○自分を客観視できないのが、僕自身の課題なんだろう。
現在の状況に辿りつくまでの、もがき苦しんだここ10年以上の年月の間に、僕が最初に陥ったのは、うつ病だった。いまは、真逆の発想をするようにはなったが、ずっと僕はものごとの結末の最悪の状況を想定して、その状況に陥らないための努力をし、当初考えた最悪の状態よりマシな結果を得て安心するような、馬鹿げた心配症をエネルギーに変換する、絵に描いたような小心者だった。だからこそ、文字どおりの最悪の状況に貶められてからというもの、朝を迎えるのが億劫になるほどの、さて、朝になってみれば、朝食を終えたままテーブルを離れることが出来ず、ただただ、そこに居座り続けること以外何も出来ず、ふと気づくともう昼食という始末。世の中とは完全に切れた精神状態ゆえに、なにものに対しても無関心にならざるを得ない。世界と完璧に切り離された状態とは、まわりに他者が居ようと、そのことにすら無関心で、人に迷惑をかけること、この上ないが、それにしても、自己の裡なる孤独感、孤立感たるや凄まじいとしか表現のしようがない。
さて、次に襲ってきたのが、パニック発作である。マジに死ぬかも知れぬというくらいの、苦しさ。どこでどんなふうに起こるやも知れぬという恐怖感にとりつかれる。とはいえ、恐怖感はあるものの、どこでそれが襲ってきても、それが死に直結するにしても、そうなったときは、道端ででも死んでもやる!という開き直りでどうにか克服した。うつ病は、うつ症状という、ちょっとマシな状態になり、しかしそれでも落ち込むのがどうやら習い性になってしまった。いまだに、開き直りの底には、落ち込みやすい心性が隠れているように思う。お次は過食。ひどいときは、たとえば、街に出ると、ケンタッキーフライドチキンを最低6ピース。途中で気分が悪くなるが、それでもひたすら食す。真向いに天下一品のラーメン屋があるから、すぐに飛び込む。ここのドロリとしたスープはチキンベースだから、どれだけ無駄な鶏を無意味に食い散らしたのか、いま考えるとおそろしくもなる。仕上げは、リプトンという喫茶店で、チョコレートパフェである。リプトンのそれは、どこよりも量的に優れている。チョコレートパフェを含めて、過食する僕の場合は、味なんて二の次三の次である。まずまずの味わいなら、あくまで量的なことに関心が向かう。そもそも太りにくい体質だったけれど、これだけ満腹中枢をぶっ壊すような食べ方をやると、かなり不格好な太り方をしてしまうし、太り方のペースが尋常ではないのである。具体的に書くと、着るものがなくなる。特にパンツのサイズが、たとえばユニクロの最大のものに行き着くまで、それほど時間がかからなかったわけで、まあ、病的であったこと間違いなし、である。
それでも、自分がどれほど醜悪(容姿は当然のことだが、精神が鈍重になっているという意味で)になり下がっているか、ということには、どういうわけか、意識が向かなかったのである。自分の体躯が巨大化していく過程で記録された写真を見てはいるはずだが、そのときどきに、自分は(敢えて告白するが)かなりイケテいると錯誤し続けてきたのである。たとえば、ずっと以前のスラリとしていた(自分ではそう思い込んでいたわけだ)時期の写真すら、いまから見なおすと、病的にしか見えないから不思議だ。機会あって、現在はかなり厳しく身体を鍛えていて、体型はこれまでにないマッチョタイプに属するようになってきたが、これとても後から写真でも見れば、相当に行き過ぎた鍛え方をした、醜い老年男そのものだろう。
そもそも、自分とはいったい何ものなのか?という問いを自分に課してきて長い月日が経つ。が、自分の外見すらその折々で、自己満足的に充足した評価をしていて、後で見返すと背筋に冷たいものが流れ落ちるくらいだから、思想的な実像など、到底掴み得ぬ感性・知性しか僕にはないのかも知れないな、と今さらながら思う始末なのである。
人生の総括と称して、ブログという形式をかりて折々の自分なりの考えを公にしてきたが、何をどのように書いても不全感が伴うのに気づきつつも、絶えまなく書き続けてきたが、こういう姿勢すら、思想のラビリンス(迷宮)の中を無目的に彷徨っていただけなのか、と猛省している今日、この頃なのである。
という観想を書き残しつつ、どこまでももの分かりのよろしくない自分がいることにも気づいているので、たぶん、まだこれからも長きに渡って書き続けるのだろうか、と思う。お付き合いしてくださるみなさんにはまことに申し訳ないのだが、今後とも寛容の精神で読み流してくださるならば、この上なく幸せであります。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
現在の状況に辿りつくまでの、もがき苦しんだここ10年以上の年月の間に、僕が最初に陥ったのは、うつ病だった。いまは、真逆の発想をするようにはなったが、ずっと僕はものごとの結末の最悪の状況を想定して、その状況に陥らないための努力をし、当初考えた最悪の状態よりマシな結果を得て安心するような、馬鹿げた心配症をエネルギーに変換する、絵に描いたような小心者だった。だからこそ、文字どおりの最悪の状況に貶められてからというもの、朝を迎えるのが億劫になるほどの、さて、朝になってみれば、朝食を終えたままテーブルを離れることが出来ず、ただただ、そこに居座り続けること以外何も出来ず、ふと気づくともう昼食という始末。世の中とは完全に切れた精神状態ゆえに、なにものに対しても無関心にならざるを得ない。世界と完璧に切り離された状態とは、まわりに他者が居ようと、そのことにすら無関心で、人に迷惑をかけること、この上ないが、それにしても、自己の裡なる孤独感、孤立感たるや凄まじいとしか表現のしようがない。
さて、次に襲ってきたのが、パニック発作である。マジに死ぬかも知れぬというくらいの、苦しさ。どこでどんなふうに起こるやも知れぬという恐怖感にとりつかれる。とはいえ、恐怖感はあるものの、どこでそれが襲ってきても、それが死に直結するにしても、そうなったときは、道端ででも死んでもやる!という開き直りでどうにか克服した。うつ病は、うつ症状という、ちょっとマシな状態になり、しかしそれでも落ち込むのがどうやら習い性になってしまった。いまだに、開き直りの底には、落ち込みやすい心性が隠れているように思う。お次は過食。ひどいときは、たとえば、街に出ると、ケンタッキーフライドチキンを最低6ピース。途中で気分が悪くなるが、それでもひたすら食す。真向いに天下一品のラーメン屋があるから、すぐに飛び込む。ここのドロリとしたスープはチキンベースだから、どれだけ無駄な鶏を無意味に食い散らしたのか、いま考えるとおそろしくもなる。仕上げは、リプトンという喫茶店で、チョコレートパフェである。リプトンのそれは、どこよりも量的に優れている。チョコレートパフェを含めて、過食する僕の場合は、味なんて二の次三の次である。まずまずの味わいなら、あくまで量的なことに関心が向かう。そもそも太りにくい体質だったけれど、これだけ満腹中枢をぶっ壊すような食べ方をやると、かなり不格好な太り方をしてしまうし、太り方のペースが尋常ではないのである。具体的に書くと、着るものがなくなる。特にパンツのサイズが、たとえばユニクロの最大のものに行き着くまで、それほど時間がかからなかったわけで、まあ、病的であったこと間違いなし、である。
それでも、自分がどれほど醜悪(容姿は当然のことだが、精神が鈍重になっているという意味で)になり下がっているか、ということには、どういうわけか、意識が向かなかったのである。自分の体躯が巨大化していく過程で記録された写真を見てはいるはずだが、そのときどきに、自分は(敢えて告白するが)かなりイケテいると錯誤し続けてきたのである。たとえば、ずっと以前のスラリとしていた(自分ではそう思い込んでいたわけだ)時期の写真すら、いまから見なおすと、病的にしか見えないから不思議だ。機会あって、現在はかなり厳しく身体を鍛えていて、体型はこれまでにないマッチョタイプに属するようになってきたが、これとても後から写真でも見れば、相当に行き過ぎた鍛え方をした、醜い老年男そのものだろう。
そもそも、自分とはいったい何ものなのか?という問いを自分に課してきて長い月日が経つ。が、自分の外見すらその折々で、自己満足的に充足した評価をしていて、後で見返すと背筋に冷たいものが流れ落ちるくらいだから、思想的な実像など、到底掴み得ぬ感性・知性しか僕にはないのかも知れないな、と今さらながら思う始末なのである。
人生の総括と称して、ブログという形式をかりて折々の自分なりの考えを公にしてきたが、何をどのように書いても不全感が伴うのに気づきつつも、絶えまなく書き続けてきたが、こういう姿勢すら、思想のラビリンス(迷宮)の中を無目的に彷徨っていただけなのか、と猛省している今日、この頃なのである。
という観想を書き残しつつ、どこまでももの分かりのよろしくない自分がいることにも気づいているので、たぶん、まだこれからも長きに渡って書き続けるのだろうか、と思う。お付き合いしてくださるみなさんにはまことに申し訳ないのだが、今後とも寛容の精神で読み流してくださるならば、この上なく幸せであります。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃