ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

現代醜女(しこめ)考

2009-11-29 20:52:33 | 観想
○現代醜女(しこめ)考

シャルル・プリ二エの「醜女の日記」という名作がある。姿かたちは、フランスのある時代のいわゆる美しくはない女性の日記体の小説なのだが、主人公は自分のことを醜女(しこめ)という認識を持ちつつ生きているわけである。しかし、彼女が書き記していく日記には、人間の切ないほどに美しい心のありようが描かれていて、読むものは自分が失いつつある人間としてのあるべき姿としての本質を突きつけられる想いで読了するのである。

さて、今日の話は、現代の醜女(しこめ)とはどのような女性を指して言えばよいのか、ということである。世の中が戦乱の只中でもないかぎり、好景気であればなおのこと、昨今のような不況の嵐が吹き荒れても、女性は美しくなるためには、惜しみない投資をして憚らない。無論一般論だから、例外は必ずあるだろう。女性の美しさ、男性の美しさも含めて、かなり短いスパンで、その規定概念は変わっていくのが普通である。男性においても現在の<イケメン>という美形は、たとえば、昭和初期の美男子とは似ても似つかないだろう。これが女性の美となると、さらに美しさの規定のスパンは短くなる。化粧の仕方一つとっても流行の激変とも言うべき現象が起こってあたりまえのことでもある。外見としての美などに、普遍性という概念を当てはめる方が困難だろう。芸術作品においてすら、個々の作品における芸術性の価値について、普遍性を語ることは無効なことでは勿論ないが、美というものを抽象化して、時代の流れを超越した美のかたちを創り出すのはそもそも不可能なことなのではないだろうか。この意味において、シェイクスピアのマクベスに登場する3人の魔女の言葉は、普遍的に有効なのである。つまりは、<きれいはきたない。きたないはきれい。>という言葉は美の変遷の過程における規定的表現として正しい。もっと具体的に言えば、普遍的な美というものは存在しない。しかし、時代的背景の変化という状況の中で生み出された芸術作品―造形的な作品においても、文学的・哲学的な非造形的な作品においてもーには、普遍的とは言えないが、特定の時代的背景下における代表的な美の規定はあり得るとは思う。

美しさの定義に関しては、時代を超えるがごとき絶対的なそれは存在しないが、逆に美に対する醜に関する定義は、限界は感じつつもある程度は普遍化出来るような気がするのである。冒頭でシャルル・プリニエの「醜女の日記」をとり上げたが、無論醜の概念性は、当然に男にも当てはまらねばならないはずのものだ。昨今は男と言えども、己の美に対する執着が増大しているので、女性だけの問題を論じるのは些か憚られるが、それでも女性の美に対する執念は、遥かに男性のそれを上回るので、女性の美醜について述べる方が分かりやすいだろう。生物学的な観点で言えば、時代の影響は免れないが、外面的な美が女性の価値判断にとって如何に大きい要素であるかは明らかである。しかし、美に関わる考察の殆どを遺伝子の領域に閉じ込めてしまうのは、大いなる誤謬である。美とは美しくあろうとする意思である、という規定が私にとっては最も胸に落ちる考え方である。ここに経済の論理が入り込むと美醜の問題が複雑化する。つまりは金持ちは、整形という手段でどのようにもエセものの美をかたち創ることができる。あるいは金のかかる美の維持にも事欠かないであろう。世の中、そもそも不公平なのだから、金持ちは金持ちに生まれついた幸運を楽しめばよいと思う。いくら金をかけても、美の意味が理解できていないと、それは美的外形を得たゆえにこそ、逆に醜に最も近づくことになる。私がかねてより持論にしている<からだ>という概念性とは、精神と肉体との合一そのものである。したがって、たとえ、創りものであれ、よりよい美を得たとするならば、その美に相当する精神の美的価値意識を磨かなければ、心の貧しさゆえに、外面的なる美は醜を超えた醜さとなり果てる。シャルル・プリニエの「醜女の日記」とは真逆の意味で、言葉通りの醜女になり下がるというわけである。昨今、この種の醜女が増えているような気がしてならないのは、果たして私だけの観想なのであろうか?

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃