ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

生のとりかえしのつかなさについての観想

2009-11-27 03:27:51 | 観想
○生のとりかえしのつかなさについての観想

奥田英朗という作家の作品を僕は好んで読むが、いろいろな色彩の作品がある中で、読まずにはいられない作品群がある。特に一人の主人公という存在にこだわらず、登場人物の5-6人の物語が並列的に描かれていくのだが、作品の最終部に全ての人物が、いっときにギュッと凝縮されたように一つの塊りになって、奥田の生に対するメッセージとして終焉するスタイルをとる。この作品群に属するのは、「邪魔」「最悪」そして「無理」という長編作品である。それぞれの作品に登場する人物たちは、例外なく人生に倦み疲れた人々である。金持ちもいれば、貧乏人もいるが、生活の次元を異にしながら、己の人生というものに納得がいかず、どうにかして、これまでの人生を変えようともがいている。

人生にもがき苦しみながら、彼らは自分の人生の取り返しのつかなさから何とか脱出しようと、各々の環境の中で哀しいほどのドタバタ劇を演じ、それぞれのドタバタ劇の過程で事態をますます悪化させてゆく。彼らを悲喜劇入り混じりのドタバタ劇に駆り立てるのは、自分たちの人生のどうしようもない取り返しのつかなさに対する、個としての人間の抵抗のなせる業である。取り返しようのない人生を奪還しようとしながら、それらの試みは見事なまでに裏切られ、永遠に救いのない人生行路の末路へと、坂道を転がるかのごとくに、加速度を増しながら向かっていくのである。

読後感はある意味最悪である。たぶん読者の人生における取り返しのつかなさの別の表現を、奥田の巧みな筆致によって、鋭角的に突きつけられる。しばらくの放心状態の後に襲ってくる感情は、無論生に対する前向きな人生観などではなく、かと言って、虚無感に打ちひしがれるのでもない。さらに言うと、人生に対する諦念の想念などでは全くないのである。読後の最悪の気分をもう少し僕なりの感覚で書き足しておくならば、それは、たぶん人生に対する負の感情には違いないが、敢えて言うなら、自分の人生も同じように確実に取り返しのつかない行路を歩んで来た結果の、勝ち負けで言うなら、完璧な負け試合の結末ではある。けれども、それにしても、まだまだ自分なりのドタバタ劇は続けられるだろうエネルギーは少しは残っていそうな気分になり得ることくらいであろうか。いずれにせよ、すでに青年の頃に勝手気儘に夢見た甘ったるい未来像など完全に閉ざされた、まさにとりかえしようのない、この時点から、どこへ転がり落ちようともジタバタしてやろうじゃあないか、という開き直りに近いモチベーションが湧いてくるのはどうしたことだろうか?生き抜くならば、このモチベーションに賭けるしかないではないか?

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃