旧約聖書に少し触れてみて思った事は、この本は、大人になっていくために必要な本なのかなという事。
ある解説本には書いてありました。「なぜ、今なお旧約聖書を読むのか」ということで、
1、旧約聖書は、新約聖書を理解するために必要である。
2、旧約聖書は人間の生涯を映し出すものである。
3、旧約聖書が告げる約束はまだ実現されていない。
その解説本には「新約聖書は旧約聖書の目次」だとありました。
3番目の内容は「メシア」の事ですね。
古典というのは、今の私の中では「解釈」かなと思う所があって、この聖書のお話を子供の頃から聴いていて、
成長の段階で、感じるところというか解釈が違ってくるのかなと思った。
また、成長の段階で、何のお話が自分の中に出てくるのかというのもあると思う。
ユダヤ教では、ヘブライ語で書かれたもののみを聖書と認めているそうです。
そのヘブライ語で書かれている旧約聖書は、アラム語の部分をわずかに含んでいて、
この2つの語源は、(アラビア語同様)子音のみで書かれ、読む人がどのように意味を理解するかによって母音を補うとありました。
これってまさに「解釈」ということですよね。
マソラ学派と呼ばれるユダヤ教の学者達は、AD7世紀以降、子音の上と下に母音を表わす小さなしるしを付けることによって、
本文の意味を固定させたとありました。
ということは、この時点で原型とは少々違ってきたということですね。
ユダヤ教では、ヘブライ語で書かれたもののみを聖書とみとめているということですが、それは、原型の方ということでしょうか。
もしそうだとしたら、それは翻訳ができないということかな。もしそうだとしたら、もったいないことのように思える。
だから、翻訳しやすいように本文の意味を固定させたのかな。
旧約聖書は、BC3世紀以降、アレクサンドリアでギリシャ語に翻訳されたそうです。
この翻訳なんですが、伝承によると、70人の律法学者が別々に仕事をしたにもかかわらず、同一の翻訳が出来上がったという事です。
この伝承は重要な意味を持っているとか。それは、聖書翻訳とは神の導きがなければ不可能だという考えだそうです。
この翻訳が奇跡であり、神の霊感によるものだと主張しているのだそうです。この事を、セプトゥアジンタと呼ばれているそうです。
でも、その後に書いてあるんですけど、現実には、BC250年から150年までの間に複数の記者によって作られたものであると。
。。。。。。そうですか。まぁ、なんというか、記者というのが気にはなるのですが、こちらのほうが現実っぽい感じがしますよね。
翻訳には、根底に祭儀という目的があったと思われるそうです。聖なる書を再現し、時代に合わせるためでもあるとありました。
この「時代に合わせる」なんですけど、私もですね、古典はすごくいいと思うのですが、その当時のそのままのものであるのは、
なかなかつかめにくいというか、理解しにくいところもあるのではないかと思うんです。
入り口の時点で、挫折してしまいそうな感じもあるのではないのかなと思うワケです。
でも、そこに少しでいいから現代の要素が入っていると、理解しやすいし、入り口の時点で迷っていても、いつかはちゃんと入り込めると思うんですね。
それでお話の内容が違ってくるのはいけないことだと思うのですが、古典であっても「時代に合わせる」って大事ではないかと思うワケです。
でもですよ、そうだとすると、今、私が読める日本語で書かれてある旧約聖書は、原型とは多少違うということですね。
まぁ、それはしかたがない事とは思うのですが、今、私が紀元前に書かれた旧約聖書に惹きつけられているのは間違いありません。
ある解説本には書いてありました。「なぜ、今なお旧約聖書を読むのか」ということで、
1、旧約聖書は、新約聖書を理解するために必要である。
2、旧約聖書は人間の生涯を映し出すものである。
3、旧約聖書が告げる約束はまだ実現されていない。
その解説本には「新約聖書は旧約聖書の目次」だとありました。
3番目の内容は「メシア」の事ですね。
古典というのは、今の私の中では「解釈」かなと思う所があって、この聖書のお話を子供の頃から聴いていて、
成長の段階で、感じるところというか解釈が違ってくるのかなと思った。
また、成長の段階で、何のお話が自分の中に出てくるのかというのもあると思う。
ユダヤ教では、ヘブライ語で書かれたもののみを聖書と認めているそうです。
そのヘブライ語で書かれている旧約聖書は、アラム語の部分をわずかに含んでいて、
この2つの語源は、(アラビア語同様)子音のみで書かれ、読む人がどのように意味を理解するかによって母音を補うとありました。
これってまさに「解釈」ということですよね。
マソラ学派と呼ばれるユダヤ教の学者達は、AD7世紀以降、子音の上と下に母音を表わす小さなしるしを付けることによって、
本文の意味を固定させたとありました。
ということは、この時点で原型とは少々違ってきたということですね。
ユダヤ教では、ヘブライ語で書かれたもののみを聖書とみとめているということですが、それは、原型の方ということでしょうか。
もしそうだとしたら、それは翻訳ができないということかな。もしそうだとしたら、もったいないことのように思える。
だから、翻訳しやすいように本文の意味を固定させたのかな。
旧約聖書は、BC3世紀以降、アレクサンドリアでギリシャ語に翻訳されたそうです。
この翻訳なんですが、伝承によると、70人の律法学者が別々に仕事をしたにもかかわらず、同一の翻訳が出来上がったという事です。
この伝承は重要な意味を持っているとか。それは、聖書翻訳とは神の導きがなければ不可能だという考えだそうです。
この翻訳が奇跡であり、神の霊感によるものだと主張しているのだそうです。この事を、セプトゥアジンタと呼ばれているそうです。
でも、その後に書いてあるんですけど、現実には、BC250年から150年までの間に複数の記者によって作られたものであると。
。。。。。。そうですか。まぁ、なんというか、記者というのが気にはなるのですが、こちらのほうが現実っぽい感じがしますよね。
翻訳には、根底に祭儀という目的があったと思われるそうです。聖なる書を再現し、時代に合わせるためでもあるとありました。
この「時代に合わせる」なんですけど、私もですね、古典はすごくいいと思うのですが、その当時のそのままのものであるのは、
なかなかつかめにくいというか、理解しにくいところもあるのではないかと思うんです。
入り口の時点で、挫折してしまいそうな感じもあるのではないのかなと思うワケです。
でも、そこに少しでいいから現代の要素が入っていると、理解しやすいし、入り口の時点で迷っていても、いつかはちゃんと入り込めると思うんですね。
それでお話の内容が違ってくるのはいけないことだと思うのですが、古典であっても「時代に合わせる」って大事ではないかと思うワケです。
でもですよ、そうだとすると、今、私が読める日本語で書かれてある旧約聖書は、原型とは多少違うということですね。
まぁ、それはしかたがない事とは思うのですが、今、私が紀元前に書かれた旧約聖書に惹きつけられているのは間違いありません。