ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

小説を書くなら、まずはこんな小説が書きたかったのに・・・

2009-11-25 23:19:04 | 文学
○小説を書くなら、まずはこんな小説が書きたかったのに・・・

自分が小説を書くなら、こういう小説を書きたかったという作品と遂にエンカウンターしてしまった。そう、それはまさに「してしまった」と書くしかない。作者の大崎善生にとっては力作という名の作品なのだが、たぶん、この「タペストリーホワイト」(文春文庫)という文庫本の中に、僕の青年時代の総括がまるごと書き込まれていたのである。勿論物語の中の人物設定も生活空間の設定も創造的であるがゆえに、普遍性を持ち得ているわけで、誰が読んでもおもしろい作品に仕上がっているだろう。つまりはその時代にシンパサイズするか、アパシーを決め込むかは別にして、プロフェッショナルこそはこの本を手にとった読者を否応なくあの頃の時代へと引きずり込む力業を持っていると言っても差し支えないだろう。大崎善生はもともと僕の好きな作家だし、彼の作品はほぼ読んではいるが、まさか大崎によって僕自身の過去が総括されてしまうとは考えが及ばなかったのである。ありがたい、と感じると同時に、やられた、という敗北感とが同時に襲ってくる。
 とは言え、70年代といういまだに一つの概念性で包括し切れないと思われる時代性と、その時代性の中で翻弄される3人の若者の生き死にのプロットの進行だけで、僕にはぼんやりとした過去の痛みの感覚でしかなかったわけのわからなさを、具象化し、抽象化し、普遍化する筆致は見事という他はない。

極左暴力主義の衰退化とともに訪れた、その頃にはもう誰にもはっきりとはしなくなった、意味不明のセクトどうしの潰し合いと、「革命」という残り滓のように漂っていた頃の学生たちの行動とのむすびつきそのものが、まさに対立セクトの誰それの寝込みを襲う襲撃とその成果を、誰も聞いてはいない大学のキャンパスの中でアジることで、ますます時代から取り残されていく。襲撃され、鉄パイプで頭をかち割られ、飛び散った血と脳漿の中であえない最期を遂げた学生たちにとっての悲劇として、また鉄パイプを対立セクトの狭苦しいアパートで、ターゲットの学生の頭に振りおろすことで革命家気どりを装っている学生たちにとっては、罪悪と云うよりは、その行動と思考のありようが喜劇的であるという意味で、あの時代は説明がつかない。小説空間における人間の根源的な哀しみという概念に昇華させたことで、ごたごたとした事実を書きなぐらずとも、時代の全体像を描き切ったという意味において、この小説は名作である。

青年の頃、対立セクトに攻撃命令を出してはみたが、その後の殺戮の連続を予期して中止命令を出したセクトの長だった僕は、仲間だった連中から手ひどいリンチに遭ったが、幸い頭をかち割られることはなく、骨を何本か折られたくらいで済んだのは、単なる偶然性に過ぎない。僕が予期したように、僕がセクトそのものから抜けた後で、何年もの間、セクト間の殺し合いが続いたのは、当時の若者の情熱のいきどころがなかったからだろう。もうすでに革命のドンチャン騒ぎは過ぎ去っていたのである。確かに僕は政治的転向組だったが、どこか中途半端で、極左時代の思想に翻弄されて、教師という仕事を失くした。その一方で、見事に世の中の経済機構の中で、社会的成功者に成り上がった人間も多数いる。僕に何を批判する権利もないが、変わり身があまりに見事だと、そのことでいつか足をすくわれるだろうという予測は立つ。世の中そうでなければ、頭蓋骨を粉々にされて死んでいった人間は浮かばれないだろう。ともあれ、今日は、あの時代に共鳴し、反発しつつ、この作品を書き上げた大崎善生を褒めたたえることにする。

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長野安晃