昨日の朝と昼のテレビで520人の犠牲者を出した日航ジャンボ機墜落から27年、慰霊行事の報道を見た。もう27年かと感慨にふけった。
墜落時刻は午後6時56分とあるので、この少し前かジャンボ機が行方不明との一報を、車のラジオで帰宅途中に聞いて、事故なら大変な事故になるなと、心配しながら帰宅した。
家についてテレビで続報を見ていると大変な事故に発展していった。
当時の私の職場は家から近くで、お盆休みを社員に取らせ、最低の保安要員で公共サービスのプラントや家庭機器の保守を担当していた。特定地域の責任者だったのでお盆期間中に雷や事故のないことを願った。
昨晩の夜7時のテレビはニュースも飛ばして、オリンピックのマラソンを放映した。中本健太郎選手の6位入賞はご立派です。おめでとう。
マラソンを観て27歳の若さで自ら命を絶った長距離ランナー円谷幸吉(つぶらやこうきち:1940~1968)選手を思い出した。
そこで、昔の新聞の切抜きを引っ張り出して再読した。いつの朝日新聞か不明ですが「時の墓碑銘(エピタフ)」で朝日コラムニスト小池民雄氏の記事です。その概要の引用です。
“ ・円谷選手は東京五輪のマラソンで、エチオピアのアベベ選手が独走し優勝、2位に円谷選手が国立競技場に苦しそうに現れるが、英国のヒートリー選手がスタンド前で追い抜き、円谷選手はもう追い返す余力はなく3位に入賞する。
・これが日本陸上界唯一のメダル獲得だった。彼は輝かしいヒーローに祭り上げられ「次ぎのメキシコ五輪を目指します」と宣言した。
・その4年後、メキシコ五輪の年、円谷選手は自ら命を絶った。故郷の福島県須賀川市で一家そろって正月を過ごし、東京の自衛隊体育学校宿舎に帰ってからのことだった。その遺書には
「父上様母上様 三日とろゝ美味しうございました」と始まり、「敏男兄姉上様 おすし美味しうございました、勝美兄姉上様 ぶどう酒、リンゴ美味しうございました」と延々とつづく。
しそ飯、南ばんづけ、ブドウ液、養命酒、モンゴいか、と挙げていく。
・須賀川市の円谷幸吉記念館にこの遺書が保管されている。コクヨの便箋に万年筆で、達筆とはいえないが、流れるように、よどみなくつづられている。甥や姪の名前を列挙していくなかで、2ヶ所書き直しがあった。ひとりひとりの顔を思い浮かべながら書いていったのであろう。
こう結ばれている。「父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません、何卒 お許し下さい」「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」
・死の原因がさまざま取りざたされるなか、「傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であった」と記したのは三島由紀夫である(産経新聞)。
・遺書を読んだ川端康成は「千万語もつくせぬ哀切である」と評した。
「美味しうございました」という繰り返しを「ありきたりの言葉が、実に純ないのちを生きている」。
いつまでも心の奥深くで反響をやめない長距離ランナーの生と死である。” と、日本中が泣いたのです。
最近見た映画、「三丁目の夕日64」の映像と重なってきました。
マラソンを最後まで見て、その後の女子団体新体操が、健康美そのものの女性たちの集団演技で見応えがあった。ちょっとしたサーカスのようだった。ロンドン五輪ももう終わる。