【2018年5月某日】
爽やかな春の青空。
朝から布団を干したり、開店と同時にスーツをクリーニングに出したりしてるけどさ、疼くんだよね。
こんな天気の良い日に、一人で社宅に籠る理由はない!
ってことで、そそくさと準備し、毎朝利用している阪急京都線に乗車。
茨木市駅でバスに乗り換え、降り立ったのは、前回乗車した「中河原南口」停留所。
府道110号を北上、前回食事したアルブラザを通り過ぎれば、徒歩5分ほどで前回のゴール地点。
見覚えのある交差点に「中川清秀由緒地」の石碑。
ちゃんとやってきた証拠?にもう一度シャメしておく。
時計は11時半。
ちょっと暑いけど、午前中のうちにスタートできるのは◎。
前回の続き、西へ向かって走り出す。
前半はほぼ1本道で簡単なのさ。
そしてこの道はいかにも旧街道らしい道筋で、いきなりテンションup!
国道171号を渡ってそのまま川沿いに降りていくんだね。
100mほどで少し広い道に合流すれば、阪急バスの「宿川原」停留所。
そしてそこは同名の変則交差点でもある。
それにしてもさっきは中河原、こっちは宿川原。
「かわ」の字が違うってのが何だか余所者には面倒くさい。
まぁきっと何か理由はあるんだろうけど。
斜め(南西)へ進む少し狭い道を選択。
といっても、交差点には「←本陣入口100m」の案内板もあるし、いかにも旧街道を思わせる石畳風の舗装がしてあるからね。
途方に暮れることはないけどね。
で、何の本陣かという、ここからが郡山宿で、その本陣がまさに100m行ったところに現存している。
ここから先、特段見どころはなく、600mほどで勝尾寺川という小川を渡る。
鍛治屋橋、というらしいが、郡山宿はここまで、ということらしい。
住宅街の中をくねくねと進む。
突然ロータリーが現れ、幾何学的な建物と、線路らしき高架が現れた。
大阪モノレール、豊川駅。(冒頭写真)
乗ってみたい気持ちはもちろんあるけれど、さすがに走り出して3km少々では止めるわけにはいかない。
またいずれ乗車することにして、今日は高架下を素通り。
くねくね続く1本道だから迷う状況でもない。
そしてここから箕面市に入ったらしい。
しばらくすると、「楠水龍王」。
要するに、前回桜井で息子と別れた楠木公。
この井戸でのどを潤した、ってことさ。
その真ん前には古い道標も残り「右 京ふしみ道」と読むことができる。
さらに道は続いている。
地図見なくてもいいぐらいで、効率いいなぁ。
所々に旧家らしき屋敷もあって、視覚的にもそれなりに楽しい。
右手に大鳥居。
この先、4kぐらい山上にある、勝尾寺への入り口ってことらしい。
お寺なのに鳥居。
神仏習合の名残だね。
もっとも鳥居自体は新しく、あの阪神淡路大震災で被害にあい、再建されたもの。
国171が右手に寄り添い、その1本南を付いたり離れたり…の状態がしばらく続く。
でもその状態も、「西宿西」の信号手前でついに国171へ吸収されて終了。
西国街道はここでいった消失しているようで、ちょっとの間、我慢して国道171を走るしかない。
最初の信号、「萱野4丁目」で左折し、100mほどで右折。
児童公園(向畑公園)があり、この辺から旧街道は復活している。
すぐに現れる大きな屋敷。
「萱野三平記念館」。
萱野三平は、赤穂浪士47士のうちの1人。
忠臣蔵が好きな人にはたまらない施設なんだろうけど。
ごめん、俺、忠臣蔵、そんなに好きじゃないんだよね。
討たれた吉良上野介は、現在の愛知県西尾市吉良地区を治めていたお殿様。
尾張と三河の違いはあれど、同じ愛知県人として、吉良の名君ぶりは知ってるからねぇ。
黄金堤を築き、地元吉良の街を善政で治め、領民にも慕われていたことを知れば、赤穂浪士を美化する気持ちには到底なれないなぁ。
吉良邸討ち入りの伏線となった松の廊下事件。
大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士の面々からすれば、「喧嘩両成敗なのに、我が殿(浅野内匠頭長矩)だけが一方的に処罰され、吉良が無罪なんて!」という理不尽が吉良邸討ち入りの(表向きの)動機になってるわけだが。
そもそも松の廊下事件は「喧嘩」なのか?という話だよね。
「喧嘩」ということにして、討ち入りを正当化しているだけのような気がする。
吉良さんは刀に手も付けず。
というより、普通に廊下を歩いていたところを、浅野君が背後から突然襲撃した。
これは喧嘩じゃなく、暴漢だよね。
ならば暴漢という罪を犯した浅野君だけを処罰した幕府の裁定は、理不尽でも何でもなく、当然のこと。
いくら武士の世でも、平時に普通に歩いてるだけの人を一方的に襲うなんてことを正当化する法度も道理もありません!
理不尽なのは、突然襲われ、大怪我を負った吉良さんの方だろ!と思うんだけど。
しかも理不尽はそれで終わらず、数年後には逆恨み?した47人の部下たちに屋敷を急襲され、刺殺されてしまう。
現代なら、敵討ちどころか、むしろ吉良のご遺族や領民から莫大な慰謝料を請求されて賠償しなきゃいけなんじゃないの?
歴史は生き残った人たちによって都合よく盛られて語られることを示す典型的な例だ。
いかんいかん、熱くなって脱線してしまった。
とりあえず建物自体は歴史を感じる佇まいだから、シャメだけ取っておく。
すぐ先でY字路。
ここは左ね。
しばらくは街道らしい1本道。
やがて国171に合流し、「牧落」の交差点に出る。
国道を反対側に渡って100mほどで、右斜めに分岐するのが西国街道で、さらに200mほど進んだ十字路に、当時のままの道標が残る。
道標の示す通り、ここは西国街道と箕面道の交わるところ。
当時から十字路だったわけだね。
ここからまた1本道。
400mほどで変則交差点に出るけれど、ここも方角は変えずに、阪急箕面線を踏切で渡れば正解。
そして見えてくるのが桜井駅。
前回、楠木公で有名な「桜井駅跡」を通ったばかりで錯覚してしまいそうだけど、こっちはリアルに阪急電車が停車する、現代の桜井駅ね。
住所的には箕面市桜井。
ここでやめ…ないよ。
まだまだ!
頑張るよ!
しばらく走ると「半町2丁目」の交差点。
この辺りがかつての瀬川宿、ということらしいが、それを偲ぶものはほとんど残っていない。
自動車学校の前に、本陣跡を示す案内板が建つのみさ。
瀬川2丁目の交差点をそのまま直進。
200mほどで住宅街の中の変則のT字路を左折。
特に目印もなく、わかりにくいけれど、「今井橋」の手前、というのがキーポイントかな。
ややこしいけれどそのまま進むと、阪急箕面線&国171バイパスの高架下を通り、国171(旧道)に合流。
瀬川5丁目の交差点に出たら正解。
100mもすればまたまた右に旧街道が分岐。
とはいえ、特段見るべきものはない。
ただし、この辺りで池田市に変わるようだ。
少し西側には阪急石橋駅(2019年10月に「石橋阪大前」と改称されました)。
宝塚線と箕面線の合流する主要駅のため、この辺りは個人商店も多く、ごちゃごちゃした感じだ。
また国171に出た。
「石橋阪大下」の交差点。
でも交差点の斜め向こうに分岐する街道を確認。
もう「慣れ」さ。
風格のある大きな屋敷。
どんな由緒があるのかと思いきや、お寿司屋さん!
さすがに今、お寿司を食べてる場合ではないが、気になってシャメしてしまう。
阪急線の踏切に出た。
その手前にあるのが、旧石橋村高札場跡。
案内板の説明によれば、ここは線路を挟んで、変則の十字路になっている。
しかもその間に小さな川があって、そこに石橋がかかってたんだね。
説明されるまでもなく、恐らくこれが地名の由来だよね。
そして南北の道が能勢街道、今自分が走ってきた東西の道が西国街道。
要するにここが石橋村の中心地だったわけね。
高札場ができたのは当然の理だ。
踏切を渡って道なりに。
しばらくはチェックポイントもない。
街道案内のつもり?なのか、道の両側に緑のラインが入っているのが分かりやすい。
「住吉2丁目」で信号を直進、そのまま進むけれど、やがて中国自動車道に行く手を阻まれてしまう。
ここで地下道が用意されてるからさ、反対側に出ると、街道が続いてるわけさ。
わずに街道らしさを感じる一角で、右側に「受楽寺」。
ここに「春団治の碑」なんてものがある。
要するに、この寺は3代目の春団治が建立した、とのこと。
ごめん、詳しくないんだけど、確か落語の人だよね。
野球好きのコスモタイガーにはかつての阪神タイガースの代打男、川藤選手のイメージしかない。
しばらく走ると、大きな高架道路(大阪中央環状線)と箕面川にぶつかり、西国街道はいったん途切れる。
階段を上がって、箕面川を渡るしかない。(新聞橋)
そして渡り終えると国171。
ここからはしばらく国道runとなり、伊丹市に入った。
片側2車線のこの国道が旧街道をベースにしていることがわかるのが、旧入江家住宅と旧中村家住宅。
隣り合って建っている。
さらに国道を進む。
「軍行橋」。
下を流れる大きな川は猪名川。
橋の真ん中の景色って、なんかいいんだよね~。
渡り終わってすぐの交差点が、「軍行橋西詰」。
ここに階段があり、西国街道踏破(走破)者は、この階段を下りるように案内表示してある。
降りてから案内板通りに堤防道路を行き、400mほど南下したところから西国街道が復活、となるんだけど。
降りたところでコスモタイガーはコースアウト!
そろそろトレーニングを締めたいのさ。
そのまま国171に沿って高架下を走る。
約200m。
JR福知山線(通称宝塚線)。
右に視線を移せば、そこには北伊丹駅。
快速も通過してしまう、ちょっと地味な駅だけど、駅前に大きな公園(県立西猪名公園)があるのが魅力。
まだ時計は14時を少し過ぎたところ。
着替えたりしながら、少し公園を散策。
西国街道は近いうえに密度が濃いからね。
随分頑張ったつもりだけど、距離としてはロス分も含めて16~17kmといったころかな?
帰路も特筆すべきルートでも何でもないけど、駅名標でもシャメっとくか!
とはいえ、ここから伊丹駅までのわずか1駅は初乗りかな?多分。
やって来た電車に乗って、尼崎駅で東西線に乗換、北新地駅下車。
あとは徒歩。
まだ明るい時間に社宅に到着し、布団も片づけ、のんびりしたコスモタイガーであった。
マラソンしていると、道中にいろいろな誘惑がありますね。しかも、西国街道は歴史街道でした。^^
大阪モノレール線(大阪空港駅 - 門真市駅)は、iinaが平成6年に大阪に赴任した時はなく、伊丹空港を利用するときはバスでした。
バスに遅延がつきものですから開通して便利になりました。でも、開通した9年に去りました。
松の廊下事件の忠臣蔵で、善政の吉良上野介に肩入れするりを次のとおり理解します。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/d423729f151f4a9959464b683c1b3c49
心情的に気の毒と思う以前に、「徳川成憲百箇条」にも違反しています。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/b96a51714ec7ae60bebbb25f72eff2c7
江戸時代を通じての大名は何代も替わって交代する仕組みは転勤族と同じです。
それが廃藩置県で領国を取り上げられても「城地は天下のもの」という思想が出来たと解釈できるそうです。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/f4db86e2693b8bea81c89f7c041c7052
(コスモタイガー)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上(iina)に置きました。
最寄り駅(名鉄西春駅若しくはJR中央本線勝川駅)からバスでしたから、かなり余裕持って行動してました。
現在のセントレア(中部国際空港)は、名古屋駅から名鉄で1本。
そのまま空港敷地内に乗り入れてます。
便利になりました。
さすがiina様
松の廊下事件、詳しいですね!
徳川成憲百箇条、は初めて知りました。
そもそも論として、浅野内匠頭の親族でもない47人の浪人たちが「敵討ち」することに強い違和感を感じますし、その根拠となる立派な法度があったということですね。
勉強になりました。
浅野内匠頭がご乱心した理由については諸説あるそうですが、どんな事情があるにせよ、普通に歩いてるだけの人間を背後から襲うなど、暴漢以外の何物でもない。
これが両成敗なら、現代に例えるなら、突然通り魔に襲われただけでも「両成敗」になってしまいます。
こんな滅茶苦茶な話がなぜ美談になるのか?
昔から不思議でした。
歴史の先生が一生懸命語っても、どうしても納得できない。
どこをどう解釈しても「喧嘩」には思えない。
偏屈な学生だったんです(笑)。
まして自分は愛知県人。
吉良地区も名古屋からそれほど遠くなく、吉良側に触れる機会に恵まれてます。
忠臣蔵は、事件から何十年か経ってから、事件をモチーフにして書かれた「創作もの」。
プロデューサーとして、赤穂浪士の生き残った誰か(もしくはその関係者)が関わっていて、意図的に美談にすり替えたのかもしれませんが。
その結果、被害者であるはずの名君吉良上野介が、いじわる爺さんみたいなキャラに仕立て上げられ、チョー嫌な奴に。
単にキレちゃっただけの若者(浅野内匠頭)が悲運の名将のごとく扱われ、単に失業した怒りで吉良公を逆恨みしただけの浪人たちが、「忠義のために」にすり替わり、命を懸けて敵討ちを果たす、というストーリーに。
そして日本人はこういう「忠義もの」には弱い(笑)。
こんな主客転倒したような話にあっという間に洗脳?され、あたかも事実であったかのように後世に伝えられたのかな、と思ったりしています。
西国街道と箕面道の十字路の道標もよいです。
旧石橋村高札場跡の変則十字路の案内板も助かりますね。
全国の旧街道も、こういう案内表示が多いと助かるのですが。
とはいえ、やはり所々迷いやすい箇所はありましたから、事前リサーチは必要ですね。
市町村によって、本当に温度差がありますよね。
ほとんど無関心、としか思えない地区もあったりします。
行政単位で考えれば、道標設置のお金など、それほど経費の掛かる話とは思えませんからね。
ド派手なハコモノ作るぐらいなら、こういうさりげない観光資源こそ有効活用してもらいたいな、と思ったりします。