ひどく疲れた日々だった。ほぼひと月。別の側面から言うと、このひと月で、やっと自分の実年齢に意識が追いついたのかも知れない。
ずっと何かにとりつかれたような日々を過ごしてきた。人生のどこから始まったのか?といえば、たぶん、もの心ついたころから、だ。ずっと焦り続けてきた日々の正体が、人生の終焉に近づいたいまになって初めて理解出来た気がするこの頃だ。
これまでずっと自分に関わることをこの場に書き綴ってきたけれど、そして、それらを自己の人生の総括なんていう都合のよい言葉で定義してきたけれど、それはたぶん、大いなる誤謬だ。
この場に書き綴ってきたことの殆どは、自分の馬鹿げた自己中心的な、生きた軌跡の言い訳である。自虐的に言っているのではなく、これは非常にリアルな感覚なのである。
僕の人生のコアーは、一言で表現することが出来る。それは怖れだ。あるいは焦燥感か?前向きなモチベーションなどとはまるで無関係な感覚と言っても過言ではないだろう。
脅迫観念に取りつかれたように本を買う。ジャンルは問わず、興味だけに惹かれて買った本は自分の読書出来るペースをはるかに超えた分量である。だから本はどんどんたまるが、そこから学んだことは非常に微細なものだ。本の分量に自分の吸収力が追い付かないので、焦燥感はかえってつのる。かといって、自分のルーティーンを変えることなど出来るわけがないのである。焦燥感を克服しようとして、焦燥感がよりつのるというわけである。もちろん、その根源に在る生に対する怖れがさらに深くなる。アホウな悪循環だ。
想いが高じて、京都の、あるビジネススクールに入学した。そしてたった3カ月で退学した。先日のことだ。理由はいろいろあるが、根っこは実に単純だ。僕は教育など信用していないのだ。自分が長年教師という立場で教育現場に居て、確信を得たことは実に皮相的なことだが、人は教育行為と云われるものから学び、感得することなど本来ない、ということだ。だから、たぶん、ビジネススクールというところに籍をいっときでもムダ金を使って置いたのは、無駄な本を無目的に多量に買うようなものだ。続くはずがないし、そもそも教室に座っていることに耐えられなかったからである。
さて、萎え切った体力・気力ともに徐々にもどってきたわけだし、無駄なインプットにも厭き厭きしてきた。そろそろアウトプットの時期かも。出来得る限りの方法でやってみようか、と想う昨今だ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃