ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○「アバウト・シュミット」再々考

2012-02-14 23:05:59 | 観想
○「アバウト・シュミット」再々考

「アバウト・シュミット」という映画について書くのは、これで3度目である。書き尽くしたと思えば、書き残したことがすぐにも思い浮かぶような不思議な映画である。それだけ人生という捉えがたき、納得しにくい、反吐が出るほどに浅薄で、また、その反面、生きることそのものに深みあるのが、人生というものだからだろう。そういうテーマとまともに向き合わせてくれる映画だからだろう。

主人公は、ジャックニコルソンでなければ成立しない映画だ。「恋愛小説家」や「恋愛適齢期」のジャックニコルソンに適役以上の要素があったように、「アバウト・シュミット」におけるジャックニコルソンは、凡庸な人間にも自己の人生を回顧し、自己の人生に対して自分なりの評価を与え、残りの人生を生き抜くには、あまりにも歓び見出しがたき真実と向き合い、勇気なきがゆえに生が耐え難いのに、それでも自分特有の人生なんてないのだ、と納得しながら遺された時間を生きるしかないことに気づかせてくれるからだ。鑑賞後、後味がよいか悪いかは、その人の生に対する向き合い方次第だ、と思う。

仕事における実人生で主人公が成し遂げたことなどない、と言っても過言ではないだろう。会社創設以来の最古参という立場でありながら、退職時の部長代理という役職が、彼の無能さ、無能であることが、安全であることと同義語のような仕事ぶりを象徴的に物語っている。また、そのことを、独白で妻が自分に冒険をさせなかったためだ、と言わしめ、自分の能力とは、決してこんなものではなかったはずだとも言わしめている。自己弁護、自己擁護の最たるものだろうが、現実に起こり得なかった可能性に対する憐憫の情が、平凡な人間に考え得る最大の人生脚本のあり方だ、とするなら、凡俗な人間にとって、生きる上で、自己弁護・自己擁護は不可欠な要素とも言えるのだろうか。

退職後、ベッドの横に寝ている、42年間連れ添ってきたはずの、年老いた女のことを、自分はいったい、どこまで知りえているのか?と、彼女の寝顔を見ながらつくづくと思う。望みもしなかったキャンピングカーで思い出づくりをするのだ、と言う妻に、とてつもない違和感を感じる。大き過ぎるその車で、巨大スーパーマーケットに買い物に出かけて、車に積み込んだ買い物の多さにうんざりとして、買い忘れて、レジ待ちの長蛇の列に苛立ち、結果、万引きを仕出かして、警察のお世話になる。大切に育てたと思い込んでいた1人娘がつまらない男と結婚する。妻が突然死するが、主人公にとってみれば、それが自分の老後の人生にとっての痛手だとはすこしも思えないほど、自分がもともと孤独であり、家庭の中で孤立していたことが痛々しく描かれる。親友だと思っていた男と自分の妻が、ずっと昔、自分の出張中にデキていたことを知って憤慨するが、その憤怒そのものが、実感を伴わないほどに主人公は世界の只中で、独りぼっちなのである。その姿は、世界に投げ出された孤独な存在と云って然るべき姿である。

さて、自分のこと。この物語とコラボするか?生活面でも、金銭面でも自堕落な両親に育てられて、自分は絶対両親のようにはならん、と固く決意して、それでも血は争えないのか、環境の影響ゆえなのか、僕自身もかなり自堕落な高校生になり、大学にもまともに入れず、オタクの街でもなく、無論AKB48など存在するずっと大昔の秋葉原の電気屋の小僧をしながら、やっぱり俺はまっとうな生き方をするべきだ、と自分の本質を見誤り、大学に入り直し、英語の教師になった。家庭まで持った。自分が一人っ子だったから、意地になって、二人の息子の父親になった。見た目はきっちりとしたファミリーマンだったけれど、心の中はいつも大荒れだった。その頃の心の叫びとはーこんなはずじゃあなかった!の一言に尽きる。家族を持つことが、こんなに違和感があり、こんなに孤独なのか、と思い知った。父親であるために、毎日決まりきったルーティーンワークに耐えることが、自分にどれほど似つかわしくないことか、身に沁みて分かった。職場も退屈極まりなかったから、退屈感を紛らわすために、いろいろやった。特に思想的な確固としたものがあっての組合活動でもなく、西本願寺の坊主たちに盾ついたのも、無能な職員が多過ぎたこともあるが、それよりも坊主たちが寺の世襲制に胡坐をかいて、その上銭金に汚いことが僕をますます過激にさせた。僕の場合は、外部的な崩壊というよりも、ずっと前に内部的な崩壊感覚に突き動かされていた、という方が正確なのである。

アバウト・シュミットのジャックニコルソン演じる、定年後の哀愁に満ちた孤独感、絶望感を一身に背負っている主人公の立場であれば、僕ならたぶん、耐え切れなくて、自死したことだろう。僕が、いま生きていられるのは、主人公のようなまともな人生を耐え抜けなかったからだ。逆説的に聞こえるかも知れないが、それがもっとも真実を言い表している、と思う。

それにしても、この映画は、これから先の人生を生き抜くためには、示唆多き作品である。主人公がエンディングで流す涙は、養子制度の姿を借りた寄付金集めに乗っかって、自分が金を仕送った子どもからの、哀しいまでにありきたりの、括弧つきの絆を想起させる、ヘタくそな絵に対して、である。当然のことながら、主人公は決して救われてはいない。救われてはいないが、救いの仮想に身を任せざるを得ないのである。この哀しさが生の哀しさと共振して、この作品をより普遍的なものにしている。僕にはそのように感得出来る。まったく検討はずれの解釈なのかも知れないが、自分の人生と重ね合わせると、アバウト・シュミットは、生の哀しみの普遍化、それがテーマとして僕の胸に落ちる。どうだろうか?

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃