ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○無政府主義者として生き抜こうと想うのである。

2012-11-11 14:57:05 | 観想
○無政府主義者として生き抜こうと想うのである。


伝統を重んじる保守主義などは、クソか!と思うほどに嫌悪していたけれど、最近、少々考えが変わってきたように思う。しかし、こう書いたからと云って、僕自身の思想の型が保守化しつつある証左なのか、と云えば、まったくそうではない。敢えて云えば、自己の思想を見え見えのかたちで先鋭化させるという、ある種の強がりなど無意味であると悟ったということか。それに何よりある思想を鋭敏に研ぎ澄まることなど、大した意味を持たないということにも思い至った。研ぎ澄まされた左翼主義というのは、大抵、極端に思想そのものが先細りしてしまう。かつての僕は、尖った左翼的思考のラビリンスの中でもがき苦しんでいたのである。このような苦悩の中で、変質した内的変化が生じるのは当然のことだろう。とは云え、再度言うが、決して僕自身が保守化したのではない。むしろ思考のカタチは、保守主義とは真逆、極北の時点にまで到達したか、とつくづくと感じ入るのである。僕の思想的な立ち位置としては、最も近い規定語を使えば、徹底した無政府主義者ということになる。非現実的だというそしりは敢えて受けるが、僕は歴史上の無政府主義者が陥ってきたような、自分の考えと相反する思想を排斥するような狭量な人間ではない。思想の排斥という現象は、むしろ、現代においては、昨今の政治的・経済的次元の出来事の方にこそ、よほど明瞭な誤謬として散見出来るのではないか、と僕は思う。その意味で、僕はこれまでの人生の中で、最も柔軟で許容力あるアナキストになり得たと思っているのである。

さて、ここで僕が直面すべき問題は、無政府主義とは、煎じ詰めれば非現実な理想論でしかない、という批判である。

しかし、果たしてそうか?アナキズムは非現実なのか?アナキズムを個々バラバラの人間が、自分勝手に生きることだけを考えているなどと云う、あまりにもマンガ的な断罪を下して是とするような人が結構いるのではなかろうか?アナキストも社会という人間集団の中で生きている。人間が集団化すれば、決まりごとが必要になる。当然のことだが、それには従う。無政府主義者を故意に幼稚で、身勝手な人間だと悪評価しさえしなければ、無政府主義者とはいたってまっとうな日常生活者だと云うことが分かる。

現実の政治・経済的状況をどう見るか?ということだが、どのような言葉巧みな政治的・経済的言動にも、ごく一部の人々の権益を保守しようとする力学が働いていることを忘れないこと。そして、どのような種類の政治的熱狂にも常に覚醒して対峙すること。敷衍すれば、組織というものを徹底的に信用しない。その考えの上に立って、組織とは付き合っていく。拒絶することはない。

自分が置かれている社会というものを冷静に見渡して、我が身が、組織や現体制にがんじがらめに縛られていることに自覚的であること。このような社会に生きているアナキストの態度は、目の前にある社会的・政治的・経済的機構を動かし難き存在であるなどとは決して思わない。領土問題が差し迫った政治課題になるような時代の只中で、国境、国籍、民族などが原因になって生起するあらゆる政治的・経済的軋轢を、原始時代の名残りであるという認識を持つこと。また、どのような堅牢な機構といえど、それ自体が独立して眼前にそびえているのではない。アナキストは、闘うべき対象とは、堅牢に見せている人間存在であることに気づいているのである。アナキストが理想とし、実践して創造すべき人間的な集団は、共同体である。尽きることなき議論、討論の中で、新たな価値を見出そうとする永遠の営みに最大の評価を与える意識を持つ人間集団とその思想的到達点は、モーリス・ブランショの「明かし得ぬ共同体」(ちくま学芸文庫)の理念と通底している。と、まあ、これが僕の本日の観想になる。書き遺す。

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長野安晃