○メメント・モリ!
いま、ここに存在する自分にとっての、メメント・モリ!(死を想え!)とは、自己の死の時期が迫り来るのをひしひしと感じている、このときに、残り少なき生のありように想いを馳せるということである。一般論にすりかえないために具体的に書きおくと、僕のメメント・モリ!は、人生とは興味深い、という実感を字義どおり体感することと同義語だ。
よく考えてみれば、生のまっさかりのときにこそ、人生が興味深い、という心境に立ち至れば幸福だったものを、僕のその頃は、「いま」が壊れるだろうことを怖れていただけなのである。その壊れの現われは、生活にまつわる現象などではない。それは、常に自己の死がついてまわる終焉の姿だった。唐突なガンの宣告とか、平々凡々たる日常に耐え切れなくて、自死するというイメージと相場が決まっていたのである。
至極当たり前のことだが、いま、目の前にある幸福(幸福であると実感すればするほど)など、必ず遠からず消失する命運を背負っている、という消しがたき悲観主義が、生の真実の一側面だとするなら、かつての僕はこの暗鬱な真理にばかり目が向いていたことになる。ひとりひとりの生活人の繁栄と衰退が目撃できないのが現実であってみれば、たとえば、かつてのメディアの寵児たちの不幸な出来事の報道にはかなり敏感な反応をしてしまう。人間の明滅のあからさまな現れ。正直、ゲンナリするのが常である。彼らの繁栄そのものが幻想であれば、幻想のまま、あるいは、幻想にふさわしい終焉の仕方があるだろうに。僕らとは次元の違うところで生きていたはずの、彼らの末路は、妙に凡庸で、日常生活人のそれに限りなく近いというのは、どうしたものか?
もはや、自分の生の壊れのありようには、年齢的にも、環境的にも自覚的にならざるを得ない。壊れに自覚的になると、かえって、人生のおもしろさに目覚めるという逆説に到達するのは、いかにも皮肉な話だが、実際にそうなんだから致し方なし。日常の中の多少のゴタゴタは、避け切れないにしろ、そんなものは大したものではない。終末という到達点がはっきりと見えるにしたがって、肩の荷がどんどん軽くなって、前進するエネルギーに加速がかかる。生きるとは、なんとも不可思議なものだ、と思う。僕の裡なるメメント・モリ!は、「死を想え!」から「残りの生のありかたに心を砕け!」という文言に変質しているのが身に沁みてわかる。
さあ、だから、ドンと来い!なんであれ。そういう想いで今日を生きている。毎日が、今日そのものだ。この感覚が幸福そのものだ、と言うことは果たして僕の強弁だろうか?そうは思わないのである。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
いま、ここに存在する自分にとっての、メメント・モリ!(死を想え!)とは、自己の死の時期が迫り来るのをひしひしと感じている、このときに、残り少なき生のありように想いを馳せるということである。一般論にすりかえないために具体的に書きおくと、僕のメメント・モリ!は、人生とは興味深い、という実感を字義どおり体感することと同義語だ。
よく考えてみれば、生のまっさかりのときにこそ、人生が興味深い、という心境に立ち至れば幸福だったものを、僕のその頃は、「いま」が壊れるだろうことを怖れていただけなのである。その壊れの現われは、生活にまつわる現象などではない。それは、常に自己の死がついてまわる終焉の姿だった。唐突なガンの宣告とか、平々凡々たる日常に耐え切れなくて、自死するというイメージと相場が決まっていたのである。
至極当たり前のことだが、いま、目の前にある幸福(幸福であると実感すればするほど)など、必ず遠からず消失する命運を背負っている、という消しがたき悲観主義が、生の真実の一側面だとするなら、かつての僕はこの暗鬱な真理にばかり目が向いていたことになる。ひとりひとりの生活人の繁栄と衰退が目撃できないのが現実であってみれば、たとえば、かつてのメディアの寵児たちの不幸な出来事の報道にはかなり敏感な反応をしてしまう。人間の明滅のあからさまな現れ。正直、ゲンナリするのが常である。彼らの繁栄そのものが幻想であれば、幻想のまま、あるいは、幻想にふさわしい終焉の仕方があるだろうに。僕らとは次元の違うところで生きていたはずの、彼らの末路は、妙に凡庸で、日常生活人のそれに限りなく近いというのは、どうしたものか?
もはや、自分の生の壊れのありようには、年齢的にも、環境的にも自覚的にならざるを得ない。壊れに自覚的になると、かえって、人生のおもしろさに目覚めるという逆説に到達するのは、いかにも皮肉な話だが、実際にそうなんだから致し方なし。日常の中の多少のゴタゴタは、避け切れないにしろ、そんなものは大したものではない。終末という到達点がはっきりと見えるにしたがって、肩の荷がどんどん軽くなって、前進するエネルギーに加速がかかる。生きるとは、なんとも不可思議なものだ、と思う。僕の裡なるメメント・モリ!は、「死を想え!」から「残りの生のありかたに心を砕け!」という文言に変質しているのが身に沁みてわかる。
さあ、だから、ドンと来い!なんであれ。そういう想いで今日を生きている。毎日が、今日そのものだ。この感覚が幸福そのものだ、と言うことは果たして僕の強弁だろうか?そうは思わないのである。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃