太平記を読んでみた。感想を一言でいうと、「日本の誇り」と思った。
太平記は、全40巻ということは私が読んだ太平記はダイジェスト版ということでしょうか。
太平記の時代は、「上は天皇が君主の徳からはずれ、下は武家どもが臣下の礼を失っており、そのため、天下は大いに乱れ、一日とて安穏な日はなかった。民は一人として長寿を許されず、安心して暮らしを立てる場所もないありさまだった。武家は諸国に守護を設置、荘園には地頭を配置して日本全国を支配したのである。」これをそのまま読んでいると、やる気がなくなってしまったが権力だけは欲しいと思われる朝廷と傲慢な感じの武家が、対立して内政が乱れているように思われるのですが、この時代、外国からの襲来があるような状況だったみたいです。
それで武家は「世を治め民を安んずる器量のある貴族一人に鎌倉に下っていただき、この方を征夷大将軍と仰いで、武家一統は家臣の礼をとることとなった。また、京都へ北条一族の者2名を派して、西国の行政を担当させ、あわせて京都の治安警護にあたらせた。さらに、九州に探題をひとり下して、九州の政治を司らせ、外敵襲来の備えを固めた。それゆえ、日本国中北条氏の命令に従わないところとてなく、海外までもその権勢にしたがわない者はなかったのである」とありました。
これからすると武家の勢力は、すざまじい勢いで日本を支配していったようなのですが、武家だけの勢力でそんなことができるものなのでしょうか。というか、武家の勢力をのばしていくのに、朝廷も協力しているような感じも見受けられると思うけど。もし、そうだとすると、この時代の戦乱の状況は、現代でいうところのリストラチックなことが原因なのかなと思いました。つまり、朝廷が行政を依頼していた方々、まぁ、貴族の方々と思うのですが、その方々が海外からの状況に応じる感じがなくて、その状況に朝廷も頭を悩ませ、日本を絶対に守るために武家に力を与えた状況なのではないのでしょうか。
その後、後醍醐天皇が島流しにあうみたいなのですが、島流しというよりは、「保護」のような感じもしますが。天皇というのは都にいるものなのですが、あきらかに居場所がわかるよりかは、島流しの状況にあるほうが安全だったのかも。というか、本当は島に行ってないのかもなぐらいの感じだったのかも。後醍醐天皇が島流しにあった時に、代わりの天皇が立ったみたいなのですが、その後、後醍醐天皇は都に戻ってきて再び政治をやるワケですよ。ということは、代わりにつかれていた天皇はどうされたのだろうかという疑問もありますが、とにかく後醍醐天皇は都に戻ってきたのです。で、年号も、代わりの天皇がつたときの年号は廃止されて、後醍醐天皇がついていた時の元の年号にもどされたのです。これは、もともと作られたシナリオだったのでしょうか。
ここにある全てが世間の目をあざむきながら、書かれてある文章も何かの目をあざむきながらの感じがするのです。
真実はどこにあるのか?この巨大な渦の中に真実はあるのか?の状況っぽいのですが、真実はただ一つ。それを守るため。
また、太平記を読んでいると、国というのは良くも悪くも外国からの影響があって、そして、それにちゃんと対応してこそ存続できるものなのですね。だから、江戸時代におこった鎖国というのは国にとってよくない事だったのだと思います。どうしてこの時に鎖国したのかなと思ったのですが、太平記の時代に朝廷が武家に力を与えたとしても、自分達の存在はゆるがされることはないだろうと思ったのではないかと思いました。しかし、江戸幕府の方々は、自分達の立場があやういと思ったのではないのかなと思いました。それを食い止めてくれたのが、吉田松陰さんをはじめ松下村塾の方々だったということでしょうか。大河ドラマ「花燃ゆ」を観ていたら、吉田松陰さんは黒船に無断で乗り込んでいるではありませんかっ!!やる?ああいうこと。いくら興味があるからってさ。。。吉田松陰さんのイメージは机に向かっているもの静かなものだったのに、ドラマを見てからは、「ぶっ飛んだ人」になりました。吉田松陰さんは、かなりぶっ飛んでいらっしゃるお方。で、その乗り込んだ船で、当たり前にとらえられるのですが、それをペリーさんは勘弁してくれたのですね。わぁ。。。懐大きい、ありがたいと思っている反面、勘弁しなかったのが日本側という、なんという小ささ(ちっちゃっ)な感じでした。。。あ、いや、これはあくまでもテレビドラマの話であって、その時の方々も必死に国を守らなければという意思の元だったと思うのですが、時代の変化というか波というか、それは避けられないのかも。特に日本国はそうなのかもです。
太平記の中に「俊基ふたたび関東へおくられる」というのがあるのですが、ここの文章が、ものすごく情緒豊かな感じで書かれてあると思うのです。美しい言葉を並べて、美しい情景が浮かんでくるようなのです。なぜかなと思って読み進めていると、俊基さんというお方は首を切られたということなのですが、その頃、怪異的な出来事が多かったということで、それらの魂を鎮めるために書かれたのかなと思いました。ある意味、お経的なものかなと。というか、お経とは、この文章に書かれてあるような意味合いがるのかなとも思いました。
あと宴もあったりで、その宴の様子は、見聞する世間の人を驚かせているらしく、きわどいファッションの若い女子達が宴に登場していたみたいです。このあたりの時代、女子は情報網となっていたみたいで、あっちの宴こっちの宴に登場して情報のやりとりをしていたと源氏物語でもありました。具体的なハニートラップの話も書かれてありました。女房という女性達もそういう役割もあったみたいで、当時の女性の一つの姿だったみたいですね。
そんな「何を信じていいのか」という状況だったのかはわかりませんが、神に問いかけている場面や、仏教や儒教、道教などの宗教というか学問が登場したりしていて、迷いつつも「生きている」当時の人々の姿。まさに、「強く、やさしく、美しい感性」を感じました。
読み物としても非常によいと思われる「太平記」ですが、一つ気になるところがありました。
それは、太平記のあちらこちらにちりばめられているという「未来記」という書物。
解説によると、聖徳太子が未来を予言して書いたとされる書物であるが、偽書という説もある謎の書物だとか。
聖徳太子が書いているにしろ、書いていないにしろとても気になります。
太平記は、全40巻ということは私が読んだ太平記はダイジェスト版ということでしょうか。
太平記―南北朝動乱の人間模様を読む (ビジュアル版 日本の古典に親しむ6) | |
山崎 正和 | |
世界文化社 |
太平記の時代は、「上は天皇が君主の徳からはずれ、下は武家どもが臣下の礼を失っており、そのため、天下は大いに乱れ、一日とて安穏な日はなかった。民は一人として長寿を許されず、安心して暮らしを立てる場所もないありさまだった。武家は諸国に守護を設置、荘園には地頭を配置して日本全国を支配したのである。」これをそのまま読んでいると、やる気がなくなってしまったが権力だけは欲しいと思われる朝廷と傲慢な感じの武家が、対立して内政が乱れているように思われるのですが、この時代、外国からの襲来があるような状況だったみたいです。
それで武家は「世を治め民を安んずる器量のある貴族一人に鎌倉に下っていただき、この方を征夷大将軍と仰いで、武家一統は家臣の礼をとることとなった。また、京都へ北条一族の者2名を派して、西国の行政を担当させ、あわせて京都の治安警護にあたらせた。さらに、九州に探題をひとり下して、九州の政治を司らせ、外敵襲来の備えを固めた。それゆえ、日本国中北条氏の命令に従わないところとてなく、海外までもその権勢にしたがわない者はなかったのである」とありました。
これからすると武家の勢力は、すざまじい勢いで日本を支配していったようなのですが、武家だけの勢力でそんなことができるものなのでしょうか。というか、武家の勢力をのばしていくのに、朝廷も協力しているような感じも見受けられると思うけど。もし、そうだとすると、この時代の戦乱の状況は、現代でいうところのリストラチックなことが原因なのかなと思いました。つまり、朝廷が行政を依頼していた方々、まぁ、貴族の方々と思うのですが、その方々が海外からの状況に応じる感じがなくて、その状況に朝廷も頭を悩ませ、日本を絶対に守るために武家に力を与えた状況なのではないのでしょうか。
その後、後醍醐天皇が島流しにあうみたいなのですが、島流しというよりは、「保護」のような感じもしますが。天皇というのは都にいるものなのですが、あきらかに居場所がわかるよりかは、島流しの状況にあるほうが安全だったのかも。というか、本当は島に行ってないのかもなぐらいの感じだったのかも。後醍醐天皇が島流しにあった時に、代わりの天皇が立ったみたいなのですが、その後、後醍醐天皇は都に戻ってきて再び政治をやるワケですよ。ということは、代わりにつかれていた天皇はどうされたのだろうかという疑問もありますが、とにかく後醍醐天皇は都に戻ってきたのです。で、年号も、代わりの天皇がつたときの年号は廃止されて、後醍醐天皇がついていた時の元の年号にもどされたのです。これは、もともと作られたシナリオだったのでしょうか。
ここにある全てが世間の目をあざむきながら、書かれてある文章も何かの目をあざむきながらの感じがするのです。
真実はどこにあるのか?この巨大な渦の中に真実はあるのか?の状況っぽいのですが、真実はただ一つ。それを守るため。
また、太平記を読んでいると、国というのは良くも悪くも外国からの影響があって、そして、それにちゃんと対応してこそ存続できるものなのですね。だから、江戸時代におこった鎖国というのは国にとってよくない事だったのだと思います。どうしてこの時に鎖国したのかなと思ったのですが、太平記の時代に朝廷が武家に力を与えたとしても、自分達の存在はゆるがされることはないだろうと思ったのではないかと思いました。しかし、江戸幕府の方々は、自分達の立場があやういと思ったのではないのかなと思いました。それを食い止めてくれたのが、吉田松陰さんをはじめ松下村塾の方々だったということでしょうか。大河ドラマ「花燃ゆ」を観ていたら、吉田松陰さんは黒船に無断で乗り込んでいるではありませんかっ!!やる?ああいうこと。いくら興味があるからってさ。。。吉田松陰さんのイメージは机に向かっているもの静かなものだったのに、ドラマを見てからは、「ぶっ飛んだ人」になりました。吉田松陰さんは、かなりぶっ飛んでいらっしゃるお方。で、その乗り込んだ船で、当たり前にとらえられるのですが、それをペリーさんは勘弁してくれたのですね。わぁ。。。懐大きい、ありがたいと思っている反面、勘弁しなかったのが日本側という、なんという小ささ(ちっちゃっ)な感じでした。。。あ、いや、これはあくまでもテレビドラマの話であって、その時の方々も必死に国を守らなければという意思の元だったと思うのですが、時代の変化というか波というか、それは避けられないのかも。特に日本国はそうなのかもです。
太平記の中に「俊基ふたたび関東へおくられる」というのがあるのですが、ここの文章が、ものすごく情緒豊かな感じで書かれてあると思うのです。美しい言葉を並べて、美しい情景が浮かんでくるようなのです。なぜかなと思って読み進めていると、俊基さんというお方は首を切られたということなのですが、その頃、怪異的な出来事が多かったということで、それらの魂を鎮めるために書かれたのかなと思いました。ある意味、お経的なものかなと。というか、お経とは、この文章に書かれてあるような意味合いがるのかなとも思いました。
あと宴もあったりで、その宴の様子は、見聞する世間の人を驚かせているらしく、きわどいファッションの若い女子達が宴に登場していたみたいです。このあたりの時代、女子は情報網となっていたみたいで、あっちの宴こっちの宴に登場して情報のやりとりをしていたと源氏物語でもありました。具体的なハニートラップの話も書かれてありました。女房という女性達もそういう役割もあったみたいで、当時の女性の一つの姿だったみたいですね。
そんな「何を信じていいのか」という状況だったのかはわかりませんが、神に問いかけている場面や、仏教や儒教、道教などの宗教というか学問が登場したりしていて、迷いつつも「生きている」当時の人々の姿。まさに、「強く、やさしく、美しい感性」を感じました。
読み物としても非常によいと思われる「太平記」ですが、一つ気になるところがありました。
それは、太平記のあちらこちらにちりばめられているという「未来記」という書物。
解説によると、聖徳太子が未来を予言して書いたとされる書物であるが、偽書という説もある謎の書物だとか。
聖徳太子が書いているにしろ、書いていないにしろとても気になります。