・艮(山)
巽そして坎と、陰が陽気を押し退けてきた結果、ここ艮に至って、陽気は唯一つ上層に残るのみとなりました。
いわば最後の砦。城の門前にて陰の勢力を押し留め、何とか正義と秩序を守り通そうとしています。
正象は山。
時に神々しささえ覚える山々は、どっしりと大地に定着していて、その安定を堅持しています。
「動かざること山の如し」という文言もあるように、そうした頑固さも持っています。
しかし逆に言えば、新旧が入り混じる変化の時期にあることも示しており、思慮のしどころです。
時代や情勢の流れに伴って変わらなければならないこと――自分自身の意識、物の見方、生活の仕方、人間関係、仕事や社会的な立場など様々ですが――変わり行く現状に対して、どう対処するかが問われています。
もちろん、頑なに伝統を堅持するも良し、時代に乗じて新を取り入れるも良し。
大概、どっちつかずにならないほうが余計な迷いは少なくて済みます。
奥の院にある陽ですので、そこに旧来の全ての理想と正義が保存されています。
艮では、その陽を守り通すために、常に厳しい(自己)批判の目を光らせており、倫理観を大切に堅持し続けます。
完璧さを追求し、理想郷の建設のためには努力を惜しまない性格です。
しかし、「正当性」・「真理」・「倫理」・「道徳」・「規則」・「慣例」といった基準ばかりで物事を図れば、とかく人間的な角が目立つようになり、一般的な人間からすると、ちょっと取っ付きにくい感を醸し出します。
一々周囲の人達の行動に文句をつけたり、ちょっとした言葉にさえ憤りを覚えて煩悶してしまう。
逆に言えば、周囲に対する期待値が高過ぎて、その視点からしか見ていないために苛立ってしまうのです。
自制心が強く品行方正である面は評価されるにしても、何事も生真面目過ぎ・行き過ぎは禁物です。
律儀な振舞いは反面、ストレスにもなりやすく、若白髪や若禿げの原因ともなり得ます。
それに、勧善懲悪も度が過ぎては害。ほどほどにするのが良いのです。
誰しも完璧足りえないのですし、他ならぬ自分自身にしても思うほど完璧ではないことは明らかです。
長所しかない人はおらず、短所しかない人もまたいません。
もちろん、「そうしたことは既に分かっている」と思いつつも、自分や相手の短所に目が行ってしまうかも知れません。
こういう時は、意識をチェンジさせて「長所を見よう」「長所を認めよう」と自省すると良いでしょう。
艮は、事あるごとに「~~すべき」とか「~~するのが当然だ」などと断定したくなる性分なのですが、「正しいこと」その事実は事実として認められる必要はあるとは言え、かといって無理に押し付ける必要もないのです。
そうした、時に独善的な態度は玉に瑕で、偉ぶったように見られて敬遠されることもあります。
高尚さと後に退けない強情さとは、権威を持つ者にとっては紙一重。
自分ではそんなつもりはないのに周りから傲慢に見られていることもあるかもしれません。
もっと心を柔軟に穏やかにして人々の中に入れば、そこから学べることは沢山あります。
色々な考え方を持つ人がいて、そうした多様性があってこそ社会が成り立っている。
清浄さと陳腐さとが入り混じる中で、人々は生きている。
多様な現実、多様な人々、多様な仕事、多様な考え方、多様な生活――
こうした多面的な様相に触れることは、艮にとって大きな変革をもたらします。
人間的な角が取れて丸みを帯び、取っ付きにくさが薄れて親しみやすくなったり、物事の許容範囲や他者に対する理解の幅が広がる、といった効果があります。
その意味では、多くの地域や国を旅して、種々様々な文化・社会を見聞することは大変有意義です。
今まで考えもしなかった習慣を持つ人々に出会ったり、そうした伝統の中に身を置いたり、それまでならば悪としか思えないような仕事をしている人々の実情を知って認識が変わったり・・・
こうした経験をすることで、善悪の物事の見方、表と裏の考え方といったことに通じてくるからです。
もう一つ艮で重要なことは、一度、過去を再確認することで現在の立脚点の意味を探ることです。
ゆっくりとできる時間を取って、自分自身の歴史、つまり自分史について考えてみましょう。
単なる思い出や薄れた印象として残っている場合もあれば、時が止まったように鮮明に覚えていることもあるでしょう。
自分の生まれ育った場所のこと、両親のこと、子供の頃に遊んだ友達、学んだ先生、学校行事、地域のイベント、一人旅、海外での異文化体験、社会生活における様々な経験、仕事の経歴、人生での重要な岐路となった出来事・・・
過去の自分が辿ってきた道程を再検討して、現在の自分が形成された過程を見つめ直すのです。
それぞれの出来事が自分の人生にとって、一体どんな意味を持っていたのかを考えることは、現在の自分自身の存在意義をハッキリとさせることに役立ちます。
社会の中での自分の位置と役割(存在意義)の認識、大きくは世界の中での自分の位置と役割、小さくは、友人や家族の中での自分の位置と役割といったことです。
そして、そうした人々が全体として、どういう未来へ向かっているのかを考えてみるのです。
同じように、今まで人類が辿ってきた歴史的プロセスを振り返って、なぜそういう道筋を進むことになったのか、それが今にどのように結びついているのか、ということを考える。かといって歴史家になる必要はありません。
人類史を概観できて、それで現在の人類がいる意味を認識できれば、それで良いのです。
現在の社会が形成されてきた理由、その原因となった様々な出来事、国の政策、それを後押しした民衆心理、より大きくは、中世・近代・現代とか、江戸・明治・大正・昭和・平成といったように各時代の連続的な流れの把握。
こうした考察を経ることで、現在の国や社会が形成されてきた背景を知り、そして今をどう生きていけば良いのかを探る。
過去・現在・未来の流れを概観している内に、結局は人々が思い込んだ通りの社会になっていることを知るでしょう。
それは自分自身や他の人の人生にしても同様です。
過去の自分が肯定したこと、否定したこと、受け入れたこと、拒否したこと、その結果としての自分がいることを知る。
そうした思考のプロセスを経ることで、“過去の思いが現在を作ったように、現在の思いが未来を作っていく”ということを確認できれば、艮における学びは達成できたようなものです。
少し話を戻して、艮の特性である山を考えてみましょう。
まず、山登りは一気にするものではありません。そんなことをしても体力も気力も持ちませんから。
向上するためには一歩一歩の着実さ、進歩の軌跡が必要ですし、ある程度進んだら休息をとることも大切です。
「まず、あそこまで行こう。そんなに遠くない。そして、あそこまで行ったら、もう少し先の目標を見つけよう」
山は、そうした少しずつの積み重ねの重要性を説いています。
結局のところ、達成目標を高く設定し過ぎることは、日進月歩の道を歩む者には辛いものです。
一度に完璧なものを作り上げようとすれば、「どれだけ時間があっても完全にやり遂げるには足りない」と感じたり、はじめから無理な話だと勝手に決め付けてしまうこともあり、その自己定義によって本当に達成できなくしてしまう恐れがあります。
このことに関しては、特にマラソンを考えてみるといいと思います。
スタートからゴールまで全力疾走できる選手はいませんから、ペース配分を守ることが肝要です。
10キロ地点、20キロ地点、30キロ地点、40キロ地点とタイムを刻み、また途中々々で給水しつつ、まずは完走すること、そしてその上で良いタイムを目指す。
同じようなことは、いろんな種類のレースにおいてもあてはまるだろうと思います。
例えばF1などのカーレース。
100メートル走のような直進だけの勝負を除けば、ヘアピンやスプーンなど種々多様なカーブがありますから、ギアチェンジやアクセル及びブレーキによるスピード調整が必要になります。
また、マラソンの給水と同様に、途中でピットインして燃料を入れたり、タイヤ交換もしなくてはなりません。
故障がないか素早くチェックし、何よりもドライバーの安全を守るという使命もあるでしょう。
どんなレースにしても、完走するには並外れた耐久力が求められます。
困難に出遭っても挫けない不屈の精神力、即ち“折れない心”。そして、もの凄い衝撃にも負けない強靭な身体。
何よりも、自分自身に打ち勝つという意志力と根性の持ち主であること。
再三述べていますが、どの卦にも肯定面(長所)と否定面(短所)とがあります。
ただ、こと艮に関しては短所を「矯正されるべき点」としてキツイ見方をする傾向があり、一方で、長所に対しては「当然だ」と言わんばかりに冷めた発言をしがちです。
これは兌とは反対の性質です。
兌は自分の長所にばかり目を向け、短所や悪い面には見向きもしません。そして、苦しみを避けるのです。
一方の艮は、短所ばかりが気になり、長所に対する評価が低すぎます。そして、楽しみを批判してしまうのです。
もっと自分自身の、そして周りの人達の長所を評価し、もし短所が気になった時も努めて穏やかな目で見守ってみましょう。
見聞を広め、寛容な心をもって人々と接してみることで、今まで見たことのなかった自分自身に出会えることでしょう。
さて、先天八卦の原理では艮は、旧暦23日前後の下弦の月に象られています。
この頃の朝方、南(丙)の空を見上げると左側半分だけが光る月を見ることができます。それが艮の月です。
艮も兌と同じように片側半分だけの月。光と闇の二極性が共演する時。
半月は太陽と月の角度が90度になったということであり、その現象だけ見れば兌と同じです。
ただし、兌は増光期(上弦)であり、艮は減光期(下弦)ですから、その辺の違いが出てきます。
兌の場合では、陽気が盛り上がってくる状況の中で一度、自分の進み行く道を確認し、その確信を強める時間が必要でした。
そして艮の場合では、陽気が退き陰気が増してくる中で、いったん止まって、今後の動向を無心に見つめる時間が必要なのです。
占星術的観点では、艮は土星に類似しています。また、エニアグラム的にはType1ということになるでしょう。
巽そして坎と、陰が陽気を押し退けてきた結果、ここ艮に至って、陽気は唯一つ上層に残るのみとなりました。
いわば最後の砦。城の門前にて陰の勢力を押し留め、何とか正義と秩序を守り通そうとしています。
正象は山。
時に神々しささえ覚える山々は、どっしりと大地に定着していて、その安定を堅持しています。
「動かざること山の如し」という文言もあるように、そうした頑固さも持っています。
しかし逆に言えば、新旧が入り混じる変化の時期にあることも示しており、思慮のしどころです。
時代や情勢の流れに伴って変わらなければならないこと――自分自身の意識、物の見方、生活の仕方、人間関係、仕事や社会的な立場など様々ですが――変わり行く現状に対して、どう対処するかが問われています。
もちろん、頑なに伝統を堅持するも良し、時代に乗じて新を取り入れるも良し。
大概、どっちつかずにならないほうが余計な迷いは少なくて済みます。
奥の院にある陽ですので、そこに旧来の全ての理想と正義が保存されています。
艮では、その陽を守り通すために、常に厳しい(自己)批判の目を光らせており、倫理観を大切に堅持し続けます。
完璧さを追求し、理想郷の建設のためには努力を惜しまない性格です。
しかし、「正当性」・「真理」・「倫理」・「道徳」・「規則」・「慣例」といった基準ばかりで物事を図れば、とかく人間的な角が目立つようになり、一般的な人間からすると、ちょっと取っ付きにくい感を醸し出します。
一々周囲の人達の行動に文句をつけたり、ちょっとした言葉にさえ憤りを覚えて煩悶してしまう。
逆に言えば、周囲に対する期待値が高過ぎて、その視点からしか見ていないために苛立ってしまうのです。
自制心が強く品行方正である面は評価されるにしても、何事も生真面目過ぎ・行き過ぎは禁物です。
律儀な振舞いは反面、ストレスにもなりやすく、若白髪や若禿げの原因ともなり得ます。
それに、勧善懲悪も度が過ぎては害。ほどほどにするのが良いのです。
誰しも完璧足りえないのですし、他ならぬ自分自身にしても思うほど完璧ではないことは明らかです。
長所しかない人はおらず、短所しかない人もまたいません。
もちろん、「そうしたことは既に分かっている」と思いつつも、自分や相手の短所に目が行ってしまうかも知れません。
こういう時は、意識をチェンジさせて「長所を見よう」「長所を認めよう」と自省すると良いでしょう。
艮は、事あるごとに「~~すべき」とか「~~するのが当然だ」などと断定したくなる性分なのですが、「正しいこと」その事実は事実として認められる必要はあるとは言え、かといって無理に押し付ける必要もないのです。
そうした、時に独善的な態度は玉に瑕で、偉ぶったように見られて敬遠されることもあります。
高尚さと後に退けない強情さとは、権威を持つ者にとっては紙一重。
自分ではそんなつもりはないのに周りから傲慢に見られていることもあるかもしれません。
もっと心を柔軟に穏やかにして人々の中に入れば、そこから学べることは沢山あります。
色々な考え方を持つ人がいて、そうした多様性があってこそ社会が成り立っている。
清浄さと陳腐さとが入り混じる中で、人々は生きている。
多様な現実、多様な人々、多様な仕事、多様な考え方、多様な生活――
こうした多面的な様相に触れることは、艮にとって大きな変革をもたらします。
人間的な角が取れて丸みを帯び、取っ付きにくさが薄れて親しみやすくなったり、物事の許容範囲や他者に対する理解の幅が広がる、といった効果があります。
その意味では、多くの地域や国を旅して、種々様々な文化・社会を見聞することは大変有意義です。
今まで考えもしなかった習慣を持つ人々に出会ったり、そうした伝統の中に身を置いたり、それまでならば悪としか思えないような仕事をしている人々の実情を知って認識が変わったり・・・
こうした経験をすることで、善悪の物事の見方、表と裏の考え方といったことに通じてくるからです。
もう一つ艮で重要なことは、一度、過去を再確認することで現在の立脚点の意味を探ることです。
ゆっくりとできる時間を取って、自分自身の歴史、つまり自分史について考えてみましょう。
単なる思い出や薄れた印象として残っている場合もあれば、時が止まったように鮮明に覚えていることもあるでしょう。
自分の生まれ育った場所のこと、両親のこと、子供の頃に遊んだ友達、学んだ先生、学校行事、地域のイベント、一人旅、海外での異文化体験、社会生活における様々な経験、仕事の経歴、人生での重要な岐路となった出来事・・・
過去の自分が辿ってきた道程を再検討して、現在の自分が形成された過程を見つめ直すのです。
それぞれの出来事が自分の人生にとって、一体どんな意味を持っていたのかを考えることは、現在の自分自身の存在意義をハッキリとさせることに役立ちます。
社会の中での自分の位置と役割(存在意義)の認識、大きくは世界の中での自分の位置と役割、小さくは、友人や家族の中での自分の位置と役割といったことです。
そして、そうした人々が全体として、どういう未来へ向かっているのかを考えてみるのです。
同じように、今まで人類が辿ってきた歴史的プロセスを振り返って、なぜそういう道筋を進むことになったのか、それが今にどのように結びついているのか、ということを考える。かといって歴史家になる必要はありません。
人類史を概観できて、それで現在の人類がいる意味を認識できれば、それで良いのです。
現在の社会が形成されてきた理由、その原因となった様々な出来事、国の政策、それを後押しした民衆心理、より大きくは、中世・近代・現代とか、江戸・明治・大正・昭和・平成といったように各時代の連続的な流れの把握。
こうした考察を経ることで、現在の国や社会が形成されてきた背景を知り、そして今をどう生きていけば良いのかを探る。
過去・現在・未来の流れを概観している内に、結局は人々が思い込んだ通りの社会になっていることを知るでしょう。
それは自分自身や他の人の人生にしても同様です。
過去の自分が肯定したこと、否定したこと、受け入れたこと、拒否したこと、その結果としての自分がいることを知る。
そうした思考のプロセスを経ることで、“過去の思いが現在を作ったように、現在の思いが未来を作っていく”ということを確認できれば、艮における学びは達成できたようなものです。
少し話を戻して、艮の特性である山を考えてみましょう。
まず、山登りは一気にするものではありません。そんなことをしても体力も気力も持ちませんから。
向上するためには一歩一歩の着実さ、進歩の軌跡が必要ですし、ある程度進んだら休息をとることも大切です。
「まず、あそこまで行こう。そんなに遠くない。そして、あそこまで行ったら、もう少し先の目標を見つけよう」
山は、そうした少しずつの積み重ねの重要性を説いています。
結局のところ、達成目標を高く設定し過ぎることは、日進月歩の道を歩む者には辛いものです。
一度に完璧なものを作り上げようとすれば、「どれだけ時間があっても完全にやり遂げるには足りない」と感じたり、はじめから無理な話だと勝手に決め付けてしまうこともあり、その自己定義によって本当に達成できなくしてしまう恐れがあります。
このことに関しては、特にマラソンを考えてみるといいと思います。
スタートからゴールまで全力疾走できる選手はいませんから、ペース配分を守ることが肝要です。
10キロ地点、20キロ地点、30キロ地点、40キロ地点とタイムを刻み、また途中々々で給水しつつ、まずは完走すること、そしてその上で良いタイムを目指す。
同じようなことは、いろんな種類のレースにおいてもあてはまるだろうと思います。
例えばF1などのカーレース。
100メートル走のような直進だけの勝負を除けば、ヘアピンやスプーンなど種々多様なカーブがありますから、ギアチェンジやアクセル及びブレーキによるスピード調整が必要になります。
また、マラソンの給水と同様に、途中でピットインして燃料を入れたり、タイヤ交換もしなくてはなりません。
故障がないか素早くチェックし、何よりもドライバーの安全を守るという使命もあるでしょう。
どんなレースにしても、完走するには並外れた耐久力が求められます。
困難に出遭っても挫けない不屈の精神力、即ち“折れない心”。そして、もの凄い衝撃にも負けない強靭な身体。
何よりも、自分自身に打ち勝つという意志力と根性の持ち主であること。
再三述べていますが、どの卦にも肯定面(長所)と否定面(短所)とがあります。
ただ、こと艮に関しては短所を「矯正されるべき点」としてキツイ見方をする傾向があり、一方で、長所に対しては「当然だ」と言わんばかりに冷めた発言をしがちです。
これは兌とは反対の性質です。
兌は自分の長所にばかり目を向け、短所や悪い面には見向きもしません。そして、苦しみを避けるのです。
一方の艮は、短所ばかりが気になり、長所に対する評価が低すぎます。そして、楽しみを批判してしまうのです。
もっと自分自身の、そして周りの人達の長所を評価し、もし短所が気になった時も努めて穏やかな目で見守ってみましょう。
見聞を広め、寛容な心をもって人々と接してみることで、今まで見たことのなかった自分自身に出会えることでしょう。
さて、先天八卦の原理では艮は、旧暦23日前後の下弦の月に象られています。
この頃の朝方、南(丙)の空を見上げると左側半分だけが光る月を見ることができます。それが艮の月です。
艮も兌と同じように片側半分だけの月。光と闇の二極性が共演する時。
半月は太陽と月の角度が90度になったということであり、その現象だけ見れば兌と同じです。
ただし、兌は増光期(上弦)であり、艮は減光期(下弦)ですから、その辺の違いが出てきます。
兌の場合では、陽気が盛り上がってくる状況の中で一度、自分の進み行く道を確認し、その確信を強める時間が必要でした。
そして艮の場合では、陽気が退き陰気が増してくる中で、いったん止まって、今後の動向を無心に見つめる時間が必要なのです。
占星術的観点では、艮は土星に類似しています。また、エニアグラム的にはType1ということになるでしょう。
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