普通って何?
普通の定義がわからない。
当たり前だ。
普通は自明なものだから。
当たり前だからこそわからなくなる普通。
普通の集合の中に生きていながら、普通からはみ出した感じ。
思春期のメタモルフォーゼ以降、よっぽど鈍感じゃない人でない限り、普通に生きて行きながらも、
「あ、自分は普通からはみ出している。」
そんな勘違いを持ちながらある年まで生きていくのだ。
あるメンタルの専門家はいう。
「正気の証明ほど、滑稽なものはない。」と。
正気の証明。
自分は普通じゃないという勘違いを抱いた瞬間から、人は自分の定義した普通にしがみつく。
そして自分が定義した普通と、自分は普通じゃないという思い込みだけが、どんどん拡大再生産され、いつしか精神の均衡を失ってヘトヘトに疲労困憊していくのだ。
さて、定義された普通は理念世界にある真円だ。
真円は定義された世界にしか存在しない。
はっきりってしまえば、現象界にあるところの円は、すべてゆがんだ円なのだ。
なのに自分は真円でないからといって、ほぼ真円に近いありのままの自分を疎外し、真円である自分を生きようとする。
それが上に述べた、正気の証明なのだ。
正気の証明をやめるためには、ほぼ真円に近い他者を受け入れる作業が必要だ。
そのほぼ真円に近い他者を受け入れる作業こそ、受容の本質なのだ。
育児ノイローゼになって子供を殺す親以外は、子供が育児書通りの存在ではなく、育児書通りに発達しないからといって、子を憎む親はいまい。
恋も同じだ。
偶像崇拝に生きる人以外、恋人が完璧じゃないからといって、別れを持ち出す人はいまい。
友情もまたしかり。
さて、私は真円通りの存在であることを自分に課してきた。
そしてそうでない自分を憎み、非難していた。
そうでない自分を憎む考えこそ妄想のへそであり、自分を非難する声こそが幻聴そのものであったのだ。
こう洞察しても、妄想や幻聴が全消しになるということは期待できない。
ただ、完璧でない自分を許すことによって、他人にとって居心地のいい人になることしかできないであろう。
それでもいいのだ。
私は居心地の悪い完璧な人である努力をやめ、居心地のよいありのままに生きる人を目指して生きることにしよう。