写真は2011.9.2日の朝日新聞の全面広告、出版社「宝島社」の公共広告です。
「いい国つくろう何度でも」、印象的でいいキャッチコピーですね。昨年、東日本大震災で打ちひしがれた日本人に訴えたものです。
その紙面に、終戦後の1945年(昭和20年)8月30日、降伏文書調印に先立ち、専用機「バターン号」で厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー元帥の写真を掲載しました。
懐かしいですね。とうもろこしの芯をくりぬいたコーンパイプをくわえ、アルミパイプのタラップを降りるマ元帥のこの写真、その後なんどもなんども見ることになりました。
印象的広告だったので、保存していたのがこんなことで役立ちました。
今日は第67回終戦記念日。あの終戦当時に比べれば、日本人は暖衣飽食、贅沢三昧で堕落して、極楽トンボのような豊かな生活をしています。昨日の私はゴルフコンペでした。
こんな贅沢な生活ができることに感謝しなければなりません。
兵隊にとられ、人間扱いされず、立派に戦って死ぬことを美徳として戦死していった多くの兵士や、戦争で犠牲になった多くの一般国民、いうまでも無くこうした犠牲者の上に、今の私たちの暮らしがあるのです。
67年前の、私は国民学校(小学校)の2年生でした。その日、夏休み中だったはずで、臨時登校を召集されたのか、確かな記憶ではありませんが先生から、「正午に天皇陛下が大切なお話をなさいます。家へ帰ったら、ラジオを聞くように・・」と、言われて異様な雰囲気でした。
2kmくらいを歩いて帰宅し、当時ラジオのある家は集落でも限られていたので、その家へ「ラジオを聞かせて下さい」と、大人も子供もたくさん集まりました。
その家は縁側を開け放し、子供は外で「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・と例の玉音放送を聞いたのです。大人たちは異様な雰囲気で、戦争が負けたことを知りました。
占領軍が上陸すると、女子供はみな岩に叩きつけられて、殺されてしまうのではないか、などと、恐ろしいことを話していました。
国民学校の同級生は40数名で、その内2名の女生徒の父が戦死されています。ひとりは私の亡母の甥でした。高校の同級生にも何人か戦争遺児がいます。
遺児たちは戦後苦労して育ち、そして生きてきました。そのうちひとりは、いま遺族会などの世話役などの活躍をしています。
野田総理が今日靖国参拝をされないのは残念です。国のために戦死された兵士の御魂の鎮魂のため参拝するのは当たり前です。中国や朝鮮に何の遠慮が要りましょう。政治宣伝や内政干渉は無視すべきです。
私は8月15日の正午の慰霊祭の実況放送にあわせて、いつもこの級友達の父の御魂に黙祷をします。
「いい国つくろう何度でも」、私達の世代は残り少ない人生になりましたが、いい国を次世代のためにつくらねばなりません。