前の記事で、私はアイデンティティーの事を書きましたが、その後、妙にアイデンティティーの事が気になりました。世界を動かしている一つにアイデンティティーがあると聞いたことがあります。アイデンティティーとは、自分とは何者であるかということだと思うんですけど、よくよく考えてみるとそれって「依存」なのかなと思ってみた。辞書によると「依存・・・他のものにたよって存在していること」とあったんですけど、もしアイデンティティーが依存だとすると、もともとアイデンティティーって無いのかなと思ってみた。私が日本人ですと言えるのは、国籍というのもあると思うのですが、日本国という環境で育ってきたというのが強い感じがするんですよね。日本人ですといえるのは、その日本の環境であるとか文化などに愛があってこそ言えることなのかなと思ってみた。でも、世界にはいろんな状況で生活をしている方々がいるみたいで、それがそうとはいえないみたいですよね。でもですね、アイデンティティーみたいなのを強く感じるのって「言葉」じゃないかと考えてい
る自分がいたりします。言葉というか「母国語」。で、「言葉」と考えていたら「バベルの塔」の話が浮かんできました。「バベルの塔」と言ったら、巨大な塔の建設に着手した傲慢な人間に対し、神が彼らの言語を通じなくさせ混乱を生むお話。なんとなくのお話は知ってはいたのですが、ちゃんとは読んだことがなかったので旧約聖書の創世記「バベルの塔」を読んでみました。「バベルの塔」は「ノアの箱舟」の後の話。
創世記「バベルの塔」
全地が一つの言語、同じ言葉であった時のこと、彼らは東から移動して、シンアルの地に平地を見つけ、そこに住み着いた。
彼らは互いに言った、「さあ、われらは煉瓦を作り、焼き上げよう。」彼らは石に代わり煉瓦を、漆喰に代わりアスファルトを得た。また言った、「さあ、全地の面に散ることがないように、われら自ら都市と頂が天に届く塔とを建て、われら自ら名を為そう」。
ヤハウェは降りて行き、人の子らが建てた都市と塔を見た。ヤハウェは言った、「みよ、彼らは皆一つの民、一つの言語である。そして、彼らのなし始めたことがこれなのだ。いまや、彼らがなそうと企てることで彼らに及ばないことは何もないであろう。さあ、われらは降りて行き、そこで、彼らの言語を混乱させてしまおう。そうすれば、彼らは互いの言語が聞き取れなくなるだろう」。
こうしてヤハウェは彼らをそこから全地の面に散らした。彼らはその都市を建てることを止めた。それゆえ、その名をバベルと呼ぶ。ヤハウェがそこで全地の言語を混乱させたからである。ヤハウェは、そこから彼らを全地の面に散らした。
この「バベルの塔」ですよ、なんとなく聞いていた話では人間の傲慢さに神が怒った悲劇っぽい感じで聞いていたんですが、ちゃんと知ってみるとそうではない気がするんですけど。建築物というのは、いつの時代にも発展の象徴というか、そんなものなんでしょうね。そんな当時ではありえないような最先端の建築物が建設されていたんですね。そこに、神が降りて行った。そこで言った言葉は、「いまや、彼らがなそうと企てていることで彼らに及ばないことはなにもないであろう」ですよ。これはですよ、「彼らが今やろうとしている事に、彼らが出来ないことはなにもないだろう」と言っているのだと思うのですが、これってすごく感心していることだと思うんですよ。神は人のやっている事に「すごいねっ!すごいよっ!」と言ってるんだと思うんですよ。感心しているワケです。で、神は思った。「みよ、彼らは皆一つの民、一つの言語である」と。それは「こんなすごい技術を持っているのは、この一つの民族だけ?」と。それはですよ、発展もするのかもしれないけど、ある程度の地点で止まってしまうのかもしれないですよね。それよりかは、神的には、もっと発展してほしいなと思ったのかもしれない。もっとすばらしい建築物を見たいと思ったのかもしれない。それには切磋琢磨が必要なのかなと思って、神は「さあ、われらは降りて行き、そこで、彼らの言語を混乱させてしまおう。そうすれば、彼らは互いの言語が聞き取れなくなるだろう」として、彼らをそこから全地の面に散らしたということですけど、これは、そのすばらしい建築物の建設に携わっていた人々を各地に分散させて、なおかつ言葉をも変えてしまって、なかなか元に戻れない状態にしたのですね。その分散させられたその土地で、それまで携わっていた技術を磨き上げるしかない状態にしたのではないのでしょうか。それが、各地に分散しているワケで、隣の国はどんなの造ってるのかなぁって気になって覗いてみたりして、ある意味競争心とかわいたりしてそんなことで発展してきたのではないのでしょうか。。。という解釈になったんですけど、そうすると「バベルの塔」というのは、それまでなんとなく聞いていた、人間に対する神の怒りの話ではなく、人間に対して発展を願う神の話なのではないのでしょうか。日本は戦後の混乱の中から発展してきたとよく耳にします。「混乱」の中から発展が生まれるのですね。バベルの意味は「混乱」。やはり「バベルの塔」は発展への願いの話なのではなかろうか。
「創世記」というお話は映画などで知ってはいましたが、聖書では読んだ事がなかったので読んでみました。「創世記」の第一部を読んでみて思ったのが、神は人に、いわゆる「ぬるさ」を与えないんですね。以前、旧約聖書の解説本を読んでみた思ったのは、聖書は大人になる為の本だと思ったんですけど、やはり、神は人間の成長であるとか発展を望んでいるんだろうなと感じました。改めて文章でそのお話を読んでみるといろんなことを思う。そしてまた疑問もいろいろ出てくる。
る自分がいたりします。言葉というか「母国語」。で、「言葉」と考えていたら「バベルの塔」の話が浮かんできました。「バベルの塔」と言ったら、巨大な塔の建設に着手した傲慢な人間に対し、神が彼らの言語を通じなくさせ混乱を生むお話。なんとなくのお話は知ってはいたのですが、ちゃんとは読んだことがなかったので旧約聖書の創世記「バベルの塔」を読んでみました。「バベルの塔」は「ノアの箱舟」の後の話。
創世記「バベルの塔」
全地が一つの言語、同じ言葉であった時のこと、彼らは東から移動して、シンアルの地に平地を見つけ、そこに住み着いた。
彼らは互いに言った、「さあ、われらは煉瓦を作り、焼き上げよう。」彼らは石に代わり煉瓦を、漆喰に代わりアスファルトを得た。また言った、「さあ、全地の面に散ることがないように、われら自ら都市と頂が天に届く塔とを建て、われら自ら名を為そう」。
ヤハウェは降りて行き、人の子らが建てた都市と塔を見た。ヤハウェは言った、「みよ、彼らは皆一つの民、一つの言語である。そして、彼らのなし始めたことがこれなのだ。いまや、彼らがなそうと企てることで彼らに及ばないことは何もないであろう。さあ、われらは降りて行き、そこで、彼らの言語を混乱させてしまおう。そうすれば、彼らは互いの言語が聞き取れなくなるだろう」。
こうしてヤハウェは彼らをそこから全地の面に散らした。彼らはその都市を建てることを止めた。それゆえ、その名をバベルと呼ぶ。ヤハウェがそこで全地の言語を混乱させたからである。ヤハウェは、そこから彼らを全地の面に散らした。
この「バベルの塔」ですよ、なんとなく聞いていた話では人間の傲慢さに神が怒った悲劇っぽい感じで聞いていたんですが、ちゃんと知ってみるとそうではない気がするんですけど。建築物というのは、いつの時代にも発展の象徴というか、そんなものなんでしょうね。そんな当時ではありえないような最先端の建築物が建設されていたんですね。そこに、神が降りて行った。そこで言った言葉は、「いまや、彼らがなそうと企てていることで彼らに及ばないことはなにもないであろう」ですよ。これはですよ、「彼らが今やろうとしている事に、彼らが出来ないことはなにもないだろう」と言っているのだと思うのですが、これってすごく感心していることだと思うんですよ。神は人のやっている事に「すごいねっ!すごいよっ!」と言ってるんだと思うんですよ。感心しているワケです。で、神は思った。「みよ、彼らは皆一つの民、一つの言語である」と。それは「こんなすごい技術を持っているのは、この一つの民族だけ?」と。それはですよ、発展もするのかもしれないけど、ある程度の地点で止まってしまうのかもしれないですよね。それよりかは、神的には、もっと発展してほしいなと思ったのかもしれない。もっとすばらしい建築物を見たいと思ったのかもしれない。それには切磋琢磨が必要なのかなと思って、神は「さあ、われらは降りて行き、そこで、彼らの言語を混乱させてしまおう。そうすれば、彼らは互いの言語が聞き取れなくなるだろう」として、彼らをそこから全地の面に散らしたということですけど、これは、そのすばらしい建築物の建設に携わっていた人々を各地に分散させて、なおかつ言葉をも変えてしまって、なかなか元に戻れない状態にしたのですね。その分散させられたその土地で、それまで携わっていた技術を磨き上げるしかない状態にしたのではないのでしょうか。それが、各地に分散しているワケで、隣の国はどんなの造ってるのかなぁって気になって覗いてみたりして、ある意味競争心とかわいたりしてそんなことで発展してきたのではないのでしょうか。。。という解釈になったんですけど、そうすると「バベルの塔」というのは、それまでなんとなく聞いていた、人間に対する神の怒りの話ではなく、人間に対して発展を願う神の話なのではないのでしょうか。日本は戦後の混乱の中から発展してきたとよく耳にします。「混乱」の中から発展が生まれるのですね。バベルの意味は「混乱」。やはり「バベルの塔」は発展への願いの話なのではなかろうか。
「創世記」というお話は映画などで知ってはいましたが、聖書では読んだ事がなかったので読んでみました。「創世記」の第一部を読んでみて思ったのが、神は人に、いわゆる「ぬるさ」を与えないんですね。以前、旧約聖書の解説本を読んでみた思ったのは、聖書は大人になる為の本だと思ったんですけど、やはり、神は人間の成長であるとか発展を望んでいるんだろうなと感じました。改めて文章でそのお話を読んでみるといろんなことを思う。そしてまた疑問もいろいろ出てくる。