ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○僕の裡なる「転落」のイメージ

2012-11-08 10:52:38 | 観想
○僕の裡なる「転落」のイメージ

転落にまつわる描写で、決まりきった表現がある。それは、たとえば、「坂道を転げ落ちるごとく」というような、時間的な流れで云うと、かなりな急速度で転落していく、という感じなのだろうか?

しかし、僕の裡なる転落のイメージは、時間の流れとしては悠長とも云える、殆どスローモーションのような動きの中でもがいている、10数年前の僕自身の姿そのものである。

日本最大の宗教法人が支配する学校は、京都にも大学・高校・中学・小学校・幼稚園などを含めると複数校ある。その中の中学と高校を併設しているところに長年勤めていた。身分制度がいまだに生き、僧職という身分でなければ教育の長には絶対になれない。坊主連中が手前勝手につくった寄附行為という、「決まりごと」が明文化されているアホウな職場だ。かつて、一人だけ坊主でもないのに、得度までして校長に成り上がった人がいたが、イジメ抜かれて52歳であっけなく心筋梗塞で他界した。極度のストレスだろう。この人は嫌いだったが、さすがに同情はしている。

クソあほらしい宗教行事に関わる一切の参加拒否(だって、信徒でもないのに、仏さんに手を合わせてうやうやしくお辞儀するんだ。個人的には信教の自由に反する行為だし、なにより生徒を騙していることになる。こう言うと、必ず返ってくる反論がある。お前はそれを承知で教師になったのだろう?って。違う!僕は面接のときに、はっきりと名言したのである。宗教的行事には無宗教ゆえに参加しないと、ね。要するに当時は組合と坊主が仕切る理事会との力関係で、こういうことが言えたのだろう)をやり通しながら、年を追うごとに締めつけが厳しくなった。僕が辞表を提出しなければならなかった表向きの理由は留学業者との金銭的癒着。無論濡れ衣である。その経緯を書けば長くなるので、今日は書かない。要するに組織としては目の上のタンコブだった僕は体よく追い出されたというわけだ。組織的な異端児としては、組合役員たちにとってもウザイ存在だったと思う。いまは知らないが、当時の私学の労組の役員連中の殆どは共産党員。同じ左翼といっても、かつて極左だった僕と共産党員との折り合いがつくはずがない。辞職に追い込まれたとき、彼らも僕の追い落としに手を貸したね。日本共産党そのものに対して、どうこう云うつもりはないけれど、末端の党員の質は悪いね。この人たち、権力に擦り寄るのが実にうまいものね。それに、控えめに言って、堕落した党員も党則違反を犯さない限り党費を支払い続ければ党員のままなんだから。まあ、それも当然か。

さて、転落の、僕の裡なるイメージだ。辞職することが決まってからのお定まりの事務手続き。シラケた雰囲気の中での、ちっぽけな額の退職金と、退職にともなう書類提出や、共済組合脱会等々にまつわる事務方からの長々とした説明。僕が辞めさせられることなど知らないはずがないのに、とってつけたようなご丁寧な言葉の数々。たった数時間の出来事なのに、僕の脳髄の中では、妙に間延びした長ったらしい時間とすり替わっている。誰それがしゃべる言葉も語学用のテープレコーダーのスピードダウンしたような実に間延びした音声にしか感じとれなくなっている。家のローンなど支払えないから、売りに出す。売買契約が成立して、業者との契約書等のやりとりの、なんというクソ長い時間。家族が瓦解していくスピードの速さと、一つ一つの場面のコマ送りのような冗長さの乖離感。転落とは、かくもまったりとした速度で進行していくものなのか、という嘆息。

いまさら何が起こっても大した驚愕もなく、まったりとした時間の流れに身を任せるのだろうが、こういう感情の鈍磨はあまり好ましいとは思わない。腹立たしいこと、哀しいこと、嫌なことは今後も数々この身に降りかかってくるのはよく分かってはいるが、萎えていく気分、感性そのものが鈍磨していくことにはどこまでも抗ってやろうとは思う。つまらないことを書いたが、今日の観想として遺しておこうと思う。

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長野安晃