またもや随分と時間が経ってしまいました。。。
この本を読んでみました。「ローマ教皇」。内容はキリスト教に関わってきた人々の歴史が書いてありました。
感想としましては、一言でいうと、旧約聖書みたいだなぁと思いました。旧約聖書は人間の悪行が書かれてあると思った。そんな感じでした。。。
最初はキリスト教に関わる方々は大変なめに合われていたんですね。耳や目を塞ぎたくなるような事が起きていた。
でも、313年にコンスタンティヌス皇帝が、キリスト教徒を含む全ての人々に、信仰の自由を認める勅令(ミラノ勅令)を布告したんですね。
それはそれでよかったのかもしれないけど、ここあたりぐらいから、なんというか組織の野望みたいなのが成長してきたような感じがします。
それまでにも野望みたいなのはあったのかもしれないけど、「迫害」というのがあって成長することができなかったんじゃないかな。
この本を読んでいると、権力とか権威が自分の側にあると感じると人間って、物事を見失なってしまう人が多いんでしょうね。
仏教的にいうと、中心がずれるというか、中心を見失ってしまいやすくなるんだ。本当にこの本を読んでいると、人間って。。。と思う。
長い歴史の中で、貴族と教皇との間で神がもてあそばれているようなところもある。
たまに思うんですけど、キリストのお話のように人の心に響くものがあるじゃないですか。他にもたくさんあるんですけど。
それらを取り巻く人々で、たまにですけどね、その側にある物の内容とか意味をちゃんと解っているのかなと疑問に思うことがあるんですよ。
まぁ解っていても、権力や権威というかそんなのが見失なさせるんだろうなぁ。
この本を読んでいると、歴史の中のローマ教皇というのは、神以上の力があるように思えてならない。
ある教皇は「全ての人間は教皇に服従しなければならない」と宣言したりだとか「教皇による神政政治」を主張したりしたとか。
神でさえこんなこと言ってないと思うけど。。。
これらの発言は、当時のフランス国王やローマの貴族などに反発を招いたんですね。。。そうでしょうね。
その後に「アニーナ事件」というのが起こって、死後裁判というのにその教皇がかけられて、発した言葉とはうらはらに、教皇は国家に対する指導力を失い、
単なる宗教的な指導者となっていったということです。
この死後裁判なんですが、他にもあるみたいなんですよ。一度お墓に入ったのに、掘り出されて教皇の服を着させられて、その遺骨を裁判にかけているんですよ。
で、裁判の結果、有罪となって、遺骨から教皇衣をはぎとり現世の服を着させられ、民衆にさらされた後、川に投げ捨てられたそうです。
。。。怖くないですか。。。
あと暗殺のことも少し書いてありましたが、この暗殺って、最近でも聞く話じゃないかな。。。ありますよね。
まぁ、考えてみればすごい権威ですよね。だって、国王というのは自分の国で影響力があるんだろうけど、教皇となると国境を越えて影響力があるワケですもんね。
それはすごい権威ですよ。
あとちょっと気になるのがあったんですけど、それは「不可謬性」という言葉です。
教皇には不可謬性というのがあって、それは信仰問題に関する教皇の決定は、教会の同意をえることなく、それ自体で不可謬であり普遍であるとする考えだそうです。
。。。やっぱりすごい権威。神以上の力だ。。。
でもこの教皇の「不可謬性」には激しい反教会運動が起きたみたいですね。。。そうでしょうね。やっぱりそれっておかしいですよね。
さらに「使徒座」というのもあるとか。使徒座は、使徒ペトロから継承するローマ教皇またはカトリック教会の持つ権威一般の総称。別名聖座とも言う。
狭義には、教皇自身または教皇庁の組織を指す。。。とありました。
1854年、当時の教皇は「聖母マリアの無原罪の御宿り」(聖母マリアは原罪も自罪もなく懐妊したとする説)を教義として宣言した。
これは公会議を経ずに、使徒座の権威によって単独で行われた初めての決定であったとありました。
聖母マリアって、キリストを身ごもった時、確か結婚していたはずですよね?旦那さんは、大工さんじゃなかったかな。
この話ですよ、なんかひどくないですか?ひどいと思っていたんですよ。
さすがに神もそんなことするはずなかろうと思っていたんですよ。。。あぁ、やっぱり、こんなところでこんな風につくられていたワケですね。
ちゃんと本に書いてあって安心しました。これもある意味、超越的な事ですよね。この超越性があるということで、なにかこう都合よく話がつくれるというワケかな。
キリスト自身のお話をDVDですけど観たときは、少々疑問もありますが普通に観れました。だけど、それを取り巻く人間のお話はどうでしょうか。
かばってもかばいきれないような感じだった。。。そんなこんなキリスト教が今の世界に大きく関わっているワケですね。。。どっちがかな。
ていうか、キリスト自身のお話と、それを取り巻く人々のお話というのは切り離して考えるべきなんだろうか。
それともやはり、どちらも合わせてキリスト教というべきなのだろうか。
私は宗教というのは、なんといいましょうか、アクセサリー的な存在でいいと思うんですよ。例えがどうかなと思うんですが今の所そう思うんです。
アクセサリーというのは、私的には主体にはならないんですよ。だけど、それを添えると、なにか彩られて華やかになる。そんな存在かな。
アクセサリーだけ見てピンとこなくても、全体像にあるアクセサリーを見ているとなにかステキに見える。何かと関わる事で生きてくる。
この世のいろんな事にほんの少し関わって、それを生き生きとさせる存在であって欲しいかな。
ローマ教皇―キリストの代理者・二千年の系譜 (「知の再発見」双書) | |
フランチェスコ シオヴァロ,ジェラール ベシエール | |
創元社 |
この本を読んでみました。「ローマ教皇」。内容はキリスト教に関わってきた人々の歴史が書いてありました。
感想としましては、一言でいうと、旧約聖書みたいだなぁと思いました。旧約聖書は人間の悪行が書かれてあると思った。そんな感じでした。。。
最初はキリスト教に関わる方々は大変なめに合われていたんですね。耳や目を塞ぎたくなるような事が起きていた。
でも、313年にコンスタンティヌス皇帝が、キリスト教徒を含む全ての人々に、信仰の自由を認める勅令(ミラノ勅令)を布告したんですね。
それはそれでよかったのかもしれないけど、ここあたりぐらいから、なんというか組織の野望みたいなのが成長してきたような感じがします。
それまでにも野望みたいなのはあったのかもしれないけど、「迫害」というのがあって成長することができなかったんじゃないかな。
この本を読んでいると、権力とか権威が自分の側にあると感じると人間って、物事を見失なってしまう人が多いんでしょうね。
仏教的にいうと、中心がずれるというか、中心を見失ってしまいやすくなるんだ。本当にこの本を読んでいると、人間って。。。と思う。
長い歴史の中で、貴族と教皇との間で神がもてあそばれているようなところもある。
たまに思うんですけど、キリストのお話のように人の心に響くものがあるじゃないですか。他にもたくさんあるんですけど。
それらを取り巻く人々で、たまにですけどね、その側にある物の内容とか意味をちゃんと解っているのかなと疑問に思うことがあるんですよ。
まぁ解っていても、権力や権威というかそんなのが見失なさせるんだろうなぁ。
この本を読んでいると、歴史の中のローマ教皇というのは、神以上の力があるように思えてならない。
ある教皇は「全ての人間は教皇に服従しなければならない」と宣言したりだとか「教皇による神政政治」を主張したりしたとか。
神でさえこんなこと言ってないと思うけど。。。
これらの発言は、当時のフランス国王やローマの貴族などに反発を招いたんですね。。。そうでしょうね。
その後に「アニーナ事件」というのが起こって、死後裁判というのにその教皇がかけられて、発した言葉とはうらはらに、教皇は国家に対する指導力を失い、
単なる宗教的な指導者となっていったということです。
この死後裁判なんですが、他にもあるみたいなんですよ。一度お墓に入ったのに、掘り出されて教皇の服を着させられて、その遺骨を裁判にかけているんですよ。
で、裁判の結果、有罪となって、遺骨から教皇衣をはぎとり現世の服を着させられ、民衆にさらされた後、川に投げ捨てられたそうです。
。。。怖くないですか。。。
あと暗殺のことも少し書いてありましたが、この暗殺って、最近でも聞く話じゃないかな。。。ありますよね。
まぁ、考えてみればすごい権威ですよね。だって、国王というのは自分の国で影響力があるんだろうけど、教皇となると国境を越えて影響力があるワケですもんね。
それはすごい権威ですよ。
あとちょっと気になるのがあったんですけど、それは「不可謬性」という言葉です。
教皇には不可謬性というのがあって、それは信仰問題に関する教皇の決定は、教会の同意をえることなく、それ自体で不可謬であり普遍であるとする考えだそうです。
。。。やっぱりすごい権威。神以上の力だ。。。
でもこの教皇の「不可謬性」には激しい反教会運動が起きたみたいですね。。。そうでしょうね。やっぱりそれっておかしいですよね。
さらに「使徒座」というのもあるとか。使徒座は、使徒ペトロから継承するローマ教皇またはカトリック教会の持つ権威一般の総称。別名聖座とも言う。
狭義には、教皇自身または教皇庁の組織を指す。。。とありました。
1854年、当時の教皇は「聖母マリアの無原罪の御宿り」(聖母マリアは原罪も自罪もなく懐妊したとする説)を教義として宣言した。
これは公会議を経ずに、使徒座の権威によって単独で行われた初めての決定であったとありました。
聖母マリアって、キリストを身ごもった時、確か結婚していたはずですよね?旦那さんは、大工さんじゃなかったかな。
この話ですよ、なんかひどくないですか?ひどいと思っていたんですよ。
さすがに神もそんなことするはずなかろうと思っていたんですよ。。。あぁ、やっぱり、こんなところでこんな風につくられていたワケですね。
ちゃんと本に書いてあって安心しました。これもある意味、超越的な事ですよね。この超越性があるということで、なにかこう都合よく話がつくれるというワケかな。
キリスト自身のお話をDVDですけど観たときは、少々疑問もありますが普通に観れました。だけど、それを取り巻く人間のお話はどうでしょうか。
かばってもかばいきれないような感じだった。。。そんなこんなキリスト教が今の世界に大きく関わっているワケですね。。。どっちがかな。
ていうか、キリスト自身のお話と、それを取り巻く人々のお話というのは切り離して考えるべきなんだろうか。
それともやはり、どちらも合わせてキリスト教というべきなのだろうか。
私は宗教というのは、なんといいましょうか、アクセサリー的な存在でいいと思うんですよ。例えがどうかなと思うんですが今の所そう思うんです。
アクセサリーというのは、私的には主体にはならないんですよ。だけど、それを添えると、なにか彩られて華やかになる。そんな存在かな。
アクセサリーだけ見てピンとこなくても、全体像にあるアクセサリーを見ているとなにかステキに見える。何かと関わる事で生きてくる。
この世のいろんな事にほんの少し関わって、それを生き生きとさせる存在であって欲しいかな。