ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○情熱的であること。これは結構大事なんだと思う。

2012-02-05 15:52:13 | 観想
○情熱的であること。これは結構大事なんだと思う。

生きることに慣れ切ると、自分がいったい、どのような価値観に基づいて日々をやり過ごしているのかが、分からなくなることがしばしばある。そもそも<やりすごす>というモノ言いが、日々の怠惰を象徴しているかのようで、書きながらウンザリとしている自分に気づくのである。

自分は、passionateな資質を縦横無尽に使い切って生きるタイプの人間だと、かつては思っていた。確かに、限られたある時期、かなりな素養を駆使したようにも思うが、残念ながら、僕の場合、passionateと云う言葉の「情熱的な」とか「熱烈な」という概念からずり落ちて、いつしか「怒りっぽい」「短気な」という意味がぴったりと当てはまるような、実に扱いづらい、単なる考えのないおっさんに成り下がっていた時期が長いのである。

合わんなあ、と思いつつも、大学を出てから長年しがみついていた仕事を辞したあたりから、僕の生に対する確信が根底からぐらつき始めた。いまにして思えば、宗教法人のなすがままの私学の学校経営のいちいちに盾ついて,放逐されるだろうな、という想いが募るにつけ、ますます自分の中の言葉本来のpassionateな資質を研ぎ澄ませていた、とは思う。その時点での僕の言動には、時勢を読み切れない過剰さがあったにせよ、思想的・実践的な意味での過ちはなかったと確信している。まあ、かつての同僚や上司たちから言わせると、たぶん、僕はどうしようもなく、浮き上がった存在にして、扱いづらい教師だったは思う。

しかし、その学園を去ってみると、自分は結局のところ、唾棄すべきだと固く信じていた、当の学園の名前の下で胡坐をかいていただけの、小さな、実力なき英語教師に過ぎなかったことが分かる。その後の数年間は、家庭崩壊、それまでの友人・同僚たちとの決別、能力なきがゆえの無職の彷徨の時期を掻い潜らねばならなかったわけで、いつしか、僕の裡なるpassionateは、単なるshort-temperedにすりかわってしまうハメになった。いや、もっと正確に言うならば、その前にapathy syndrome(無気力症候群)と称するのが最も妥当な状況下で、腐れ果てていたと言うべきだろう。

人間にとって、apatheticな状態ほど、自己にとってはつらく哀しく、また自分に関わっている他者に対して、egoisticな態度を見せてしまうことになるのである。それが、「わがまま」「自分本位」であることは言うまでもないが、「わがまま」で「自分本位」な歪み切った個性が、根拠なき「うぬぼれ」を生み出すことを、言葉の定義を識るまえに、自分の中で生起することを実感として感得しているのである。もう、こうなると、情熱はどこかへ去り、虚無的なエセら笑いしか自己表現の手段がなくなってもくる。生に対する絶望が心の隙間に忍び込んで来るのは、まさにこういう時なのだ。僕は絶望し、孤独の果ての果てで生き忍んでいた。生きる希望など微塵もなくなっていた、と思う。いまやそういう記憶すら曖昧にぼやけているから、無意識下で、かつての自分の過去の姿を消し去りたいという気分、濃厚なのだろう。

さて、言葉本来の情熱について、である。少し書きとどめておこう、と思う。人が情熱を抱くことは、当然のことであって、それは、冷静の反意語ではない。冷静な言動が意味をなすのは、その底に深い情熱が込められているからに他ならないのである。もっと言うならば、僕たちはこの時代性において、あらためて裡なる情熱を再燃させる必要があるのではなかろうか。僕たちの心は、知らず知らずのうちに冷え切ってしまっているのではなかろうか。他者の存在を尊重するのはまことに結構なことだ。が、それは単に精神的な距離を置くことでなされるべきものではない。他者性に対して自覚的になるためにこそ、情熱が必要なのである。こういうことを抜きにした他者との関わりなどは、冷え切った料理みたいに、つまらない存在だ。相互補完的に情熱を注ぎあえる存在、それが、他者を視野に入れた生き方なのだ、と僕は思う。他者を尊重するかにみえる実質的なapathyなどは、ドブにでも打ち捨てるべきものだ。こうしてはじめて、僕たちの未来は、血肉化されたものになり得る。生きる可能性は大いに広がるのである。自戒のこととして、書き記す。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃