りの存在であることを自分に課してきた。
そしてそうでない自分を憎み、非難していた。

そうでない自分を憎む考えこそ妄想のへそであり、自分を非難する声こそが幻聴そのものであったのだ。

こう洞察しても、妄想や幻聴が全消しになるということは期待できない。
ただ、完璧でない自分を許すことによって、他人にとって居心地のいい人になることしかできないであろう。

それでもいいのだ。
私は居心地の悪い完璧な人である努力をやめ、居心地のよいありのままに生きる人を目指して生きることにしよう。


小黒金剛石 秋の彼岸特別号 ~視野狭窄サングラスを売りつけて信者にせよ~

2022-09-21 12:16:16 | しんぶんクロハタ並びに小黒金剛石
合い言葉は、「視野狭窄サングラスを売りつけて信者にせよ。」

宗教なんかに飛び込むやつは、依頼心が強いかまたは孤独な人々だ。

そもそも世界観なんてものは、自分が生きていくうちに自分でつかみ取っていくものなのに、依頼心の強い人々は、出来合いの世界観を学んで、それで世の中をうまくしょっぱく渡っていこうとする。

孤立していなければ、困ったことがあっても、周囲が助けてくれるのに、元々孤立しているから、そういう周囲の援助が期待できない。

それで逆恨みして、おかしなことをしでかし、ますます孤立していく。

そして生まれ持った良識以外で物事を見るような視野狭窄サングラスを会費込みで売りつけられ、または出来合いの思想的隣組に満足して、元々の生き方のゆがみに拍車をかけていくのだ。

さて、宗教二世だが、哀れなのはこの人たちだ。
生まれつき狂信的な親に狂信的な生き方を強制され、同じ教団以外の子弟とは遊べなくなる。

そして世の中をステレオタイプで割り切るように洗脳され、それ以外の生き方は邪道だと決めつける。

ここで親と縁を切るつもりでそんなカルトから離れるか、カルトの子弟と愛のない結婚をして、自分の三倍もひどい被害者たち作りに狂奔するか二つに一つだ。

それが宗教。
仏教にしたってキリスト教にしたって、はたまた儒教にしたって、あんなものはカルトだ。

国家神道にしたって国家ぐるみのカルトだ。

小ずるいのは民衆で、戦前、そんな国家ぐるみのカルトに洗脳されたふりをして生きていた。

マッカーサーはアホなのだ。
我々のご先祖様は、あんな国家ぐるみのカルトを信じ込むほどアホではない。
だまされたふりをしていたから、即座に旗色を変えたのだ。

その末裔がネトウヨであり、思想のベクトルが百八十度ひっくり返ったのがブサヨだ。

とにかく、何らかのメリットがあるからカルトに洗脳されるのだ。
読者の皆さんも、カルトにだまされたらどんなメリット・デメリットがあるか考えてみるがよい。

以上である。