目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀の独り言です。

頑張ってここを切り抜けて、楽しい未来へ進もう。

2022-09-28 09:26:22 | いけてつ独り言
意識のベクトル。
つらいことがあった。
ここから逆戻りして、楽しかったあの時代に戻ろう。派と、
頑張ってここを切り抜けて、楽しい未来へ進もう。派に、分かれます。

頑張ってここを切り抜けよう派は、切り抜けた体験を自分の肥やしにしますから、そこからまた、頑張って前に進んでいけます。

フロイトはそのことを言っていたのですね。

おお、
IKMTやっとそのことに気づいたよ。

つらいことがあっても逆戻りするのではなく、前に進んでいきましょう。
そう心に決めたIKMTであった。



自分の性格に合った生き方をしていますか?

2022-09-26 08:01:02 | いけてつ独り言
自分の性格に合った生き方をしていますか?

自分の性格とは違った生き方を強制されれば、それは厭世的になるのが当たり前です。

私は孤独を好む人間。
あんまり人の群れには入りたくない人間です。

それなのに、組織化と称して、人の群れに巻き込まれれば、それはアレルギー反応を示します。

組織に入れば、困ったちゃんのお守りをしなければいけないし、たちの悪い人間に小突き回されるし、いやなことばかり。

それでアレルギー反応を起こして、人と距離をとりたがるような症状を出す病もあると、昔読んだ精神医学書に書いてありました。

パリピはパリピで生きていけ。
私は一人でのんびり生きていきます。

自分がバリピなのか、孤独を好むタイプなのか知っておいた方がいいかもしれません。

孤独を好む人間にとって、パリピはノイジーすぎます。

今日は天秤座の新月。
IKMTの太陽とは百二十度の吉角を作ります。
なんかいいことありますように。


信仰内容を悔い改める。

2022-09-25 11:37:05 | いけてつ独り言
私はこんな信仰を持っていた。
悪意ある他人の群れが私に害悪を与える。と。
そしてその頭目がエホバだと決めつけていた。

つまり被害妄想と転倒妄想こそが私の信仰だったのだ。

が、今年の二月に母が入院して、関係各位の皆さんの温かい真心に接して、私の信仰、すなわち被害妄想が誤りであったことに気がついた。

それにエホバが私をいじめる連中の頭目であるなら、とっくに私は息の根が止まり、即座にゲヘナに落ちるであろう。

が、こんな信仰は誤りだ。
こんな信仰は誤りであるから、悔い改めなければいけないと思った。

読者の皆さんも、こんな誤った信仰は持ってはいけませんよ。

今日のお江戸は晴れ

2022-09-25 10:08:13 | いけてつ独り言
今日のお江戸は晴れ☀
台風一過のとてもいいお天気です。
朝の十時を過ぎたから、そろそろお洗濯しようかな?
ここのところ雨続きで、洗濯物がいっぱいたまっているから。

そんなわけでございます。
さあ、洗濯でもするか。
そんなわけでございます。

それでは皆様、よい日曜日をお過ごしくださいね。


居心地の悪い完璧な人より、居心地のいいちょっと抜けた人でありたい。

2022-09-21 21:42:49 | いけてつ独り言
普通って何?
普通の定義がわからない。

当たり前だ。
普通は自明なものだから。

当たり前だからこそわからなくなる普通。
普通の集合の中に生きていながら、普通からはみ出した感じ。

思春期のメタモルフォーゼ以降、よっぽど鈍感じゃない人でない限り、普通に生きて行きながらも、

「あ、自分は普通からはみ出している。」

そんな勘違いを持ちながらある年まで生きていくのだ。

あるメンタルの専門家はいう。
「正気の証明ほど、滑稽なものはない。」と。

正気の証明。
自分は普通じゃないという勘違いを抱いた瞬間から、人は自分の定義した普通にしがみつく。

そして自分が定義した普通と、自分は普通じゃないという思い込みだけが、どんどん拡大再生産され、いつしか精神の均衡を失ってヘトヘトに疲労困憊していくのだ。

さて、定義された普通は理念世界にある真円だ。
真円は定義された世界にしか存在しない。

はっきりってしまえば、現象界にあるところの円は、すべてゆがんだ円なのだ。

なのに自分は真円でないからといって、ほぼ真円に近いありのままの自分を疎外し、真円である自分を生きようとする。

それが上に述べた、正気の証明なのだ。

正気の証明をやめるためには、ほぼ真円に近い他者を受け入れる作業が必要だ。
そのほぼ真円に近い他者を受け入れる作業こそ、受容の本質なのだ。

育児ノイローゼになって子供を殺す親以外は、子供が育児書通りの存在ではなく、育児書通りに発達しないからといって、子を憎む親はいまい。

恋も同じだ。
偶像崇拝に生きる人以外、恋人が完璧じゃないからといって、別れを持ち出す人はいまい。
友情もまたしかり。

さて、私は真円通りの存在であることを自分に課してきた。
そしてそうでない自分を憎み、非難していた。

そうでない自分を憎む考えこそ妄想のへそであり、自分を非難する声こそが幻聴そのものであったのだ。

こう洞察しても、妄想や幻聴が全消しになるということは期待できない。
ただ、完璧でない自分を許すことによって、他人にとって居心地のいい人になることしかできないであろう。

それでもいいのだ。
私は居心地の悪い完璧な人である努力をやめ、居心地のよいありのままに生きる人を目指して生きることにしよう。