「昭 田中角栄と生きた女」著者 佐藤あつ子 講談社 2012・3刊
著者は“昭和32年生まれ55歳、田中角栄と佐藤昭の娘として東京で生まれる。(認知されていないため、戸籍上の父は別にいる)慶応義塾大学2年退学、文芸春秋2011年11月号で発表した「田中角栄の恋文」が第73回文芸春秋読者賞を受賞した。“
「越山会の女王」と呼ばれた母とオヤジ・田中角栄が私に遺してくれたこと、三回忌を前に父母の素顔を娘が語る なぜ母は私を生まねばならなかったのか”(帯から)
昭は角栄の有能な秘書で「越山会の女王」といわれ、また愛人でもあった。
本の出版後、朝日新聞元政治記者・コラムニストの早野透氏が朝日に、「田中角栄再考」を書いて、この本について「赤裸々な角栄私記である。首相として外遊中の田中が、あつ子に送った愛情あふれるはがきを読むと、何も知らずにオモテの田中を追いかけていた政治記者の私は不思議な感慨を覚える。淋しきは角栄その人だったのか」と書いた。
著者はあまりにも有名な父と、表には出ない出生の秘密の重圧に悩み、母との関係が円滑にとれなくギクシャクし受け入れられない。母の越山会の女王の娘からひたすら逃れようと、慶応女子高の頃からリストカットを始め、いくつかの恋愛にのめりこみ、愛人の前で包丁で腹を刺したり、大学2年の頃は神戸のホテルの最上階の部屋を予約し、大阪府警へ出向していた知人の警察官僚に「これから飛び降り自殺するので、発見してほしい」と電話した上で、ホテルの5階から投身自殺未遂まで起こす。木の枝に引っかかって奇跡的に骨折くらいで助かった。
本は平成22年3月、81歳で肺がんで亡くなった、母、昭の臨終の床へようやく付き添うが、母は莫大なお金もすべて無くして、質素な家族葬で送る序章から始まっていた。
あとがきでは本の構成をなど一部を、ルポライターの協力を得たと書いているが、母と娘・オヤジの関係を赤裸々に書き、文章も読みやすく、珍しく愛らしい写真も多く一読の価値ある昭和史の1冊だった。彼女は父を一貫してオヤジと書いている。
角栄さんが絶頂の頃、選挙応援にヘリコプターで全国遊説の途中浜松へ降り演説された。
当時私は浜松に長期出張中で、同輩と是非本物を拝見したいと、演説を聞きに行ったことがある。
豊かな気候温暖の静岡と、出稼ぎの故郷越後を比べ、国土改造計画を迫力あるダミ声で訴えられた。
それから間もなく昭和49年11月号の月刊誌・文芸春秋に立花隆が「田中角栄研究--その金脈と人脈」を、児玉隆也が「淋しき越山会の女王」を書き、「昭」の存在が世間に知られて、これが元になってオヤジは退陣に追い込まれていった。
この雑誌を私も買って読み、所持していたが数年前、もう角栄でもないだろと廃棄して、今惜しいことをしたと思っている。