cry&smile

海外ドラマの感想、子育て、結婚時代のいろいろなど、ありふれていると思ってるのは自分だけらしく、怒涛の日常を綴っています。

自分メモ

2014-03-27 11:36:41 | ひとりごと・詩
自分メモ。
いつも見に行っているブログさんから転記。



おはようございます。
暑さ寒さも彼岸まで、の言葉通り、暖かくなってきましたね。
今日は終業式の学校も多いことでしょう。
春休みを満喫しましょう。

私は、普通の人?が負の体験だと思うようなことを経験しました。
子どもが小学校に入るなり不登校になり
私自身もうつ病になり、夫婦も危機に陥りました。
うつ病の時は、何をしていても悲観的になるし死にたくなるし。

でも、その時でさえ、何か「もうお終いだ」と思うこともなければ「将来真っ暗だ」と思ったこともありませんでした。それぐらい、その時その時の対処が大変だったこともありますが、不幸の中に閉じこもろうとは思わなかったんですね。

かわいそう、悲しい、誰か助けて、助けてくれるよね?という感覚にはならなかった。

不登校でもいいし、鬱でもいい。ここから始めるんだ、始まるんだ、楽しくやっていくのだ。
という気持ちがありました。

よく「あなたがこうだから子どもが不登校になったのよ、あなたが悪いのよ」と言われましたし、うつ病の関しても、まあ、周囲は色々と原因を考えて本人を追い込んでくれます(笑

でもね。
私は、あらゆる経験がプラスになったことしか知らないんです。
マイナスになったことはないです。

子どもの不登校がなくなれば「いいこと」だと思っている人がとても多いですし、うつ病なんかにならなければいいと思っている人もいるし、夫婦関係はいつも良好であるべきだと思っている人もいます。
なんでやねん!

「経験すること」がこの世の楽しみであり、成長の証です。
経験することを自ら否定し批判することがマイナスであって、経験自体にマイナスなどあり得ないのです。

経験はなくなりません。どんなに浄化しようが、過去生を癒そうがなくなりません。
発達障害をどんなに勉強しようとも、子どもはありのまま生きているだけだし
不登校を理解しても、不登校という現実から逃れらません。

できることはただひとつ。
この経験はきっと役に立つ、と信じることだけなんです。

そしてそれは本当に役にたつのです。

役に立たない、ひどい経験だ、という「思い」だけが明日の現実を創るのであって
「これ、どうなるんだろう、何につながるんだろう」とわくわくしていれば、どんな経験も「わくわく」なのです。

わざわざ感動できることを探さなくても、日々奇跡です。

あれがこうつながっていたんだ~と。

何かを探し求めるのは楽しいことですが、その途中で必ず「あなたがこうでこうだからだめなのよ」というダメ出しをする人が現れるでしょう?
そんなこと、言われてもね。

あなたにとって「不登校はマイナス」だと思っているかもしれないけれど、私は子どもの不登校がどうなるか楽しみでしかたないんですよ、という話です。
うつ病で笑えないお母さんがいて、子どもは不幸だと「あなたは」思ってアドバイスしているかもしれないけれど、母親のうつ病で子どもは何かを学んでいるかもしれないし、私自身も無理やり笑うことの弊害のほうが嫌ですから~という感じ。

今起こっていることが「マイナスだから相談している」のではなく、「よりよく生かすにはどうしたらいいか」聞いているだけだったのに、経験自体を否定する人が多かったのも、今思えば「経験を否定してもどうにもならない」と教えてくれていたのかもしれません。

今、身体の調子がいまひとつで、少しだけ鬱っぽいのですが
かつてドカンとうつ病を患っていたせいで、対処法がわかります。
女性として必要な状態が起こっているだけなんですが、もしこれでうつ病を体験していなかったら、この状態はかなり辛いと思います。

子どもは親を選べないし、生まれてくる国も選べません。
だったら、この状況を「悲しむのではなく楽しんでしまう」ことを子どもに教えるしかないのです。
それが親の役目だと私は思います。
悲惨な状況を楽しむのでもなく、「活かす」というのかな。
今の経験はきっと何かの役に立つ、という確信を持って生きていくということ。
その心の持ちようを教えることしかできない。

経済的に恵まれている家と同じように塾へ行かせることもできないし、習い事にも通わせられない。
子どもの性質性格も変わらないから無理やり何かをさせることもできない。
「今起きていること」の楽しさを感じられるかどうかにすべてがかかっているのではないでしょうか。
「お金がないから楽しめない」「子どもの頭がよくないからうまくいかない」「発達障害だから少しでも普通に近づけないとだめ」などという考え方をしている限り、自分も子どももなんだかな~の現実を生きていくことになりはしないでしょうか。

人を変えることはできない、という原則があるにもかかわらず
潜在意識を変えてあげる、だの、「変わりたいと思わせてあげる」だの。
無理だって。
その人に必要なことは、「影響力を行使したい」と思う人がいらんことをしない限りすっと起こるものではないかと思います。「変わろう」「変わりたい」と思う瞬間を自然に起こし、自然に変わっていくその人に寄り添っていくしかできないのであって、「変わろうとしないあんたが悪いのよ」と追い込んで必要のない葛藤を生じさせてどうする?と思うんです。

アルコール依存症の人が自ら「飲んじゃいけない」と思うようにするためには、隣でやんややんやアドバイスしちゃだめ、というのと同じです。

「あなたのここがだめ」ということで「ダメな部分」にしか意識が向かないようにしちゃうんですから。

それはともかく、すべての経験はマイナスにはなりませんので、安心して「ひどいと思われる経験」をしちゃってください。経験そのものを消そうと思わないことです。そこから何を学ぶのかが大切です。それだけです。

angelus

2013-11-12 15:12:58 | ひとりごと・詩
眠気覚ましに習作。
久々に書きました。


あー。ちょっと「ちゅうに」っぽいので、ご注意を。
軽いし、ひどい…久々だからまあ、いいか。

では、どぞ。







深い深いそらの底から
大きな翼をグラウディングして
そっと舞い降りた

知ってるよ
君がそうしてやってきたこと

だって、見えるよ
隠してるつもりだろうけどさ

きらきら光ってるもん


どんなに会いたいと思っても
ぼくたちが会えないのは
その翼をもってるからなんだよね

君のテリトリーを犯すわけにはいかないし
ぼくのテリトリーにも踏み入られちゃ困る

けれど不覚にも
会いたいんだ

テリトリーを踏みにじっても構わないくらいに

ぼくたちのいるこの星は
そういった不毛なことが
美しいらしい

相手の、自分の心の中までも支配するそんな不毛な感情に
ぼくの翼も支配されそうだ

ねえ、
馬鹿げてるよね

そう言ってくれよ



そういって僕の手を取ってくれないかな







どちらも真実

2013-11-01 17:29:52 | ひとりごと・詩
最近考えていることです。
よかったらどうぞ。






出会いと別れ
好きと嫌い
苦手と得意
素敵!と最低!
もふもふとトゲトゲ
美味いと不味い
かわいい!と きもい!
綺麗と汚い

ただ変化しただけだよ。
どちらが悪いわけでもない。
そして過去と未来も
今が変化してるだけ。

もしあなたが誰かの言葉で傷ついたとしても

あなたが誰かの言葉で傷ついたことは真実で、

誰かが傷つけたくて言っていればそれも真実で
誰かがそんなつもりなく無邪気に言っていてもそれも真実で、

誰が悪いわけでもないよね。

ああ、傷つけたかったんだねってそっと籠に受取っちゃえばいいし、
その言葉はちょっと棘があるよー傷ついたーって相手に投げ返してもいい。

黙って怒りを溜めるのは理不尽な所業ではないのか?
それこそ「悪い」に繋がらないか?

オブラートに包むって相手を労わっている気がするけど、
もしその裏で怒りを溜めたり
違う考えをしているのならそれは相手を労わっていない。

相手ときっちり関係を続けるなら
受け取った嫌な感情を 後腐れなくぽいっと捨てるか、
私はこう思うのよーって投げ返す必要あるんじゃないの?









それができないひとが多いよね、
って話してた昨日の晩。

オブラートは要らないんだって。うちの娘ちゃん。
言葉のあやをくみ取るのが難しい子だからなんだろうけど、
確かにめんどくさい。オブラート。





愚痴がでます。

2013-10-07 12:11:21 | ひとりごと・詩
どーしても納得いかないことが。

どーでもいい話なんですがね。

一か月後に妹が結婚するので、私は圧力鍋を贈ることにしていました。
本人はあまり料理をしないので、要るか要らないか分からない、と言っていたのですが、母の「絶対あった方がいいって」のごり押しで使うことにしました。
私もけっこう楽なので、使ってみれば?と言ったは言ったのですが、あまり圧力鍋をつかったことのない彼女にしてみれば、安めでいいよ、って感じだったんです。で、使うのは妹なので、これがいいって言うのがあれば教えてね。買うから。って言っていたのです。

で、昨日の昼。
携帯にかかってきた電話で、
今、デパートの特招会で昔懐かしいリケンの圧力鍋があったから取り置きしてもらってるとのこと。
いくらまで出せるの?っていう母からの電話でした。
見に行くのなら誘ってくれればいいものを。
いつも事後報告で、どうせ、こうするんだし、いいでしょ、って何度勝手に大きな事を決められたか。
必ずわたしだけ知らされていないこんなシチュエーションで。
まじで?って思考が固まりました。
せっかく私からプレゼントしたかったのになあ。
で、その圧力鍋がかなり立派な物らしく、私が予定していた予算を一万円超えていて、じゃあ、その予算の分、出してくれればいいからって言われた。
なんかなあ。
せっかくの新しい門出の贈り物じゃん。
気持ちよくお金出せないじゃんそんなの。
と、うじうじしています。
この私の気持ちを仮に伝えたとしても、ケチをつけたって言われるし、母が決めたことはたぶん翻らないし、本当、他の娘の事はちゃんと考えるのに私の気持ちは本当に踏みにじっていくなあと改めて思った。

結婚式&お食事会も私なりに振る舞っていてもきっと文句の一つも言われるんだろうなあと思うと、ほんと、気が重い。

はやく当日が過ぎ去ってくれないだろうか。

純粋に二人の結婚をお祝いしたいんだが、まだ旦那も紹介されてないしなあ。
たぶん、当日、か。
なんかねーそんなところも(今までの扱いも)のけ者家族なんだよなーうち。

ってかなりのネガティブシンキングです。
書いて収まりつくかなあと思ったけど、
やっぱ収まりつかない。

ごめんどーでもいい愚痴でした。

おわり。





自己否定・肯定感

2013-09-25 17:30:23 | ひとりごと・詩


今日はちょっと最近深く考える事を書きます。
人それぞれの考え方なので、スルー推奨します。

内容は、
自己肯定感
自己否定感
について、ってところでしょうか。


では追記から…






会社の窓から、ぼーっと雲を見ていたんです。
形を変えて存在する雲。
今はこんな風に見えるけれども、雨に形を変えたり、霧として高地の植物を濡らしたりしてる。
そして刻々と姿を変えて下界にいる私たちの眼を楽しませてくれている。

雲は雲として存在し、地球の水の循環としてただ、そこに存在していて、
それ以上でもそれ以下でもない。

地球上の本当にちっちゃい細胞でさえそれ以上でもなくそれ以下でもないのに、
なんで人間って制限つけるの好きなんだろうって思います。

最近の自分のミッションが、「受け入れる」だったり「手放す」だったりしたのですが、
ありのままを受け入れるってことが難しくて、そういうことが難しい社会構造でもあるんだなあと感じています。
手放すことは、時期が来た時にさらっとリリースできる人でいたいなあと思い、エゴが引き止める醜さ、変化する恐怖心、そしてそれだけの思い入れができていた自分の情熱についてがっつり考えてみたりしていました。

生きてるだけでいいんだよって言われる世の中になんないかなあ。
誰かのために役に立たないものは切り捨てるっていうんじゃなくて。
役に立たないっていう役割もたぶんあるんだよね。

なんというか難しいんですけど。

レオ・レオニーさんの「フレデリック」って絵本が大好きなんです。
フレデリックは、みんなが冬に備えてせっせと働いているのに、
一人だけぼーっとしているのです。
秋が来て、たくさんの食べ物をため込んで、
少しずつ食べて…だんだん減っていき、することもなくなる。灰色の壁を見つめるだけになる。
そんな時、何もしていなかったフレデリックは、春の色、夏の色、いろんな景色、におい、感触をみんなにおすそ分けする。そしてみんなはフレデリックの話に聞き入る。
ぼーっとしていたのではなくて、そういったものをみんなが食べ物をため込んでいるように自分の中に溜めていたんだよって話。

一般常識からして、「役に立つ」「役にたたない」とか「勝ち組」「負け組」とか
そんなことは自分がこの世に生を受けて死ぬ時の、または生きている時の他人のジャッジの基準にはならない。

どれだけ心を磨けたか、
どれだけ自分を大切にできたか。
自分を大切にするってことは、すべてのものを大切にすることに繋がるから。
どれだけ自分を愛せたか、誰の基準でもなくただ自分が生まれてきたことに感謝できるか。

自己肯定感の薄い私だからこそ、そう思うのかもしれないですね。