たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

さようなら原発集会

2012年08月11日 | 日記

朝、近くの開業医に行き診察はなくてもよいと希望し、前立腺肥大・排尿障害改善薬ハルナールを処方してもらいに行きました。5月下旬膀胱がん定期検診で、膀胱鏡検査の際膀胱内が濁って写真に撮れなかったためです。膀胱鏡は水を注入して膨らませて診るので、その水を抜きようやく目的を達しました。
その際2週間分の薬を処方され、後は地域連携で開業医に投薬の紹介状が送られました。そこで28日分を処方され、これが無くなったからです。

最近とみに夜間頻尿が顕著で悩んでいます。直腸切除の後遺症でもあるのです。この薬はブラダロンです。膀胱の筋肉を柔らかくし尿を溜める薬です。ハルナールと逆の作用でバッティングするのではないかと、薬剤師に聞きましたら「そうでもない」と言いました。両方を併用してよいということです?これは顕著な薬効が感じられなく今は貰い残りをたまに飲む程度です。

その後喫茶店へモーニング兼昼食です。その足で16~7kmあるホームコースへ練習の気晴らし、運動に行きました。かんかん照りなら近くに2時間1,200円の屋内練習場へと思って・・。コースは野天で2時間1,050円です。
例のバッグを持って行きました。スタート係りは皆このバッグのことは知っていました。先ごろプロテストの2次予選を10位の好成績で通過した男子研修生M君は「高価なバッグなのです。修理すると買うほどの金額と言ったでしょう」と図星でした。彼のファイナルテストは8月下旬、片山津GCにて行われます。彼は指定練習日に初めて行くだけで、事前チェックプレーはやったことが無いと言いました。4ブロックの勝ち残り20名ずつがしのぎをけずります。頑張ると言いました。

帰宅して入浴して4時頃テレビで消費税参議院採決の中継を見ました。何人かの若手政治家が賛成・反対討論をしました。どの人もイマイチ迫力・表現力が感じられません。堂々巡りの裁決は寝込んでいて終わっていました。

そうこうしていたら、メールが入りました。図書館から貸し出し予約していた「佐藤あつ子著『昭』田中角栄と生きた女」を貸し出しできるとの案内です。
5月に新聞書評が出揃う頃、未だこの本は無かったので購入リクエストの伝票を書いて窓口に提出すると、司書が調べてくれ、既に購入手配中ながら先客予約が5人もという有様でした。

6時頃行くと、駐車場にパトが止り警官3人、うち2人が若い女性の車の下を腹ばいになって両窓を開けさせ前進の誘導をしています。子供でも巻き込んだかと見に行くと、猫が後ろ足を引き摺って走り出ました。女性に「猫踏んじゃったの」って聞くと、「いえ、下へもぐりこんできて動かなくなったの」って。

警官らは藪まで足を引き摺って行ってへたり込んで、動かなくなった猫の足に絡まっている、紐なのか針金ではありません、何かの植物繊維なのか何重にも巻いたのを「噛み付かれるかな」と恐る恐る取り外しにかかりました。

「怪我して骨折してるなぁ」と助けにかかりました。女性は110番したのではなく、おり良くパトが通りかかったとのこと。館の閉館時間が切迫していて現場を離れました。猫虐待かも知れません。その後この猫をどうしたか、館を出ると皆の姿はありませんでした。

その代わり、公園の一角に人だかりが100人くらい、スピーカーで何か叫んでいます。路上パフォーマンスが時々ある公園なので見に行きました。

何と!「さようなら原発各務原集会」のデモ隊でした。「ほほう!わが町も反原発集会かいな」とつぶやくと中年男性が「私も40年来始めて見た光景です」と、そして若い男性が団扇を持って手書きした、メッセージを私にかざして見せてくれました。
パトが後ろにつき行進が出発しました。と、小学生の女児が走り出て介添えの男性が後ろにつき、私にメッセージビラをくれました。
先頭集団は女性4、5人で浴衣姿です。1人の若い子が団扇にメッセージを貼り読み歩きしながらハンドマイクで「私たちは原発銀座福井から風船千個を飛ばしました。そのうち○個が市内の○、○、○に落ちました」と宣伝します。

そして「では!シュプレヒコールを!原発反対!原発要らない!大飯反対!自然を守ろう!子供を守ろう!と繰り返して行進していきました。約50人です。毎週金曜日18時から19時に集会と、わが町は東京並みになりました。


九万九千日縁日

2012年08月10日 | お寺参り

昨日は継鹿尾(つがお)の観音様、犬山寂光院の九万九千日の日です。1年で一番暑い日8月9日の縁日です。酷暑のお参りで功徳が九万九千日お参りしたと同じ功徳がある日とされます。
朝、定例のブログを投稿し午前10時の護摩供養に出発が遅れ、途中スーパーで昼食の稲荷寿司を1パック求めました。
境内は急峻な山の中腹にあり駐車場も狭く、下の木曽川沿い公共駐車場に車を止め、歩いて20分ほどで庫裏前、受付事務所です。
300円の志納で護摩札にご朱印を押してもらい護摩木に名前を書いてもらいます。

そこから山の上の本堂前までが胸突きの300階段です。昨年この階段に閉口して1本レールのモノレールが作られました。レールの基礎は建築工事現場で見るパイプ足場で構成されています。定員は6人、最大荷重は360kgで2人は立って4人は座席と小さなワゴン車に乗れるようになりました。正月に行ったときはおじいちゃんのお手伝いが運転されましたが、今度行ったら全自動のデパートのエレベーター式セルフシステムに改善されていました。
それと片道200円を乗車前に志納するようになっていました。
肺を3分の1切除の身で肺活量が8割なので登りはモノレールに乗せていただきました。
本堂では11時からの2度目の護摩供の般若心経の真っ盛りで、少し唱和しました。

午後から「ひろ さちや」氏講演会です。1時からなので300段の急階段を歩いて降り、500円の整理券を求めます。3千円以上のご祈祷をお願いし、記念品を貰った参詣者と千手会員は無料です。講演会場の聖徳殿へ移動し1階の休憩所で持参の弁当を遣いました。
小1時間ゆっくり休憩して、講演会は先生の到着が送れ12分遅れで始まりました。聴衆はいつもより少なく300~400人くらい。

演題は特にありません。先生の妹さんと同居の母親が1月15日に96歳で亡くなったことに由来し、浄土について、奇しくも手次寺の盆会のお説教と同じ演題になりました。
ひろ先生は大阪の浄土宗のお寺の出自で、浄土は氏の宗派本来の宗教思想です。

母上は戦死された夫の50回忌法要をやられたそうで、連れ添いの50回忌の法要をやるケースは少ないとのこと。
すなわちご母堂は夫とは30歳のとき死別、夫は兵隊に取られ強制労働に駆り出され生死不明で、昭和21年に戦死したことにされた、というご不幸を背負って生きてこられた。

ある時大阪のお墓が戦火をくぐり、割れて針金で括ってあるような墓なので、ご母堂が造り替えたいと希望されましたが、「そんなとこに父ちゃんはいませんでぇ。浄土へ行っておられる。お墓の作り替えは必要はない」と、大阪から京都のあるお寺へ墓を移された。

その寺はひろ先生の講演会もやってくれていて、その縁で2千万円を寄付した。「なに、後で20回も講演会に招んでくれれば元は取れます」と、あっけからんと話されました。ここで聴衆は少しどよめいたが、先生クラスとしては妥当な額でしょう。

ボケる前にと、96年ご母堂80歳の頃親子の間で、浄土へ何をお土産を持って行くかと話した。他家を訪ねる場合も手土産を持つ、さて浄土へ何を持っていくか・・と。

今日のお話しのメインでした。倶会一処(くえいっしょ:ともに一つのところで会う)、浄土へ帰って、夫と会うとき何をお土産にするか?

講演の最後に種明かしをされ、物や金を持っていくことは出来ない。土産にもっていくのは「思い出」、この世での苦労の体験をお土産に持っていく。
20歳で夫と結婚、21歳でひろ先生を、さらに5人の子を産み育ててきた、この世の苦労の思い出を土産に、夫のいる浄土へ持っていくのであると・・。
実際生活では、浄土も地獄もこの世の心の中につくると話されたが、数日前のてつぎ寺の説教でも同じ内容でした。
てつぎ寺の参詣者のおばあさんは「今日ここにいることが極楽や」と問答されました。それが正しいと僧が答えられましたが、浄土(極楽)も地獄も心の中にある。この世の心の中に浄土を持ちましょうと結論された。
キリスト教徒は天国・仏教徒は浄土へ往生する。「往きて生きる」のである。往相回向、還相回向(げんそうえこう)で、仏教は「人間は生まれ変わり、死に変りして、やがて仏になる」(歎異抄入門:梅原猛)教えなのです。
 


盆会

2012年08月09日 | お寺参り

こども達の夏休みは半分を過ぎました。来週はお盆です。週末から古里のある人は故郷へ帰省し、お待ちかねのお婆ちゃん、お爺ちゃんと再会できるかな?

現職時代に俺は本家なので古里はなく、お盆はお墓参りに帰省する親戚の、お接待に疲労困憊すると、嫁の愚痴を代弁する同輩もいた。

先日、85歳にもなった姉から今年は母の初盆なので、在所の兄に遠くの兄弟を呼ぶよう話した。近年介護に家族中が振り回されていたので、帰省は遠慮せよといわれていた。
兄はお前からそう電話してくれと姉に言ったので、来れるかということだった。

もう歳も取ったので、若い親戚家族を優先してくれ、特に子供の時によく来てくれて、葬儀にも親戚を何人も同乗させて名古屋からトンボ帰りした、弟の長男一家を招待してやってと頼んでおいた。
この家族の今春小学1年に上がった亡母のひ孫と幼稚園の女児が、夏休みの思い出づくりになるのでないか、と言っておきました。

古里の実家の傍を清流飛騨川が流れていて、今は上流にダムでせき止め、下流の発電所へ、山を掘ったトンネルの導水路で流していて、私らが子供の頃の豊かな水嵩ではないが、こどもの水遊びには絶好の環境です。虫取りもできるでしょう。

私は10月に平湯温泉で高校同窓会があるので、そのとき寄らせてもらうと言っておきました。

6日と7日は菩提寺の「盆会法要・納骨塔法要・夏のお文拝読」でした。
ゴルフコンペに参加したり、午前中くだらないブログのアップでご無礼し、7日の午後から最終の法要にお参りしました。
受付は庫裏、すなわちお住まいの玄関で、大坊守の奥様が出迎えられたので、お盆のご挨拶と些少の御布施をお持ちしました。

義理堅くお返しは、お寺の紋章入り特性落雁とペットボトルのお茶とお決まりです。
説教師は近くの同門の中年のご住職で「お浄土とは」どう具体的にイメージするかというお話しでした。

付録)昨日の記事で、貰ってきたキャディバッグを修理できるか、販売元の神戸・ワールド社へメールで問い合わせているが、返事がないと悪態をついていたら、夕方5時頃電話で回答がありました。キャディバッグを修理できるか、出来るならその修理費概算をと、問い合わせたが、ワールドもこんな問い合わせには面食らった模様だった。
急いで記事を再編集・修正し、その回答模様を追記しました。ワールド様ありがとう。ご無礼深謝です。


懐かしのアイアンセット

2012年08月08日 | ゴルフ

昨日のつづきです。ホームコースからただで貰ってきた、adabat(アダバット)猟犬マークのキャディ・バッグなかなか格好いいいでしょう。
ところが「よく見れば なずな花咲く 垣根から」と、よく見たり、カートに積むと誰でも、「これ何?」って必ず聞くでしょう。下のほうにガムテープで補修してあるのですから。
そのときは「聞いてくれるな、おっかさん。ゴルフのスゴアと同じで、わけありよ」って言ってればいいのです。実用性は問題ないので・・。

販売元のワールド社に修理は可能か、ホームページからメールで問い合わせています。
多分修理は底部分を外して取替えと、ポケットを取替えなんて、修復可能でしょうけど、そこそこの金額になるでしょうし、現状のまま使うのが一番利口でしょう。

もう一つのバッグ、これもお値打ちだったのです。もう7年くらいになりますか、名古屋へ級友の病気見舞いに行く途中、時間調整で立ち寄った中古店で、中古バッグを見つけました。
それがこのブリヂストン製です。これは少し型は古いですが、販売ステッカーに「シッカリしたつくり」とステッカーが貼ってあったとおり、アスリート向け製品なのです。横に英文でそう書いてあります。
これが何と1,980円でした。掘り出し物です。
キャディバッグは立てたときベース・底がふにゃふにゃして、倒れる製品は駄目です。
底とバッグ自体が堅牢でしっかりしている製品はいい品物です。これはコースのバッグポーターさんの意見と同じです。

ついでに持っているゴルフクラブの虫干しをしました。出てきたのは
・ドライーバー 7本、パター7本、
・サンドウェッジ1本(タイトリスト・ボーケー・ウエッジ:著名ないい製品ですが重くて使えません)
・ファウエイウッド #3W 2本 #4W 1本 #5W 1本 FWは私の得意クラブです。
・アイアン 3セット とプロ並みです。
貰ったものもありますが、アイアンは何回か買い替え残っているのは

 ・ブリヂストン・レイグランデ 10本セット 平成4年新品で購入、定価22万円 初期の頃のキャビティ・アイアン 振りを主体の初心者・老人向けです。80歳になったらまた使うね。
  
 ・ブリヂストン ツアーステージ TS-202 9本セット 今でも使っている名器です。2002年頃の製品。この製品は5年ほど前、中古を5万円で求めました。本格形状ながらボールがよく上がり、打ちやすい製品、フェース部分は1枚のステンレスの板、周囲は軟鉄鍛造のボディをくっ付けてある製法で、ソールにはタングステンウェイトが入れてある、いわゆるポケットキャビティという凝ったつくりの製品でお気に入りのセットです。
 
 ・ヨネックス・サイバースター・エアロン3000 8本セット これは2004年に新品で講入75,000円。これを2万円で下取りに出し、上のTS-202を買ったのです。
これが懐かしくまた最近の6月に16,800円でネットで中古を求めました。ボテッとしていますが中に空気が入っている中空クラブです。打ちやすく距離が出ます。
  

古い製品は中古店も取ってくれないし、捨てるには未練があってだんだん増えていきます。
ゴルフクラブはメーカーは開発に凌ぎをけずり、最近はコンピューターで設計されるようです。アイアンはそれほどでもありませんが、ドライバーは新型がやはり進化してくると言われます。
ボールの凹凸、これが無いつるつるボールは全く飛びません。ボールの凹凸、ディンプルの設計に飛行機会社の空力の専門家が参加して開発されるとも言われます。

「昔、道楽、今は趣味」と言います。山登りを趣味とし、時に命を落とされる人がいますが、おそらくご本人は納得死でしょう。

付録)期待していなかったワールド社から、記事をアップした半日後に、電話で回答がありました。
その内容は、「私どもはアパレルを中心に雑貨商なので、製造元へ問い合わせていたので返事が遅くなったこと、バッグも衣類と同じ季節商品なので、同じ生地のポケットが、作れるかわからない、それでも修理を希望するか」ということでした。
お手数をかけたことを謝し修理は辞退しました。「少しの火種で簡単に燃えることに驚いている」、由でした。さすが年商3000億円のワールドさまに感謝です。


よく見ればなずな花咲く・・

2012年08月07日 | ゴルフ

よく見ればなずな花咲く垣根かな 芭蕉

昨日は夏のゴルフコンペでした。終わって高級キャデイ・バッグを貰ってきました。写真のとおりです。賞品かって?違うのです。ゴルフ場の何かのコンペの商品?違うのです。

昨日の朝方は今にも降ってくるかという曇天で雲が厚い。その前の日の夕方珍しく夕立があって、人も野菜畑もひと息つきました。
ゴルフ場につくとパラパラ降り出したが、スタート前には止み、そのうちだんだん晴れてきてやはり暑くなりました。
プレーが終わって2時半頃大夕立が来て行儀のいい日でした。今日のコンペは雑役の役員なので上がったら風呂にも入れるよう一番スタートの組、暑いせいで参加者はわずかに9名と寂しい。

ネットで購入した中古アイアンでラウンドするのは今日で2回目、使い勝手は分っている。前に使っていた製品だからです。この暑いのに鳥かごの練習も何回もしっかりやりました。

同伴者は幹事さんと、元会社の先輩80歳に手が届くシングルさんの3人。幹事さんだけ70歳未満で白杭から、この方はよく飛ばすし曲がらない。私と先輩はゴールドティです。

相変わらずドライバーは飛びませんが、アプローチがうまくいき、アウトは45と上出来。昼食を挟んでインは47とこれも上出来でした。グロス92と4位に入賞でしたが賞品はありません。

楽しいコーヒーパティも終わって散会、清算を済ませバッグ等を車に積み込んで、一服しようとスタート係りの方へ行く途中、誰かのゴルフバッグが通路に転がっている。
あれっ、こんなところにと、折り良く通りかかった女子研修生のYちゃんに「バッグが倒れているよ」と、声をかけると、このいつも愛想がよくメンバーに人気者のお姉さんがニコッと笑って通り過ぎ何も言わない。
不審に思ってスタート係りのところへ行き、3人の男子従業員に、「お客さんのバッグが倒れているよ」、と声をかけると現場へ3人が来て確認してくれました。

その1人がバッグを取って起こして裏側を、「これ見て・・」、アララ何と?このきれいな新品同様のキャディバッグが、下の方のポケットが少し燃えて焼け焦げているではないの。
「なに?これ?どうしたの」、相手の1人は、「話せば長いことながら、お客さんがちょっとしたアクシデントで火が出て燃えたの・・」、「で、そのお客さんが捨ててって、置いていて行ったの・・。4万円もする高級バッグですが捨ててあるのです」、「あっら!まあなんと!」。

「これ貸しクラブ用の収納バッグに再利用するといいよ」って言ったら、「もう、このゴルフ場にはレンタルクラブも、レンタルシューズも置いていないので要らないのです。粗大ゴミで捨てるしかない・・」、「ン、まぁ、なな何とモッタイナイ?」。
「捨てるなら俺にくれるかね、セカンドクラブや不要クラブの収納バッグに使うよ」って言ったら、「どうぞ、どうぞ、どうせ捨てるものなので・・」と、いうわけでキャデイ・バッグを貰ってきました。 
分りやすいように写真に撮りました。分りますね。よく見ればッて・・芭蕉の句の意味が・・。
ところでこのデザインの優れた「adabat」(アダバット)製品はどこの社の製品でしょう。この猟犬・ポインターマークはどこかで見たなぁ。

帰宅して小一時間ネットで調べました。分りました。神戸にあるアパレルメーカー「ワールド」社製です。
ワールド社には、昔、同級生の息子さんが東京の有名某私立大学・経済学部を出て、ワールド社に就職したと言っていた。この級友は岐阜市でアパレル・婦人服の製造販売をやっていて社長でしたが、今はこのワールドにいた息子に社長を譲っています。
息子の就職当時、ワールドは家業が競合する業種なので、決して営業部門には息子を配属させないといっていた。Wikiで調べると数年前この不景気に3千億円を売り上げているらしい。
どうりでデザイン性に優れたキャデイ・バッグだと納得しました。
今朝、写真に撮りクラブを納めてみると、不要クラブや・セカンドクラブを収納する倉庫用品にはモッタイナイない感じです。当分エースバッグとして使ってみようと思います。

ゴルフ場の従業員や前の所有者が見たら何と思うでしょうか?
ゴルフカートに積むと目立ちますが、チョット目には分かりません。タオルで目隠しします。
  


読書 アンネの日記3

2012年08月06日 | 読書

土曜日、久しぶりに図書館へ行きました。長いこと借りた本『アンネの日記を』返本するためです。6月下旬に借りて1ヵ月半も貸し出し延長の手続きもせず横着しました。
皮膚科へ行ったとき、バッグから若いナースさん二人に本を見せたら、「図書館の本?」、「そう、もう返さなきゃ」、「返本の督促ハガキがきますよ」、と問答しました。

2003年4月出版のこの増補改訂版(文芸春秋社)は600ページもあって根気にボツボツ読了しました。
最後の日記は1994年8月1日に終わっています。その4日後誰かが密告し、秘密国家警察が隠れ家に踏み込み全員逮捕されます。
なぜ逮捕されるのでしょうか。何か悪いことでもしたのでしょうか。理由は彼らがユダヤ人だったからです。どうしてもこの謎が私には理解できません。なぜユダヤ人であることがいけないことなのでしょうか。

第二次大戦でドイツ人がナチズムという思想で、ユダヤ人を600万人も虐殺しました。
私はこの事実でどんなにドイツ人が有能な人種であっても、決して許されないことで、ドイツ人を今後も好きにはなれません。
翻訳者はあとがきで人間相互の異質さを認め合う、尊重しあうための手がかりと言っていますが、異質さへの不寛容といった思想・宗教観は日本人には理解しがたいものです。

日本人も大戦中、朝鮮や中国で同じように虐殺した事実はあっても、600万人もの人を民族・人種差別でシステマチックに殺してはいません。
そんなことを考えながら、この25ヶ月あまりの8人の隠れ家生活を、いきいきと日記に書いたアンネ・フランクを思いました。

彼女達は捕らえられアウシュヴィッツ収容所からベルゲンベンゼンの強制収容所へ移動させられます。家族はばらばらになり最後は姉のマルゴーと二人になりますが、ここは衛生状態が極めて悪くチフスが蔓延していて、はじめに姉マルゴーが亡くなり、そのうちアンネも亡くなって、穴に埋められたと推定されています。
1994から45年の寒い時期、2月か3月の頃とされています。詳しいことは誰もわからないのです。この収容所は1995年4月15日には英軍によって解放されました。

隠れ家の8人のうち、父オットー・フランクだけが生き延び、1995年6月3日、懐かしいオランダ・アムステルダムへ帰還しました。そして支援者の女性二人が保管していたアンネの日記を父に渡しました。
そのお陰で70年経った今でも世界の人びとが感動的なこの日記を読むことができます。
“率直で、激しい気性、鋭い人間観察、この年頃の少女として自然な性への関心、をくっりと浮かびあがらせている”と、翻訳者深沢真理子氏が、あとがきに書いておられます。
鋭い感性、豊かな表現力、アンネは父オットー・フランクを敬愛し、父の影響を最も強く受けた父っ子だったことを実感しました。

写真で見る実際の日記はインクで流れるようなオランダ語の筆記体で書かれています。ドイツ語、英語とヨーロッパ人の語学力はまたすごいですね。
この本の底本はオランダ語の完全版、原本はオランダ語の研究版、英語版の原本と、三つを対比して翻訳者が独自に翻訳したとあとがきにあります。

彼女の日記の中にある「世の中の役に立つことをしたい、死んでも生きつづけたい」との、彼女の願いは見事に達せられ、世界中の人びとを感動のうずに巻き込んで、70年後のいまでも彼女は生きつづけています。
アンネが13歳から15歳で捕らえられるまで、中学1年生から2年生の2年間の日記です。
いじめなんかで、生きづらさを抱え込んでいる、今の日本の中学生達に読ませたい本です。


身近な史跡・遺跡

2012年08月05日 | 日記

昨日は古代の伝承史跡について述べました。記録に残ったものでは、東大寺正倉院文書の日本のもっとも古い戸籍が有名です。
・現在の各務原市那加に当る「大宝二年御野国各牟郡中里戸籍(たいほうにねん・みのこく・かかみぐん・なかのさと・こせき)」、
・現在の加茂郡富加町羽生(はにゅう)あたりとされる「大宝二年御野国加毛郡半布里戸籍(たいほうにねん・みのこく・かもぐん・はにゅうり・こせき)」が、よく知られています。

富加町は小さな町ですが、この戸籍を誇りにして、ネットで分りやすく紹介されていました。
富加町の半布里の戸籍 その1その2その3その4

わが市は文化都市創造をかかげておられますが、市のサイトにこのような解説記事はありません。さびしい限りです。
各務原市の中里戸籍 その1その2その3その4 

長良川鵜飼いは有名ですが、木曽川の犬山側でも鵜飼いを楽しめます。この中里戸籍に鵜飼いを生業とする名前が記録されているのです。1300年前から鵜飼いをやっていた証しだそうです。
市の観光案内には”美濃国では702年(大宝2年)の各務郡中里の戸籍「鵜養部目都良売(うかいべめづらめ)の記述が最も古い資料です”とあります。
長良川の鵜飼いの歴史を岐阜市のある旅館のHPで紹介されています。

わたしは、柄山古墳(からやまこふん)の前を、毎日のように通っています。そのすぐ西に、行政区は岐阜市ですが、琴塚古墳があります。
この二つの間に南塚古墳があったようですが、戦時中の食料不足の折、つぶして開墾し畑にしてしまったようです。南塚は現存していなく10年ほど前、この一画が宅地造成され、文化住宅に姿を変えました。前面の通りは前方後円墳のカーブのままの道路になっています。
市内にはいくつもの古墳が現存しています。


身近な史跡

2012年08月04日 | 日記

昨日は散歩ドライブでの田園風景を見出し画像にしました。今日の写真は東側、昨日の反対方面のショットです。夏空にきれいな田園風景ですね。こういう地域に住める幸せを感じます。

この写真の一角に宮塚史蹟があります。伝・蘇我倉山田石川麻呂(そがの・くらやまだの・いしかわまろ)の墓と言い伝えられています。各務原市史にも文書には出てこない史跡と解説されています。

蘇我倉山田石川麻呂とはどういう人なのでしょうか。
当時専横を極めた蘇我入鹿は聖徳太子の子息とされる山背大兄王(やましろのおおえのおう)を一族もろともに滅ぼしまします。

蘇我氏の専横に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)や、中臣鎌子(なかとみのかまこ:後の藤原鎌足)等が決起し入鹿暗殺の「乙巳の変」(いっしのへん)というクーデターを起こします。
暗殺は645年6月12日に皇極天皇のお住まいであった飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の皇極殿で決行されました。朝鮮三国からの使者が表敬訪問した際を狙い、その暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げたのが蘇我倉山田石川麻呂です。
その時、暗殺がなかなか実行されず、上表文を読み上げながら石川麿は震えて冷や汗をかいたと言われる人物です。

私は住まいの指呼の間にこんな歴史上の人物の史跡があることと、また時代が同じ頃、石川麻呂が自害した彼の菩提寺と同名の古寺のがあったことに、大変興味を持っていました。
幸い、高校の同級生で昔は羽振りがよく、今は倒産して少し零落している人物と親しく、彼が吉野の団地の中に別荘を持っていましたので、退職後何度も彼と遊びに行きました。
その都度、日本人の「心のふるさと」といわれる明日香村を歴史散歩、ほっつき歩きをしました。そして、大化の改新につながる歴史史跡を見て回ったのです。

勿論、日本最古の仏像といわれる、鞍作鳥の作である飛鳥大仏のある飛鳥寺の近辺にある、入鹿の首塚や板蓋宮跡、暗殺の談合が行われた多武峰(とうのみね)の麓にある、談山神社で入鹿の首が御簾(みす)に飛んで食らいついた多武峰縁起絵巻(模写)など何度も見て回りました。

東名阪高速道を天理で降り明日香へ向かう途中に桜井市、山田寺史跡があります。
ここが石川麿が最後に自害した菩提寺跡です。すぐ近くに国立飛鳥歴史資料館があります。この館内に近年山田寺跡から掘り出され、化学処理して保存された回廊の連子格子(れんじこうし)を見ることができます。
はじめに訪ねたとき館内の展示物の監視役のおばさんに「私の住まい、美濃の国、各務原市に石川麻呂の塚があります。また山田寺跡もあります」と申しますと、大変珍しがられ学芸員を呼んでくださり、学芸員も「そんな史跡が美濃の国にあるとは聞いたことが無い、昔は大和朝廷の力が各地に及んでいた証拠でしょう」と驚いていました。
最近ネットが充実してWikに誰かが宮塚や、山田寺(さんでんじ)史跡を書いてアップしてくれています。
   

 


夏本番・ひと夏の思い出

2012年08月03日 | 日記

わが家は突き当たりの山あいの宅地造成地にある

とにかく暑い。朝から勿論クーラーのスイッチを入れる。ブログを寄稿してアップするためだ。約1時間ほどかかる。何を書くか勿論決まっていない。ケイタイはもっていない。パソコンしかない。
さて今朝の見出し写真は数日前、恒例の朝のモーニング喫茶へ行って、暑く熱のこもった家へは帰りたくなく、近くの岐阜カントリークラブという名門ゴルフ場の入り口にある、不動の滝という小さな滝へ行って、そこのお不動様にお参りに行った。
似たような先客は2組の4,5人、一組は道路前の吹きさらしの拝殿に腰掛けて、缶コーヒーなどを手に涼んでおられた。
前を通って、坂を上り本殿に行こうとしたら「おはようございます」と丁寧に挨拶された。恐縮して答礼し、本殿で鈴を鳴らしお参りした。どこへ行っても「なまんだぶ」と称える。敢えて賽銭は上げなかった。
少し涼んで帰る途中車を安全な農道へ止め、夏の風景をショットした。暑さに豊かに稲が生長している。

20数年前の晩夏のことを思い出した。二男がAFSの交換留学に世話になってアメリカ留学したことがある。
わが家に一晩だけの二人の外国人のお客を迎えた。ひとりはアメリカのオレゴンからやってきた、Mr.キナーさんといった。
写真のこの道路を私が運転し、家内と二男が同乗し通りかかったら、お客は田んぼを指差して What is this? と聞いた。それくらいは分るので This is lice. と答えたら Oh!Lice filed. と感嘆の声を上げなさった。

キナーさんは私と同年輩の方で、オレゴンの片田舎の町で葬儀屋さんだった。この葬儀屋さんの娘さんが、二男が世話になったオレゴン州立ワトンカ高校の同級生で、時々誘ってもらって自宅へ遊びに行っていたらしい。
その縁で韓国へ御棺の買い付けビジネスに来たついでにわが家へ、韓国から来て翌日また韓国へと、忙しい訪問だったわけだ。

小牧空港へ迎えに行き、途中犬山城に登城して国宝のお城を案内した。天守閣から濃尾平野、尾張平野を眺望して頂いた。焼けていない当時のままの建築なので、急階段を登る時、背の高いこの外国人は大きな梁に頭をゴツンした。降りてみやげ物屋を覗き、ドルを日本円に両替できないか聞かれたが当然できなかった。

葬儀屋さんといっても、ホワイトハウスに似た広壮な邸宅と、散骨用のセスナ機を所有され、当然飛行機ライセンスを持ち操縦される。
車はリンカーン・コンチネンタル、車庫には趣味のクラシックカーが二台と豪華なものだ。飛行機から撮った写真や家族写真には、祖父母と妻と娘。娘は金髪の美人だ。記念に上げると私にこれらの写真をくださった。

もうひとりは、ちょうどロータリークラブ招待の交換留学で来ていた、ニューヨーク州公安委員長の高校生の娘さんだった。市内に短期ステイしていて、そこのホスト家庭の奥さんと二人も招待しスキヤキパーティをやった。
よく冷えたビールを出したら do you like beer? と聞かれたので very good. と答えた。 

英単語・日本語チャンポンでの宴会は二男やニューヨークから来た高校生が適当に翻訳して、宴もそこそこに家内の運転で、お客様を長良川の川原から見る鵜飼い見物に案内した。
二人の外国人は喜んでくれて、高校生の娘さんにお別れに「再見:ザイチェン」と、酔った勢いで、さよならしたら、「それ何!」と、日本語が返ってきた。「チャイナ・ランゲージ、さよなら、ソー・アゲインです」と答えた。

Mr.キナーさんも元気だろうか。あれからもう20数年になる。多くの人がお星さまになった。


暁天講座2

2012年08月02日 | お寺参り

真宗大谷派・岐阜教区・岐阜東別院の2102年暁天講座2日目へお参りしてきました。

朝寝坊してはいけないと目覚ましをセットして就寝しましたが、夜中に2、3度頻尿のある身なので特に朝は弱い。体質が夜型で朝が弱いせいもあります。不健康体質なのです。昨夜は時に台風の低気圧が来て蒸し暑く寝苦しかった。

目覚ましは必要なく5時にはキチンと目が覚め時計を確認、でも眠くて針を15分遅らせ二度寝しました。顔は洗わない無精者ですが、今朝は洗顔して覚醒しました。

車で家を出るとこの団地は6千500人も住む大団地なので、早朝ウオーキングの人が10数人、今朝は犬の散歩の人も5.6組は歩いていました。こういう人は健康体質です。人生に悩むなんてことは無い人種の方でしょう。

さて、片道8Kmくらいか定刻どおりに到着するといつものように、墨染めの衣を着た若い僧を主体に堂内交通誘導に5,6人が迎えてくださった。
6時きっかりに講座は始まり、真宗宗歌の合唱、正信偈(しょうしんげ)のお勤めで、いつもの仏教講座と違い導師は3人です。

早朝のお勤めはなかなか清々しいですね。終わると予定時間きっかりの6時20分、ここで司会者でない役僧が暁天講座の挨拶をされます。
正面にホワイトボードと、演壇と椅子、を移動してきて水飲みを用意され、講師の紹介、6時半きっかりに講師が登壇され、先ず宮殿に向かって正座一礼、声を出して「なまんだぶつ」を3回称えられました。
ここから講師は演壇に移動、三帰依文(さんきえもん)を、前段・後段は講師の独唱、真ん中のところ「自ら僧に帰依したてまつる・・自ら法に・・自ら僧に・・と仏、法、僧に帰依することを皆で誓う唱和をします。

ここで講師が自己紹介し、講話に入っていかれます。講師は必ずしも僧でなく学者や評論家・文化人などが立たれるときは、墨染めの衣でもなく、宮殿に拝礼もされません。いきなり講話です。今日は仏教講座でなく仏教行事なので得度された導師で、終わっても質問はありません。
勿論いつものことで「講座は自らに受け入れること」なので、どんなに感動した講話でも拍手はいたしません。時々そうのように司会者が案内されます。

今朝の講師は名古屋からお出でいただいた、坊守さん、45歳とお若いお寺の奥さんです。
なかなか上品で美形、髪も今朝美容院へ行ってこられたのかと清楚な美人で、話し振りもお上品です。
いや、私の俗な観察でなく終わって、一服していたら傍へ来た寺院関係者か聴衆のひとりがそう話しかけました。

講題は「私の立ち処」、メッセージは「世の中を見わたしてみますと、すべての事の中心にあるのは損か得か?ということが重視されています。本当はそうではないなと思っていても、私も得になる方へ流されてしまいます。そのような姿を親鸞の教えに学ぶ」、という主旨でした。

この坊守さんはお寺に生まれ・育ち、生まれながら寺院を継ぐ運命にあった方とか、現住職はお婿さんであろう、京都で仏教大学へ通う大学生の1人息子がいると紹介されました。

こういう身分の方は、いいお婿さんを迎え、檀家の間を取り持ち、いい後継者を育て上げればもう云うことなしですが、この方はそこで納まらなかった。
こころが弱かったので、いつも、もやもやして自分を持て余していた。健康も損ね栄養士に相談したら。ストレスが万病の基、ストレスを無くするには自分が好きなことをやる、と教えられ、そこでハットして、仏教をもう一度学んでみよう、自分なりに理解してみようと発願し、そういう学校があるから行ってみようと、息子さんが幼稚園の頃、養育は母に預け1週間ほど留守にする勉強を続けてきたと話されました。

ご経歴は名古屋真宗学院を卒業、本山同朋会館補導を勤め、現在は教導とあります。
私はこの宗派の組織や身分は知りませんが、終わって一服の時傍へ来た方に聞いたら、教導とは門徒が本山へ上壇し(こう書くのか?)、1泊2日とか2泊3日のお参りをした際、同朋会館に泊まり、夜3分くらいのスピーチを参詣者それぞれに求めたりするようで、その指導者、インストラクターという身分のようでした。

いいお寺の奥様候でおれる身分なのに、自ら法に帰依されて努力される、身近な聞法(もんぽう)のお話しでした。

500円の入場券は手次寺のご配慮で入手し、講座が終わってパック牛乳とパンを頂いての2日間の暁天講座は終わりました。
今月は6日、7日は手次寺の盆会法要、9日は犬山寂光院の「九万九千日」の案内がきていて、『ひろ さちや』氏の講演会が午後にあります。亡母の初盆にふさわしいお盆です。