ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○省察(5)

2013-04-27 13:08:01 | 省察
○省察(5)

人はあまりに耐え難き事象が身に降りかかったとき、しばしばリアルな視点を見失う。いや、もっと正確に言うと、過酷なリアリティを虚構に仕立て上げて自分をごまかすのである。

かなりなリアリストであるはずだ、と自分に言い聞かせてきたし、この場に書き続けてきたことの殆どはそのような視点で貫かれていると思うが、実像からは程遠い虚構を書き綴ってきたことがある。今日、それを書くことにした。

それは何度となく自分の父親のことを書き綴ってきたことである。この場に書き現した父親像とは、社会人としてはハミ出し者だが、豪胆にして、時として女性的とも云えるやさしさを持ち合わせた男として、僕の幼き頃からオトナの世界を見せてくれた粋な父親として登場する。

無論、上記のような要素が現実にあったにせよ、それらを、いや、それらだけを強調することで、僕は幼い頃のつらさを耐えてきたのである。この歳にしてなにを今さらと思わぬでもないが、この歳にしていまだ父親の悪しき影響の痕跡を自分の中に見出し、背筋が凍る想いを断ち切りたくなったのである。

少年時代、青年時代の父は、淡路島というかつての辺境の地から対岸の明石やその向こうにある神戸という、彼にとっては憧れの都会に出ていくことを夢想していただけの、そして親の資産を食い尽くすだけの、見栄っ張りで、ダラしない男だった、と思う。当時の若者の社交の場はダンスホールだ。淡路島といえど、ダンスホールまがいの、青年たちの性のはきだめのような場が存在していたらしい。父親の仕事の手伝いで神戸から彼の地に来ていた母親(軽い女だったと思う)をダンスホールで引っかけて(そう、まさにひっかけて、だ!)モノにした後の産物が、この僕というわけだ。父にしてみれば、都会の女を落としたという満足感だけがあったと思う。20歳の男女の情欲に愛もへったくれもない。少なくとも僕の両親はそうだ。二人で出した結論は僕を抹殺すること。しかし、祖父の気まぐれで僕はつまらない人生を送るハメになったというわけだ。

祖父は、政治家を巻き込んだ、かなり大掛かりな贈収賄事件に巻き込まれた(いや、首謀者の一人だな、あれは)。当事淡路町役場の収入役だったからうってつけの役どころというわけだ。田舎の狭隘な世界で、居座ることなど出来ず、没落一家は神戸(父にとってはなんという皮肉な結末だったろうか!)に夜逃げ。僕が三歳の頃だ。当時の淡路島の記憶など一切ない。が、後年、一族の誰それが、事実を歪曲して昔を懐かしがる話を紡ぎ合わせると、前記したことが実態だったという結論が自ずと出る。

旧制中学を中退して、中途半端な家業の手伝いをしていた男が、突然神戸という街に放り出されたのである。出来ることは限られている。意にそぐわぬ仕事の断続と享楽的な遊び。僕は彼の気まぐれで、新開地という当時の繁華街へ連れ出されたわけだ。現実から逃げるために映画館をハシゴしていた父親に連れ回された経験を、僕の教養のはじまりは映像からだった、と書くしかなかったのである。

お山の大将だった男に長く続く仕事などない。父は、その鬱憤を僕に向けた。たぶん、自分から自由を奪ったのは、子どもの存在だと思っていたのだろう。ある時はペットのように連れ回し、別の瞬間には、ひどく殴られる。虐待という概念がなかった時代だ。それにしても、父に肩まで持ち上げられて、畳の上に放り出されたときの、グチャというなんともイヤな衝撃音からいまだに解放されず、耳に残って離れてはくれない。機嫌が悪いと、ボコボコにされる。そういうとき、母は救ってはくれなかったわけで、いまどきの虐待で両親に殺される子どもの、僕はハシリなのである。たまたまだ、死ななかったのは。

僕は自分の存在を認めるために、父を虚像化した。時折見せる小粋な言動をずいぶんと誇張して書きとめた。母は何度も妊娠し、その度に流産した。それでよかった、と思う。僕のような生き方を生まれ得なかった弟か妹たちにさせたくはなかったから。父親のこと、母親のことをずっと書き綴ってきて、やっとたどり着いた感がある。今日の省察とする。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


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