今日は短く。
日々、総合ニュースを見ていると、何かしら心を痛めるような事件やら問題やらが起きており、
人が人を殺めたり、傷つけたり、憎んだり・・・という、書くのもおぞましいことが毎日のように報道されています。
人間が本来持っていたはずの優しさは、心のどこへしまわれてしまっているのだろう?
戦っている相手や関わっている人たちが、実際には自分自身の反映なんだと気がつくのは、一体いつのことなんだろう?
正義を主張し、相手を咎め、あわよくば再起不能になるまで叩きのめそうとするのは、自分の精神と魂の成長にとって、本当に価値のあることなのでしょうか?
誰かに勝ったところで、それで恨みを買うのだとしたら、たとえどんな理由があろうとも、いい未来がもたらされるとは考えにくいのではないでしょうか?
それよりも、自分にも相手にも利になるような方法を模索するほうが、遥かに意義のあることではないでしょうか?
個人であれ、集団であれ、あるいは国家のような社会的・世界的規模であれ、結局、やっていることの内容は似たようなものです。ただ、サイズが違うだけ。
行動に駆り立てるために注ぎ込んでいる感情が、愛や優しさや感謝や謙譲ではなく、怒りや恐怖や憎しみだってこと。
そして、そうした行いの結果は、やがて自分に跳ね返ってきて、再び問題の種となる。その繰り返しを、懲りずに続けている。
いつになったら、そんな馬鹿げたことをやめて、「もう、こんなことは終わりにしましょう」と互いに手を取り合えるのだろう。
「私達は、“お互いに” 間違っていました。今ここで、新たな出発のための選択をします。」と言えるのだろう。
僕らは、今一度、優しさの意味を考えなくてはなりません。誰のための優しさなのかを・・・
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