○省察(1)
意味あって、過去を捨て去ろうという想うのはよくあることです。想えば、唾棄したくなるような出来事というのは、生きている限りいくらも襲い来るものだからです。どうしようもなく耐えられないものに押し潰されそうになると、人は生理的に、そう生理的に、なのであって、いろんな理窟をつけて思想的あるいは論理的に過去の出来事を唾棄するのではないのです。
角度を換えて言いましょう。人が過去をかなぐり捨てたいと思い、実際にそのように行動するのは、生存本能がそうさせているからです。自分の過去がどうにもこうにも耐え難きものだ、ということに立ち至ったとき、とるべき路は二つしかありません。生存本能が勝っていれば、思い切りよく過去を唾棄します。無論そういう生き方を選びとるのであって、実際には過去は消しようもなく体内に残存し続けます。それでも、この種の路を選んだ人にとっては、過去が蘇って来るのは人が風邪を引くくらいの頻度でしかないでしょう。もう一つは、耐え難き過去と伴に生き抜こうとすることです。これはかなり辛い選択です。生理的現象を超越して、自分の概念と命懸けで向き合うことだからです。これを観念的という批判で笑い飛ばすような人も、耐え難きことに遭遇し、それでも自死しないとするならば、いずれは前記した、どちらかの選択を強いられるときがやって来ます。そういうものです。人が生きることにまつわる回避不能の問題だからです。
どれほど自分の過去が輝かしいものであれ、過ぎ去り、いまが過去の栄光(というものがもしあったとして)とは無縁の生であったとしても、過去を慰撫するように生きるなんて、虚しいことだと僕は思います。勇気を持って自身の過去と向き合う覚悟。少しくらい女々しい(これは女性を蔑視する意味ではありません。語法上の語彙の選択なので誤解なく)生き方でもいいと思いますけれど、生き抜くことそれ自体が、無名のままこの世界から退場せざるを得ない大多数の人間には意味あることのような気がするのです。日常生活は退屈であるにしても、その中に、平凡な生の只中に、自分と他者との関わりの中に、結果的にはあぶくのように消え果てるにせよ、生にまるわるありとあらゆる経験とその蓄積、プラスマイナスゼロよりは、少しはこの世界に生の痕跡を遺せる可能性があるように感じます。
自死することを否定しません。しかし、自死はどのような観点から考えても、卑近な言い方ですが、もったいない、といまの僕には思えるのです。素直にそう思います。かつて自死を試み、(それも何度となく)生き遺ってしまった人間として、声を大にして言いたいのです。生きましょう!ブザマでもいいです。生きる価値あるやなしや、などとは僕はもう言わないことにします。これから先、どのような不幸、あるいは不幸の種が降りかかっても、生き遺れる限り生き抜こうと思います。医療費を無駄遣いしない範囲で。今日の省察です。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
意味あって、過去を捨て去ろうという想うのはよくあることです。想えば、唾棄したくなるような出来事というのは、生きている限りいくらも襲い来るものだからです。どうしようもなく耐えられないものに押し潰されそうになると、人は生理的に、そう生理的に、なのであって、いろんな理窟をつけて思想的あるいは論理的に過去の出来事を唾棄するのではないのです。
角度を換えて言いましょう。人が過去をかなぐり捨てたいと思い、実際にそのように行動するのは、生存本能がそうさせているからです。自分の過去がどうにもこうにも耐え難きものだ、ということに立ち至ったとき、とるべき路は二つしかありません。生存本能が勝っていれば、思い切りよく過去を唾棄します。無論そういう生き方を選びとるのであって、実際には過去は消しようもなく体内に残存し続けます。それでも、この種の路を選んだ人にとっては、過去が蘇って来るのは人が風邪を引くくらいの頻度でしかないでしょう。もう一つは、耐え難き過去と伴に生き抜こうとすることです。これはかなり辛い選択です。生理的現象を超越して、自分の概念と命懸けで向き合うことだからです。これを観念的という批判で笑い飛ばすような人も、耐え難きことに遭遇し、それでも自死しないとするならば、いずれは前記した、どちらかの選択を強いられるときがやって来ます。そういうものです。人が生きることにまつわる回避不能の問題だからです。
どれほど自分の過去が輝かしいものであれ、過ぎ去り、いまが過去の栄光(というものがもしあったとして)とは無縁の生であったとしても、過去を慰撫するように生きるなんて、虚しいことだと僕は思います。勇気を持って自身の過去と向き合う覚悟。少しくらい女々しい(これは女性を蔑視する意味ではありません。語法上の語彙の選択なので誤解なく)生き方でもいいと思いますけれど、生き抜くことそれ自体が、無名のままこの世界から退場せざるを得ない大多数の人間には意味あることのような気がするのです。日常生活は退屈であるにしても、その中に、平凡な生の只中に、自分と他者との関わりの中に、結果的にはあぶくのように消え果てるにせよ、生にまるわるありとあらゆる経験とその蓄積、プラスマイナスゼロよりは、少しはこの世界に生の痕跡を遺せる可能性があるように感じます。
自死することを否定しません。しかし、自死はどのような観点から考えても、卑近な言い方ですが、もったいない、といまの僕には思えるのです。素直にそう思います。かつて自死を試み、(それも何度となく)生き遺ってしまった人間として、声を大にして言いたいのです。生きましょう!ブザマでもいいです。生きる価値あるやなしや、などとは僕はもう言わないことにします。これから先、どのような不幸、あるいは不幸の種が降りかかっても、生き遺れる限り生き抜こうと思います。医療費を無駄遣いしない範囲で。今日の省察です。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃