○「24」考
遅ればせながらの「24」への開眼で、DVDのコンパクトディスク版をずっと見続けて、あと2シーズンでこのドラマを見終わる。最初はサスペンスで気を紛らわしたくて観始めた。主人公ジャック・バウワーの、連邦捜査官としての凄腕に単純に感動し、アメリカ政府機関内に暗躍するスパイの存在で、物語のドンデン返しの連続にハラハラしているだけの感情に翻弄され続けていたのである。ただ、このあたりで、僕なりの少々の観想を書き留めておくのも一興かと思う。
このドラマはよく出来ていて、9・11以降の単なるプロパガンダ映画ではないことが観ているうちに分かってくる。「24」の根底に在るのは、アメリカ政府が飽くことなき、利権がらみの他国への侵略を繰りかえしてきたシッペ返しが、テロリズムという報復の修羅場を産み出し続ける、という筋立てだ。物語の中で繰り広げられる、ジャック・バウワーに降りかかる過酷な出来事は、彼が政府組織という命令系統に単に従順な捜査官ならば、当の昔にあの世行きになることばかりだ。しかし、ジャック・バウワーはしぶとく生き残る。何故か?彼の裡なる大義名分は、当然国家利益とそれに基づいたアメリカ国民の利益を守ることだ。が、ジャック・バウワーの本質を支配しているのは、彼自身にも抗いようのない組織からの逸脱への渇望である。彼の命を生きながらえさせているのは、彼が単に凄腕だという理由ではない。それは、彼の逸脱への志向が、時として絶対的な命令系統から簡単にすり抜けさせることが本質的な要因だ。これがドラマでなければ、彼はテロリストに殺されるよりも高い確率で、アメリカ政府に葬られている。その意味でジャックは紛う事なき組織からの逸脱者であり、どこまでも孤独な存在なのである。
と、思いながらシリーズ6までたどり着くと、ジャックの父親が、金と権力のために、アメリカ政府の転覆を陰で操るグロテスクな老人で、父親の走狗となり、黒々とした欲動に突き動かされている人間たちを動かすのが、ジャックの弟となれば、ジャックが政府に忠誠を尽くすことを生きる大義名分にしてきたことにも頷ける。ジャックが父親を避けるように軍隊に入ったのは、父親の深く、黒々とした内面を見抜いていたからだろう。寄る辺なき人間が強固な愛国心に依拠したくなるのは、ジャック・バウワーという個性にとって必然的帰結だったと思われる。しかし、皮肉なことに、ジャックを実質的な国家の救済者ならしめているのは、現れが父親とは対極のそれとは云え、逸脱する心性そのものだ、ということである。
たぶん、<組織と人間>という課題にとって、不可欠なファクターとは、組織から常に逸脱していく心性と、組織そのものが、逸脱の意味をどれだけ許容出来るかどうか、ということにかかっているのではないか、と僕は思う。「24」というどんでん返しの連続の中から学んだのは、こういうことだ。日常性からの意義ある僕自身の逸脱だった、と思う。さて、残りの二つのシリーズを観ることにする。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
遅ればせながらの「24」への開眼で、DVDのコンパクトディスク版をずっと見続けて、あと2シーズンでこのドラマを見終わる。最初はサスペンスで気を紛らわしたくて観始めた。主人公ジャック・バウワーの、連邦捜査官としての凄腕に単純に感動し、アメリカ政府機関内に暗躍するスパイの存在で、物語のドンデン返しの連続にハラハラしているだけの感情に翻弄され続けていたのである。ただ、このあたりで、僕なりの少々の観想を書き留めておくのも一興かと思う。
このドラマはよく出来ていて、9・11以降の単なるプロパガンダ映画ではないことが観ているうちに分かってくる。「24」の根底に在るのは、アメリカ政府が飽くことなき、利権がらみの他国への侵略を繰りかえしてきたシッペ返しが、テロリズムという報復の修羅場を産み出し続ける、という筋立てだ。物語の中で繰り広げられる、ジャック・バウワーに降りかかる過酷な出来事は、彼が政府組織という命令系統に単に従順な捜査官ならば、当の昔にあの世行きになることばかりだ。しかし、ジャック・バウワーはしぶとく生き残る。何故か?彼の裡なる大義名分は、当然国家利益とそれに基づいたアメリカ国民の利益を守ることだ。が、ジャック・バウワーの本質を支配しているのは、彼自身にも抗いようのない組織からの逸脱への渇望である。彼の命を生きながらえさせているのは、彼が単に凄腕だという理由ではない。それは、彼の逸脱への志向が、時として絶対的な命令系統から簡単にすり抜けさせることが本質的な要因だ。これがドラマでなければ、彼はテロリストに殺されるよりも高い確率で、アメリカ政府に葬られている。その意味でジャックは紛う事なき組織からの逸脱者であり、どこまでも孤独な存在なのである。
と、思いながらシリーズ6までたどり着くと、ジャックの父親が、金と権力のために、アメリカ政府の転覆を陰で操るグロテスクな老人で、父親の走狗となり、黒々とした欲動に突き動かされている人間たちを動かすのが、ジャックの弟となれば、ジャックが政府に忠誠を尽くすことを生きる大義名分にしてきたことにも頷ける。ジャックが父親を避けるように軍隊に入ったのは、父親の深く、黒々とした内面を見抜いていたからだろう。寄る辺なき人間が強固な愛国心に依拠したくなるのは、ジャック・バウワーという個性にとって必然的帰結だったと思われる。しかし、皮肉なことに、ジャックを実質的な国家の救済者ならしめているのは、現れが父親とは対極のそれとは云え、逸脱する心性そのものだ、ということである。
たぶん、<組織と人間>という課題にとって、不可欠なファクターとは、組織から常に逸脱していく心性と、組織そのものが、逸脱の意味をどれだけ許容出来るかどうか、ということにかかっているのではないか、と僕は思う。「24」というどんでん返しの連続の中から学んだのは、こういうことだ。日常性からの意義ある僕自身の逸脱だった、と思う。さて、残りの二つのシリーズを観ることにする。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃