旧約聖書の解説本を読んでいるワケですが、リンクするものが2つありました。
1つめは、「憲法」です。
前に、日本国憲法に関する本を読んだのですが、その時と同じ感覚がありました。
それは、「人として」「人であるために」という感覚です。
「憲法や法律が、その国とその国民の契約とするならば、聖書に書いてあることは、神と人との契約なんですね。
「人として」「人であるために」とは、いいかえると「自由」になるかな。
その自由を得るためには、なにかしらの契約というか約束事が必要なんですね。
憲法というのは、その国とその国の国民の約束事だと思うのですが、聖書に書かれてある律法は、神と全人類の約束事なんですね。
それこそ普遍的であって、その律法が根底にあって、それぞれの国が出来上がっているということでしょうか。
2つめにリンクしたのは「グリム童話」です。
グリム童話と言っても、ディズニーなどで知っている内容ではなくて、原作に近いグリム童話です。
全部を知っているワケではないのですが、原作のグリム童話は、残酷的なんですよね。
旧約聖書も、意外に残酷的なことが書かれてあるんです。グリム童話的なんです。
聖書だから、綺麗なお話が多いのかなと思いきや、それはぜんぜん違っていて、人間の悪行が書かれてありました。結構ひどい話が書かれてあります。
グリム童話が、本当は残酷的なんだと初めて知ったとき、どうしてグリム兄弟は、そんなものを残したんだろうと疑問に思っていたのですが、
旧約聖書に触れた今、その意味がなんとなくわかります。残酷的なお話って、そこからなにかしら「人として」なりの意識が生まれてくるのかな。
旧約聖書は紀元前に書かれてあるもので、グリム童話は中世のお話ですよね。それらを読んでいると、極端にそこまで今と変わりはないと感じる。
グリム童話なんて、美しい魔女が出てくるお話があるワケですが、それは、今知っているお話では継母ということになっていますが、
原作では実母なんですね。その実母が実のわが子を殺そうと企むワケですよ。
現代においてですよ、テレビを観ていると、そのような話をちょくちょく耳にしますよね。
あとですよ、ちょっと疑問に思ったんですけど、童話では、継母が子供達を追い詰めているワケですけど、中世と現代の出来事があまり変わりないとすれば、
現代において、継父(こんな言葉聞いたことないけど)が子供達を追い詰めている話って少なくないですよね。
中世の話では、奥さんが計画を企てていて、旦那さんは従う感じでしょうか。童話の中の悪は、ほとんどが女性じゃないかな。それってなんかおかしくないかな。
思ったんですけど、中世では「魔女狩り」があったんですよね。それが影響してるのかなって。
もしそうだとしたら、そのお話が出来た時点でねじまげられているのじゃないのかな。
聖書にしてもグリム童話にしても、その当時の記録みたいなものですよね。どちらにしても、最初は、口移しの語り継ぎで残っていたものみたいなんですけど、
文字ができて、目に見える形で残ったんですよね。
そこに書かれてあるのは、意外にも残酷なお話。グリム童話は書き変えられているにしても、残酷なところはありますよね。
ネットを検索していたら「聖書に次ぐベストセラーはグリム童話」と書かれてあったんですよ。これって本当なのかな?
なんか思ったんですけど、人ってどこか残酷なものを求めているのかもしれないなって。そこでなにかしら人としてのバランスを取ってるのかなって。
最近知った残酷な話といえば、映画の「SAW」です。あの映画は人気があるんですよね。それだけ人に求められてる。
もしかしたら、残酷な話を求めるって、人として正常なことなのかもしれませんね。だって、聖書にだってそんなことが書いてある。
現代に存在するグリム童話は、商業目的のものなんでしょうね。それはそれでいいと思うんですけど、原作は知っておいたほうがいいかもですね。
確かに、今って、綺麗な話が多いのかな。子供達は、綺麗なお話しか聞かないのかな。それが正解なのかな。
思ったんですけど、グリム童話は、子供達によくないということで書き変えられたみたいなんですけど、聖書って何歳くらいから読むのもなのかな。
というか、読み聞かせもあると思うんだけど、何歳くらいからかな。知っていく順番とかあるのかな。そのあたり興味あるかも。
子供って、残酷な所があると思うんですけど、いろんなことを知っていって大人になっていくんだと思うんですけど、綺麗な事だけを知っていても、
大人にはなれないような気もする。残酷な話があってこそ「理性」が生まれるような気もする。
まぁ、自分に子供がいたらどうしていたかなと思う所もあるんですが、そう感じる。
今は商業目的のお話が多いと感じた。そればっかりではないと思うけど、そういうお話が多そう。どちらかというと、夢があって綺麗なお話が多いのかな。
とすると、古典って、かなり貴重ですよね。古典の根底って「人として」「人であるために」のような気がするんです。それって、つきなみっぽいけど、
先人達の愛のような気がする。みんなが大人になるためにあるものかな。
この旧約聖書って、今回私自身も初めて触れたけど、宗教とかはまったく関係なく、人としてこの世に生まれてきたのならば、一度は読んでもいいものと思った。
1つめは、「憲法」です。
前に、日本国憲法に関する本を読んだのですが、その時と同じ感覚がありました。
それは、「人として」「人であるために」という感覚です。
「憲法や法律が、その国とその国民の契約とするならば、聖書に書いてあることは、神と人との契約なんですね。
「人として」「人であるために」とは、いいかえると「自由」になるかな。
その自由を得るためには、なにかしらの契約というか約束事が必要なんですね。
憲法というのは、その国とその国の国民の約束事だと思うのですが、聖書に書かれてある律法は、神と全人類の約束事なんですね。
それこそ普遍的であって、その律法が根底にあって、それぞれの国が出来上がっているということでしょうか。
2つめにリンクしたのは「グリム童話」です。
グリム童話と言っても、ディズニーなどで知っている内容ではなくて、原作に近いグリム童話です。
全部を知っているワケではないのですが、原作のグリム童話は、残酷的なんですよね。
旧約聖書も、意外に残酷的なことが書かれてあるんです。グリム童話的なんです。
聖書だから、綺麗なお話が多いのかなと思いきや、それはぜんぜん違っていて、人間の悪行が書かれてありました。結構ひどい話が書かれてあります。
グリム童話が、本当は残酷的なんだと初めて知ったとき、どうしてグリム兄弟は、そんなものを残したんだろうと疑問に思っていたのですが、
旧約聖書に触れた今、その意味がなんとなくわかります。残酷的なお話って、そこからなにかしら「人として」なりの意識が生まれてくるのかな。
旧約聖書は紀元前に書かれてあるもので、グリム童話は中世のお話ですよね。それらを読んでいると、極端にそこまで今と変わりはないと感じる。
グリム童話なんて、美しい魔女が出てくるお話があるワケですが、それは、今知っているお話では継母ということになっていますが、
原作では実母なんですね。その実母が実のわが子を殺そうと企むワケですよ。
現代においてですよ、テレビを観ていると、そのような話をちょくちょく耳にしますよね。
あとですよ、ちょっと疑問に思ったんですけど、童話では、継母が子供達を追い詰めているワケですけど、中世と現代の出来事があまり変わりないとすれば、
現代において、継父(こんな言葉聞いたことないけど)が子供達を追い詰めている話って少なくないですよね。
中世の話では、奥さんが計画を企てていて、旦那さんは従う感じでしょうか。童話の中の悪は、ほとんどが女性じゃないかな。それってなんかおかしくないかな。
思ったんですけど、中世では「魔女狩り」があったんですよね。それが影響してるのかなって。
もしそうだとしたら、そのお話が出来た時点でねじまげられているのじゃないのかな。
聖書にしてもグリム童話にしても、その当時の記録みたいなものですよね。どちらにしても、最初は、口移しの語り継ぎで残っていたものみたいなんですけど、
文字ができて、目に見える形で残ったんですよね。
そこに書かれてあるのは、意外にも残酷なお話。グリム童話は書き変えられているにしても、残酷なところはありますよね。
ネットを検索していたら「聖書に次ぐベストセラーはグリム童話」と書かれてあったんですよ。これって本当なのかな?
なんか思ったんですけど、人ってどこか残酷なものを求めているのかもしれないなって。そこでなにかしら人としてのバランスを取ってるのかなって。
最近知った残酷な話といえば、映画の「SAW」です。あの映画は人気があるんですよね。それだけ人に求められてる。
もしかしたら、残酷な話を求めるって、人として正常なことなのかもしれませんね。だって、聖書にだってそんなことが書いてある。
現代に存在するグリム童話は、商業目的のものなんでしょうね。それはそれでいいと思うんですけど、原作は知っておいたほうがいいかもですね。
確かに、今って、綺麗な話が多いのかな。子供達は、綺麗なお話しか聞かないのかな。それが正解なのかな。
思ったんですけど、グリム童話は、子供達によくないということで書き変えられたみたいなんですけど、聖書って何歳くらいから読むのもなのかな。
というか、読み聞かせもあると思うんだけど、何歳くらいからかな。知っていく順番とかあるのかな。そのあたり興味あるかも。
子供って、残酷な所があると思うんですけど、いろんなことを知っていって大人になっていくんだと思うんですけど、綺麗な事だけを知っていても、
大人にはなれないような気もする。残酷な話があってこそ「理性」が生まれるような気もする。
まぁ、自分に子供がいたらどうしていたかなと思う所もあるんですが、そう感じる。
今は商業目的のお話が多いと感じた。そればっかりではないと思うけど、そういうお話が多そう。どちらかというと、夢があって綺麗なお話が多いのかな。
とすると、古典って、かなり貴重ですよね。古典の根底って「人として」「人であるために」のような気がするんです。それって、つきなみっぽいけど、
先人達の愛のような気がする。みんなが大人になるためにあるものかな。
この旧約聖書って、今回私自身も初めて触れたけど、宗教とかはまったく関係なく、人としてこの世に生まれてきたのならば、一度は読んでもいいものと思った。