成功した人間は、他者に自分を憑依させようとし、失敗した人間は、成功した他者を自分に憑依させようとする。
簡単に言えば、成功した人間は自分のコピーを作ろうとし、失敗した人間は他人のコピーになろうとするということだ。
それに気づいたとき瞬間、私は「あっ」と思った。
なぜ成功するかしないかわからない思春期や青年時代に、諸子百家や仏典、そして聖書の類いを読みふけったかだ。
私は結局自ら好んで他者のコピーになろうとしていた。
このいけもとてつこうという男は、天にも地にもただ一人。
その非常にユニークな人間である私が、なにゆえ、孔孟の類いや老荘の類い、さらには釈迦やイエスのカーボンコピーになろうとしたのか?
もっとも倫理道徳に外れたことをすれば、仲間からの制裁が待っている。
リンチに遭ったり笑われたりいろいろだ。
が、別段私は刑死者になろうとしているわけではない。
そうでない限り、私が私自身に自己憑依しても、何の不都合もあるまい。
なぜ、私が赤の他人のカーボンコピーになろうとしたのか。
それはあまりにも定型発達者から、私のあり方に物言いがつき、いい加減に頭にきていたからだ。
自分にも似たような欠点があるくせに、なにゆえヒトをやり玉に挙げるのかという怒り。
それと聖人君子のまねをすれば、定型発達者から、いちゃもんをつけられずにすむという判断からだ。
が、合わせなかったらいちゃもんがつけられる、合わせてもいちゃもんをつけられるで、どうすりゃいいのよ、定型ちゃんと悩んでいるうちに、心身が故障したわけであるが。
さてさて、話を元に戻すが、自分に誰かを憑依させるということは、精神的なマウンティングを他者に許可するということだ。
他人にあやかろうとするヒト以外、これはマウンティングされる側にとっては、非常に不愉快なことだ。
はたまた他人にあやかるということは、他人の世話になって生きるということだ。
いずれにせよ愉快な生き方ではない。
そんな生き方はやめようと思った。