ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○省察(6)

2013-05-04 19:32:40 | 省察
○省察(6)

23年間の教師生活に関わる観想をあらゆる角度から総括してきましたが、なぜかずっと不全感があり、そのことに苛まれていました。が、今日、理由が分かりました。「遠い空の向こうに」(October Sky)という映画を観たことで、僕の心の奥底にうもれていた感覚が呼び覚まさられたのです。

この映画は、人間として生まれてきたことの意味、人には可能性が誰にもある、と思わせるだけの説得力を持っています。背景は、1957年のソビエトのスプートニク打ち上げの、ちょうどその時代の実話にもとづいた物語。斜陽し、閉山に追い込まれつつあるバージニア州の炭鉱町で、炭鉱夫になることを運命づけられた少年たちが、スプートニクに触発されて自らロケットを制作し、試行錯誤を繰り返した後に打ち上げに成功し、その結果、4人の少年たちは大学進学への奨学金を得て閉塞的な町からまるでロケットのように飛翔していくというプロットです。

閉塞感が生み出す差別感が支配的な田舎町。優れた才能を持ちながらも、炭鉱夫のボスとして、炭鉱を仕切り、優れた指導者でありながら、古びた頑迷さを分ち持った主人公の父親。彼は、息子の将来を自分の後継者としか見れない狭隘な価値観から抜け出せないでいます。しかし、偏狭でありながらも父親として少年を愛してはいる。長年の労苦で、無感動になりつつあった母親が、この少年を自分の手のヒラから、この町から飛び出させようとする強固な意思によって、そんな父親の気持ちを変化させていきます。少年に対する愛の姿を解放させていく過程で、父と子の、そして、家族の絆が再生されるという大筋のプロットの流れは感動的で、涙なしには観れません。

しかし、この映画の中で、僕の裡のわだかまりの澱の中から救い出してくれたのは、一人の女教諭の存在です。主人公の少年に対して、「人の言うことばかり聞く必要はない。大事なのは、自分の心の声なんだから」と言ってのけた若きミス・ライリーという女性。彼女は、決して無条件に少年たちの夢想を擁護するような個性ではないのです。また、何かを悟って超然とした人間でもない。自分がホジキン病だと告知された日の動揺の仕方は、誰の声も耳には入らない。その意味ではごく普通の感性の持ち主です。無論、主人公に語ったような言葉に裏打ちされているような言動は、教師としての資質として、群を抜いています。僕を揺さぶったのは、具体的なセリフとして、彼女の口から出た言葉ではありません。それは、僕なりの解釈をすれば、彼女の教師としての覚悟と云えばよいものです。もっと突っ込んで云うなら、それは、この少年が自分を遥かに超えていく存在であることを、心の深きところで諒解した上で、主人公を飛翔させようとする強い意思です。教師は、常に自分を乗り越えていく存在を育てることを歓びに出来る人間である、と彼女は認識しているのです。おこがましいことですが、僕も同じ考えの持ち主だったと思っています。しかし、彼女と僕との大いなる違いは、自分を乗り越えていく後継者たちの存在を生きる糧に出来るかどうか、という一点です。僕が教師として、人間としてダメだったのは、飛翔していく多くの個性たちの存在を歓びとしながら、その一方で、自分はこのままこの場に止どまり続けていなければならないのか?という焦りに苛まれていたのです。根っこには若き才能に対するジェラシーがあったのだろうと思います。彼女と同種の言葉を吐き続けたと思いますが、僕は年を経るに従って、自分を卑下していったのです。これでは、教師失格です。僕が教育とは別の次元で雇用者たちと争ったのは、教師としての立ち位置を見失ったためです。いくら屁理屈をつけても、本質を飛ばした内実は言い訳でしかありません。

ミス・ライリーは31歳の若さでこの世を去ります。人間として、若くして逝くことに対する無念の情は有り余るほどにあったでしょう。けれど、彼女は僕が47歳にして、教師という仕事を辞め、その後も長年心の奥底でくすぶり続け、その内実が明かされないまま生きてきたことを、理解し、実践してこの世界から去っていったのです。僕の完敗です。しかし、今日を限りに、無名のままでいることに屁理屈をつけてきた自分からは卒業です。そのことを歓びとしたい、と思います。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


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