ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○自分を客観視できないのが、僕自身の課題なんだろう。

2012-02-08 15:11:16 | 観想
○自分を客観視できないのが、僕自身の課題なんだろう。

現在の状況に辿りつくまでの、もがき苦しんだここ10年以上の年月の間に、僕が最初に陥ったのは、うつ病だった。いまは、真逆の発想をするようにはなったが、ずっと僕はものごとの結末の最悪の状況を想定して、その状況に陥らないための努力をし、当初考えた最悪の状態よりマシな結果を得て安心するような、馬鹿げた心配症をエネルギーに変換する、絵に描いたような小心者だった。だからこそ、文字どおりの最悪の状況に貶められてからというもの、朝を迎えるのが億劫になるほどの、さて、朝になってみれば、朝食を終えたままテーブルを離れることが出来ず、ただただ、そこに居座り続けること以外何も出来ず、ふと気づくともう昼食という始末。世の中とは完全に切れた精神状態ゆえに、なにものに対しても無関心にならざるを得ない。世界と完璧に切り離された状態とは、まわりに他者が居ようと、そのことにすら無関心で、人に迷惑をかけること、この上ないが、それにしても、自己の裡なる孤独感、孤立感たるや凄まじいとしか表現のしようがない。

さて、次に襲ってきたのが、パニック発作である。マジに死ぬかも知れぬというくらいの、苦しさ。どこでどんなふうに起こるやも知れぬという恐怖感にとりつかれる。とはいえ、恐怖感はあるものの、どこでそれが襲ってきても、それが死に直結するにしても、そうなったときは、道端ででも死んでもやる!という開き直りでどうにか克服した。うつ病は、うつ症状という、ちょっとマシな状態になり、しかしそれでも落ち込むのがどうやら習い性になってしまった。いまだに、開き直りの底には、落ち込みやすい心性が隠れているように思う。お次は過食。ひどいときは、たとえば、街に出ると、ケンタッキーフライドチキンを最低6ピース。途中で気分が悪くなるが、それでもひたすら食す。真向いに天下一品のラーメン屋があるから、すぐに飛び込む。ここのドロリとしたスープはチキンベースだから、どれだけ無駄な鶏を無意味に食い散らしたのか、いま考えるとおそろしくもなる。仕上げは、リプトンという喫茶店で、チョコレートパフェである。リプトンのそれは、どこよりも量的に優れている。チョコレートパフェを含めて、過食する僕の場合は、味なんて二の次三の次である。まずまずの味わいなら、あくまで量的なことに関心が向かう。そもそも太りにくい体質だったけれど、これだけ満腹中枢をぶっ壊すような食べ方をやると、かなり不格好な太り方をしてしまうし、太り方のペースが尋常ではないのである。具体的に書くと、着るものがなくなる。特にパンツのサイズが、たとえばユニクロの最大のものに行き着くまで、それほど時間がかからなかったわけで、まあ、病的であったこと間違いなし、である。

それでも、自分がどれほど醜悪(容姿は当然のことだが、精神が鈍重になっているという意味で)になり下がっているか、ということには、どういうわけか、意識が向かなかったのである。自分の体躯が巨大化していく過程で記録された写真を見てはいるはずだが、そのときどきに、自分は(敢えて告白するが)かなりイケテいると錯誤し続けてきたのである。たとえば、ずっと以前のスラリとしていた(自分ではそう思い込んでいたわけだ)時期の写真すら、いまから見なおすと、病的にしか見えないから不思議だ。機会あって、現在はかなり厳しく身体を鍛えていて、体型はこれまでにないマッチョタイプに属するようになってきたが、これとても後から写真でも見れば、相当に行き過ぎた鍛え方をした、醜い老年男そのものだろう。

そもそも、自分とはいったい何ものなのか?という問いを自分に課してきて長い月日が経つ。が、自分の外見すらその折々で、自己満足的に充足した評価をしていて、後で見返すと背筋に冷たいものが流れ落ちるくらいだから、思想的な実像など、到底掴み得ぬ感性・知性しか僕にはないのかも知れないな、と今さらながら思う始末なのである。

人生の総括と称して、ブログという形式をかりて折々の自分なりの考えを公にしてきたが、何をどのように書いても不全感が伴うのに気づきつつも、絶えまなく書き続けてきたが、こういう姿勢すら、思想のラビリンス(迷宮)の中を無目的に彷徨っていただけなのか、と猛省している今日、この頃なのである。

という観想を書き残しつつ、どこまでももの分かりのよろしくない自分がいることにも気づいているので、たぶん、まだこれからも長きに渡って書き続けるのだろうか、と思う。お付き合いしてくださるみなさんにはまことに申し訳ないのだが、今後とも寛容の精神で読み流してくださるならば、この上なく幸せであります。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○せめぎ合いだね、このところ。

2012-02-08 02:06:01 | 観想
○せめぎ合いだね、このところ。

あがいて、あがいて、これまで命をつないできたけれど、それもあがかざるを得ない状況下に追い詰められてもいるから、命をすり減らすようにあがいてきたので、どうもこのところ、自分の中の生の姿の本質的なありようが、ジタバタとあがくことと同義語のようになってしまったことが、ひどくつらく、切なくもある。そうかと云って、これ以上あがいたところで、たいしたことはなにも出来ないのだから、僕という人間は生きる知恵に乏しいというか、なんとも情けない限りなのである。

何ごとも起こらなくて、学校教員のままで勤めていたとしても、すでに定年を過ぎた年齢にまで到達してしまって、なんだか、あがくことにも、もはやそれほど意味が見出せなくなってしまう瞬間、瞬間の連続だったと思う。ある意味、ほっとすればいいものを、これまでは、愚にもつかないことにさえ、あらがいの気分をかき立たせ、生きるエネルギーにしてきたという、どうしようもないバカげたことをやってしまった。現在の客観的な立ち位置と心境、また現在に至るまでの悪あがきの蓄積とが、文字どおりせめぎ合っているのだろう、と思う。換言すれば、もがき、あがくことと、平静な気分でいることとのせめぎ合いの時期とも言えるのだろう。

僕は、少なくともこの10年以上の間に培われた生に対する構えとは、反抗の論理そのものではないか、と気どってはきたけれど、実際のところ「反抗の論理」を思想化したアルベール・カミュの苦悩の上っ面だけを掬い上げて悪利用した感があり、そういう自画像には、唾を吐きかけてやりたい衝動に駆られるばかりである。

こういう状況のもとで、さて、短いには違いない僕自身の命の残り滓に如何なる意味を見出せるのだろうか?なにをどのようにすれば、僕はこの先の生き方に、ぼんやりとしたものであれ、光を照射することが出来るというのだろうか?

こんなふうに考えると、僕の中に、かなり卑近な二者択一の論理が渦巻いていることに気づく。一つは、もうこの歳なんだから、これまでの過去の出来事に対するこだわりをすっかりと捨て去って、せいせいした気分に浸って、穏やかに己れの来るべき死と向き合うか、はたまた、幼稚で拙い己れの思想(とも呼べない代物に過ぎないけれど)を、一旦壊し、壊し尽くして、瓦礫の中に、こマシな思索の跡を残して死にゆくか、という、実にありふれた、新味のない選択の余地である。

と、書きながら、こんな裡なるバカ騒ぎには毎度のことながら辟易させられる。こういうグチにつき合ってくださる人の身になって考えてもみろ!という内心の声が、僕の脳髄の中で反響しあっている。前記した選択肢は、つまらないグチに限りなく近いものだけれど、この小さき僕のような人間にとってみれば、ハムレットの独白ほどの意味を持ち得ると告白すれば、大仰過ぎるのか?

ともあれ、このところのせめぎ合いの答えは出ていない。かつてのように強がって、瓦礫の中に思索の跡を残して死にゆくのである、などという、はじめに結論ありきのような感覚ではない。言葉どおりのせめぎ合いである。すっかりと肩の荷を降ろすという選択肢も、いまの僕にはとても現実的なものなのだ。これを凡庸というひと言で片付けまいと思っている。いましばらくの時間の猶予を!という気持ちで、今日の観想を閉じる。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃