○取り替え可能。これが人生だ。だからこそ・・・
人は他者からの正当な評価を求めて止まない。また、それなしに如何なるポジティブな内的動機が立ち現れるはずもない。自分という一個の人間が、帰属する組織に対して果たし得る役割。それを果たし得た後に味わう充足感。何らかの原因で、他者との関わりを自ら放棄しない限り、人は他者の集合体としての組織に対する帰属意識( a sense of belonging)に忠実であることを歓びとするものだ。そうでなければ、組織のための自己犠牲的な如何なる行為も、そもそも起こり得ないだろう。
しかし、人の心の中に帰属意識が内在しているとしても、僕たちが深く認識しておくべきことがある。それは、人は組織に忠実な余りに、時として内心の声を否定してしまうこともある、ということだ。如何に正当で、意義ある場合でも。
なぜ、こういうことが起こるのだろうか?人が、たとえば良心という内心の声に反して、人間としてなすべからざる行為すら組織的利益のために行うのはなぜなのか?明瞭な犯罪行為でなくても、この種の反社会的行為が特定組織の利益のために、しばしば正当化されるのはなぜなのか?金とそれにまつわる権力ゆえか?無論、表層的にはそうだろう。僕には、しばしばこの種の誤謬を犯してしまうことの内的な問題について書く意味はあるだろう、と思えるのである。
個人的な怨蹉は別にして、人が意図的な組織犯罪に走るのは、帰属している組織にとって、自分という存在がなくてはならぬという、深い想い入れ、もしくは自己存在の絶対性があたかも当然のごとくに在ると錯誤するゆえだろう。人はここを揺さぶられると明らかな弱体を晒すハメになる。自己が取り替え不能である、という認識は、確かに不確かな己れの、この世界における存在に理由を与える重要なファクターではある。しかし、この次元でなされる自己犠牲的な行為は、たとえ犯罪的でもなく、むしろ善性に基づいた行為であっても、それ自体に当人が感じているほどの価値はそもそもない。厳しいのかも知れないが、これは、自己正当化の変質した姿に過ぎない、と僕は思うのである。この種の自己の絶対化がもたらす不幸は、自分が関わった某かの渦中にいる間はよいにしても、渦中を通り過ぎたときの他者からの評価が良くても悪くても、人は何かを取り遺したような不全感を抱く。もしも、最悪の場合、挫折の中でもがくことにでもなったら、自己への絶対的存在理由など脆くも瓦解するのがオチである。幻像としての自己絶対化が招く不幸とは、惨めな己れの末路でしかない。
さて、僕たちがしたたかにこの世界に居座ることの出来る唯一の気づきとは、言葉の定義づけとは裏腹に、自分の存在が常に取り替え可能なそれだ、と識ることである。そうであれば、不必要に自分の力量を肥大化させる装いもなければ、はたまた過小評価の苦痛の中で苦悩することもない。自分一個の存在など、ふと今日、明日に消失したところで世界はそこに在り続けるのである。このリアリティを過酷だと受け止めるか、これこそが人間のリアルな姿だと認識し、取り替え可能性から、自ら構築し得たものを次代へ有意義に受け渡すことが出来るとしたら、僕たちの未来はかなり明るい、と思う。
己れの矮小な構築物(権力や金や名声等々)にしがみつくことなかれ!独占・独善こそが、人間の可能性を自ら奪う元凶なのだから。そんなことを想って、今日の観想を閉じる。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人は他者からの正当な評価を求めて止まない。また、それなしに如何なるポジティブな内的動機が立ち現れるはずもない。自分という一個の人間が、帰属する組織に対して果たし得る役割。それを果たし得た後に味わう充足感。何らかの原因で、他者との関わりを自ら放棄しない限り、人は他者の集合体としての組織に対する帰属意識( a sense of belonging)に忠実であることを歓びとするものだ。そうでなければ、組織のための自己犠牲的な如何なる行為も、そもそも起こり得ないだろう。
しかし、人の心の中に帰属意識が内在しているとしても、僕たちが深く認識しておくべきことがある。それは、人は組織に忠実な余りに、時として内心の声を否定してしまうこともある、ということだ。如何に正当で、意義ある場合でも。
なぜ、こういうことが起こるのだろうか?人が、たとえば良心という内心の声に反して、人間としてなすべからざる行為すら組織的利益のために行うのはなぜなのか?明瞭な犯罪行為でなくても、この種の反社会的行為が特定組織の利益のために、しばしば正当化されるのはなぜなのか?金とそれにまつわる権力ゆえか?無論、表層的にはそうだろう。僕には、しばしばこの種の誤謬を犯してしまうことの内的な問題について書く意味はあるだろう、と思えるのである。
個人的な怨蹉は別にして、人が意図的な組織犯罪に走るのは、帰属している組織にとって、自分という存在がなくてはならぬという、深い想い入れ、もしくは自己存在の絶対性があたかも当然のごとくに在ると錯誤するゆえだろう。人はここを揺さぶられると明らかな弱体を晒すハメになる。自己が取り替え不能である、という認識は、確かに不確かな己れの、この世界における存在に理由を与える重要なファクターではある。しかし、この次元でなされる自己犠牲的な行為は、たとえ犯罪的でもなく、むしろ善性に基づいた行為であっても、それ自体に当人が感じているほどの価値はそもそもない。厳しいのかも知れないが、これは、自己正当化の変質した姿に過ぎない、と僕は思うのである。この種の自己の絶対化がもたらす不幸は、自分が関わった某かの渦中にいる間はよいにしても、渦中を通り過ぎたときの他者からの評価が良くても悪くても、人は何かを取り遺したような不全感を抱く。もしも、最悪の場合、挫折の中でもがくことにでもなったら、自己への絶対的存在理由など脆くも瓦解するのがオチである。幻像としての自己絶対化が招く不幸とは、惨めな己れの末路でしかない。
さて、僕たちがしたたかにこの世界に居座ることの出来る唯一の気づきとは、言葉の定義づけとは裏腹に、自分の存在が常に取り替え可能なそれだ、と識ることである。そうであれば、不必要に自分の力量を肥大化させる装いもなければ、はたまた過小評価の苦痛の中で苦悩することもない。自分一個の存在など、ふと今日、明日に消失したところで世界はそこに在り続けるのである。このリアリティを過酷だと受け止めるか、これこそが人間のリアルな姿だと認識し、取り替え可能性から、自ら構築し得たものを次代へ有意義に受け渡すことが出来るとしたら、僕たちの未来はかなり明るい、と思う。
己れの矮小な構築物(権力や金や名声等々)にしがみつくことなかれ!独占・独善こそが、人間の可能性を自ら奪う元凶なのだから。そんなことを想って、今日の観想を閉じる。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃