パラパラと雨が降る中、傘を差して散歩をする日々がやってきました。
このところ、この愛知県東部では水が少なくて、このままいくと19日にも5%の節水に入る、という状態です。
梅雨になってもザアザア降りということはあまりなく、節水となれば農業用水にも影響が出るわけで、もう少し恵みの雨を下さいと願っています。
そんな中、梅雨の主役のアジサイだけは方々に咲いています。
写真はほとんど撮ってなくて単に歩き見ているだけなんですが、青に白に紫、赤っぽいのも束になって咲いています。
世界が風雲急を告げることになっても、花々は「こうして自分に自信を持って咲いてればいいんだよ」って言っているようで、なんだか勇気付けられます。
ところで、昨年から継続的に図書館に通って、興味のある本を借りてくる、ということを続けています。
買うのではなくて借りてくるのは、そうすることで棚に放り込んでしまうのではなく、ちゃんと期限までに読み切る、ということをするためです。買って安心してしまうと、それから手にとって読み始めるまでに年月を要することもあるので^^;
で、半年から数ヶ月前くらいまでは、主に科学系――天文学、宇宙論、数学、遺伝学、統計学、英語辺りの本を読んでいたんですが(僕は大学は中退しちゃったんですが、高校は理系だったもので科学の本は好きなのです)、この頃は、自然環境保護とか動物との関わり方、生物学のような本を読むことが多くなっています。
今、借りている本です。↓
絶滅危惧種の数の多いこと、そして実際に絶滅していっている生き物の多いこと。
これらを必然の流れと片付けるのは人間のおごりだと、多くの著者らが指摘しており、僕自身もそう思います。
人間が共生を選ばず彼らの領分を侵略してきたことで、悲しくも滅びていった種がたくさんある。
また、意識的に傷つけてはいなくても、例えば、大量のゴミや廃棄物、汚染水の問題のように、ほとんどの人が気がつかないうちに間接的に悪影響を与え続けています。
こういう面を考えると、権力者や富を独占する者たちだけを悪の枢軸みたいに言うのは正しくなく、実際には、僕らのほぼ全員が、地球を汚し、自然を蹂躙し、環境を破壊してきた加害者――つまりは悪だと言っても言い過ぎではないでしょう。
人間って、善人ぶって偉そうなことを言いながら、他人の畑や田んぼにゴミを投げ捨てたり(その田畑で作られた作物を食べてるんだよ!)、平気な顔して産業廃棄物を山や川沿いに埋め立てたりしてる。そこから漏れ出た汚染された水や土や異臭に苦しむ人々や動物たち、そして生態系を壊すことなど考えもせずに。
僕は自分自身を、とてつもない悪だと思う時もあるし、それなりに善だと思う時もあって、矛盾した存在です。
でも、たぶん、悪とか罪悪感を感じているということは、まだ救いがあるのかもしれない、とも思っています。
色々と許せない自分もいるし・・・・・・そんなだからこそ、どうしてこういう人を愛し、許せるのか、と思う人達もいます。
6割くらいは愛し、許してる。でも、残りの4割くらいは、まだそうじゃない気がする。口ではなんとでも言える。でも、ハートではどうだろう。特に、自然環境や動物に関する本なんかを読んでいると、そう思えてしまいます。
人間のエゴによって搾取し続けられるエネルギー資源、ろくに分別もされずに24時間ノンストップで野焼きにされるゴミの山、廃棄された鉄くずの上を歩いて巣に戻るペンギン、都市開発のために森を寸断されて生き場を失っている動物たち、現金収入を得るために現地の幼い子供を駆り立ててまで昆虫採集させてしまう日本社会、流出した油にまみれる魚達、不気味なソナー(水中探査用の超音波)に狂わされて大量死する野生のイルカやクジラ、投網に引っかかって溺死するオットセイ・・・
人間の悪事など数え上げればキリがなく、こういうことに目を瞑りながら「快適な」生活を送っている。
何が人類の発展なんだろう? 何かの犠牲の上に成り立つ快適さや発展なんてものに価値があるわけがない。
僕は、自分の不甲斐なさを感じつつ、悔しさで胸が一杯になってしまいます。
それと、動物とのコミュニケーションの本を読んでいると、喜びと恐怖(あるいは善と悪)というのは、一つのエネルギーであるというのがよく分かります。僕らは、その二つを別物として考えがちですが、元は統合された一つのものであり、それが個々の心の状態によって選り分けられているだけ。それに加えて人間の場合、頭ン中で色々と条件付けられて多種な感情に分化していっているんだと思う。
言葉を発せない動物に対する実験の多くは、おそらく非常な恐怖や苦痛を伴うものであるにも関わらず、そんなことは意に介せず単なる“検体”として扱われてきました。動物愛護のグループが声を荒げてきたことで改善されてきたのだろうけど、それでも依然として問題の禍根は残っています。
また普段、人々がペットとして飼っている小動物たちに対しても、愛情を注がれることによる喜びと、ある種の恐怖政治的な躾(怒り口調や体罰など)が同居していることもあると思います。嬉しさと怯え――アメとムチと言ったら語弊があるかもしれませんが、少なくとも真のパートナーシップの姿ではないだろうことは確かです。
今、世界は急激な変化を経験しようとしています。
まだ裏舞台で進行しているだけで表のニュースにはなかなか出てきませんが、政治・経済など関連分野で働いている人は、そのことをまざまざと感じているのではないでしょうか。
これから社会の多くのシステムが変化していくことは今や明らかで、これから度肝を抜くようなニュースが世界を席巻することになるはずです。フリーエネルギー技術をはじめとした何百もの封印されてきた新技術が開示されて、実用化のための研究と生産が始まったり、経済システムも根本的に様変わりして貧富の概念と言うものを蹴散らしていくことでしょう。
しかし、その一方で、一年や二年では対応しきれない、もっと長期的な視野で行っていかなければならない分野が山積していることも事実です。仮に人間社会のシステムの変化が劇的なものであっても、自然や現状の生活環境はそうではないからです。
例えば、フリーエネルギー技術が実用化されても、今乗っているガソリン車に取って代わるまでには時間がかかります。
なんといっても数十億台のガソリン車が世界中で走っているのですから、それを皆、いっせいに取り替えるというわけにはいきません。多くの改修工場が作られて、そこで沢山の人が雇用されることになるでしょうが、それと平行して、ガソリン車に対する需要も満たさなければ苦情も出ることでしょう。
経済システムなどの社会基盤が変わっても、それでも旧来の方式が根を張っている分野では、引き続き抵抗や摩擦を繰り返すでしょう。いずれは時代に合ったものに変更されるにしても。
構造物などの物理的に作られたものであれ、破壊された自然環境であれ、どれも一夜にしてチェンジすることは無理な話です。そうであって欲しいと切に願うことではあっても、人間が作ってきた功罪は人間自身が清算していかなければ意味がありません。たとえ、そこに地球外生命体として高次元の存在の助力があるとしても、その不思議な力によって、これまでの人間の悪行を「なかったこと」にするのは(たとえそれができるとしても)、やはり理の通ったことではないと思います。
世界の海岸に流れ着いた大量のゴミ、処分方法が決まっていない山のような核廃棄物、放射能を含めた海洋汚染、垂れ流しにされている工場排水、分別されずに可燃物と一緒に燃やされる有害な化学製品・・・といったことだけでなく、僕らの生活の意識そのものに対しても、これまでのやり方から切り替えていかなければなりません。
現在、当たり前のように流通しているものが本当に必要なものなのか、テレビ番組などのマスメディアの内容は本当に意義あるものなのか。これから貧富の差がなくなっていくという希望があることは喜ばしいことですが、同時に、それに付いていけるだけの教養や人間性がなくては元も子もないことは明らかです。
いつのまにか社会が変化していくのを漠然と期待しているだけで、普段のものの見方や考え方を意識的に見直そうともしないのでは、仮に世界や社会が劇的に変化しても、その人の周りは相変わらず旧来の流れを経験し続けるのではないかと思います。
僕ら一人ひとりの意識が目覚しく変わってこその全地球的変化だということを、今一度よく考える必要があると思います。
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