自分メモ。
いつも見に行っているブログさんから転記。
おはようございます。
暑さ寒さも彼岸まで、の言葉通り、暖かくなってきましたね。
今日は終業式の学校も多いことでしょう。
春休みを満喫しましょう。
私は、普通の人?が負の体験だと思うようなことを経験しました。
子どもが小学校に入るなり不登校になり
私自身もうつ病になり、夫婦も危機に陥りました。
うつ病の時は、何をしていても悲観的になるし死にたくなるし。
でも、その時でさえ、何か「もうお終いだ」と思うこともなければ「将来真っ暗だ」と思ったこともありませんでした。それぐらい、その時その時の対処が大変だったこともありますが、不幸の中に閉じこもろうとは思わなかったんですね。
かわいそう、悲しい、誰か助けて、助けてくれるよね?という感覚にはならなかった。
不登校でもいいし、鬱でもいい。ここから始めるんだ、始まるんだ、楽しくやっていくのだ。
という気持ちがありました。
よく「あなたがこうだから子どもが不登校になったのよ、あなたが悪いのよ」と言われましたし、うつ病の関しても、まあ、周囲は色々と原因を考えて本人を追い込んでくれます(笑
でもね。
私は、あらゆる経験がプラスになったことしか知らないんです。
マイナスになったことはないです。
子どもの不登校がなくなれば「いいこと」だと思っている人がとても多いですし、うつ病なんかにならなければいいと思っている人もいるし、夫婦関係はいつも良好であるべきだと思っている人もいます。
なんでやねん!
「経験すること」がこの世の楽しみであり、成長の証です。
経験することを自ら否定し批判することがマイナスであって、経験自体にマイナスなどあり得ないのです。
経験はなくなりません。どんなに浄化しようが、過去生を癒そうがなくなりません。
発達障害をどんなに勉強しようとも、子どもはありのまま生きているだけだし
不登校を理解しても、不登校という現実から逃れらません。
できることはただひとつ。
この経験はきっと役に立つ、と信じることだけなんです。
そしてそれは本当に役にたつのです。
役に立たない、ひどい経験だ、という「思い」だけが明日の現実を創るのであって
「これ、どうなるんだろう、何につながるんだろう」とわくわくしていれば、どんな経験も「わくわく」なのです。
わざわざ感動できることを探さなくても、日々奇跡です。
あれがこうつながっていたんだ~と。
何かを探し求めるのは楽しいことですが、その途中で必ず「あなたがこうでこうだからだめなのよ」というダメ出しをする人が現れるでしょう?
そんなこと、言われてもね。
あなたにとって「不登校はマイナス」だと思っているかもしれないけれど、私は子どもの不登校がどうなるか楽しみでしかたないんですよ、という話です。
うつ病で笑えないお母さんがいて、子どもは不幸だと「あなたは」思ってアドバイスしているかもしれないけれど、母親のうつ病で子どもは何かを学んでいるかもしれないし、私自身も無理やり笑うことの弊害のほうが嫌ですから~という感じ。
今起こっていることが「マイナスだから相談している」のではなく、「よりよく生かすにはどうしたらいいか」聞いているだけだったのに、経験自体を否定する人が多かったのも、今思えば「経験を否定してもどうにもならない」と教えてくれていたのかもしれません。
今、身体の調子がいまひとつで、少しだけ鬱っぽいのですが
かつてドカンとうつ病を患っていたせいで、対処法がわかります。
女性として必要な状態が起こっているだけなんですが、もしこれでうつ病を体験していなかったら、この状態はかなり辛いと思います。
子どもは親を選べないし、生まれてくる国も選べません。
だったら、この状況を「悲しむのではなく楽しんでしまう」ことを子どもに教えるしかないのです。
それが親の役目だと私は思います。
悲惨な状況を楽しむのでもなく、「活かす」というのかな。
今の経験はきっと何かの役に立つ、という確信を持って生きていくということ。
その心の持ちようを教えることしかできない。
経済的に恵まれている家と同じように塾へ行かせることもできないし、習い事にも通わせられない。
子どもの性質性格も変わらないから無理やり何かをさせることもできない。
「今起きていること」の楽しさを感じられるかどうかにすべてがかかっているのではないでしょうか。
「お金がないから楽しめない」「子どもの頭がよくないからうまくいかない」「発達障害だから少しでも普通に近づけないとだめ」などという考え方をしている限り、自分も子どももなんだかな~の現実を生きていくことになりはしないでしょうか。
人を変えることはできない、という原則があるにもかかわらず
潜在意識を変えてあげる、だの、「変わりたいと思わせてあげる」だの。
無理だって。
その人に必要なことは、「影響力を行使したい」と思う人がいらんことをしない限りすっと起こるものではないかと思います。「変わろう」「変わりたい」と思う瞬間を自然に起こし、自然に変わっていくその人に寄り添っていくしかできないのであって、「変わろうとしないあんたが悪いのよ」と追い込んで必要のない葛藤を生じさせてどうする?と思うんです。
アルコール依存症の人が自ら「飲んじゃいけない」と思うようにするためには、隣でやんややんやアドバイスしちゃだめ、というのと同じです。
「あなたのここがだめ」ということで「ダメな部分」にしか意識が向かないようにしちゃうんですから。
それはともかく、すべての経験はマイナスにはなりませんので、安心して「ひどいと思われる経験」をしちゃってください。経験そのものを消そうと思わないことです。そこから何を学ぶのかが大切です。それだけです。
いつも見に行っているブログさんから転記。
おはようございます。
暑さ寒さも彼岸まで、の言葉通り、暖かくなってきましたね。
今日は終業式の学校も多いことでしょう。
春休みを満喫しましょう。
私は、普通の人?が負の体験だと思うようなことを経験しました。
子どもが小学校に入るなり不登校になり
私自身もうつ病になり、夫婦も危機に陥りました。
うつ病の時は、何をしていても悲観的になるし死にたくなるし。
でも、その時でさえ、何か「もうお終いだ」と思うこともなければ「将来真っ暗だ」と思ったこともありませんでした。それぐらい、その時その時の対処が大変だったこともありますが、不幸の中に閉じこもろうとは思わなかったんですね。
かわいそう、悲しい、誰か助けて、助けてくれるよね?という感覚にはならなかった。
不登校でもいいし、鬱でもいい。ここから始めるんだ、始まるんだ、楽しくやっていくのだ。
という気持ちがありました。
よく「あなたがこうだから子どもが不登校になったのよ、あなたが悪いのよ」と言われましたし、うつ病の関しても、まあ、周囲は色々と原因を考えて本人を追い込んでくれます(笑
でもね。
私は、あらゆる経験がプラスになったことしか知らないんです。
マイナスになったことはないです。
子どもの不登校がなくなれば「いいこと」だと思っている人がとても多いですし、うつ病なんかにならなければいいと思っている人もいるし、夫婦関係はいつも良好であるべきだと思っている人もいます。
なんでやねん!
「経験すること」がこの世の楽しみであり、成長の証です。
経験することを自ら否定し批判することがマイナスであって、経験自体にマイナスなどあり得ないのです。
経験はなくなりません。どんなに浄化しようが、過去生を癒そうがなくなりません。
発達障害をどんなに勉強しようとも、子どもはありのまま生きているだけだし
不登校を理解しても、不登校という現実から逃れらません。
できることはただひとつ。
この経験はきっと役に立つ、と信じることだけなんです。
そしてそれは本当に役にたつのです。
役に立たない、ひどい経験だ、という「思い」だけが明日の現実を創るのであって
「これ、どうなるんだろう、何につながるんだろう」とわくわくしていれば、どんな経験も「わくわく」なのです。
わざわざ感動できることを探さなくても、日々奇跡です。
あれがこうつながっていたんだ~と。
何かを探し求めるのは楽しいことですが、その途中で必ず「あなたがこうでこうだからだめなのよ」というダメ出しをする人が現れるでしょう?
そんなこと、言われてもね。
あなたにとって「不登校はマイナス」だと思っているかもしれないけれど、私は子どもの不登校がどうなるか楽しみでしかたないんですよ、という話です。
うつ病で笑えないお母さんがいて、子どもは不幸だと「あなたは」思ってアドバイスしているかもしれないけれど、母親のうつ病で子どもは何かを学んでいるかもしれないし、私自身も無理やり笑うことの弊害のほうが嫌ですから~という感じ。
今起こっていることが「マイナスだから相談している」のではなく、「よりよく生かすにはどうしたらいいか」聞いているだけだったのに、経験自体を否定する人が多かったのも、今思えば「経験を否定してもどうにもならない」と教えてくれていたのかもしれません。
今、身体の調子がいまひとつで、少しだけ鬱っぽいのですが
かつてドカンとうつ病を患っていたせいで、対処法がわかります。
女性として必要な状態が起こっているだけなんですが、もしこれでうつ病を体験していなかったら、この状態はかなり辛いと思います。
子どもは親を選べないし、生まれてくる国も選べません。
だったら、この状況を「悲しむのではなく楽しんでしまう」ことを子どもに教えるしかないのです。
それが親の役目だと私は思います。
悲惨な状況を楽しむのでもなく、「活かす」というのかな。
今の経験はきっと何かの役に立つ、という確信を持って生きていくということ。
その心の持ちようを教えることしかできない。
経済的に恵まれている家と同じように塾へ行かせることもできないし、習い事にも通わせられない。
子どもの性質性格も変わらないから無理やり何かをさせることもできない。
「今起きていること」の楽しさを感じられるかどうかにすべてがかかっているのではないでしょうか。
「お金がないから楽しめない」「子どもの頭がよくないからうまくいかない」「発達障害だから少しでも普通に近づけないとだめ」などという考え方をしている限り、自分も子どももなんだかな~の現実を生きていくことになりはしないでしょうか。
人を変えることはできない、という原則があるにもかかわらず
潜在意識を変えてあげる、だの、「変わりたいと思わせてあげる」だの。
無理だって。
その人に必要なことは、「影響力を行使したい」と思う人がいらんことをしない限りすっと起こるものではないかと思います。「変わろう」「変わりたい」と思う瞬間を自然に起こし、自然に変わっていくその人に寄り添っていくしかできないのであって、「変わろうとしないあんたが悪いのよ」と追い込んで必要のない葛藤を生じさせてどうする?と思うんです。
アルコール依存症の人が自ら「飲んじゃいけない」と思うようにするためには、隣でやんややんやアドバイスしちゃだめ、というのと同じです。
「あなたのここがだめ」ということで「ダメな部分」にしか意識が向かないようにしちゃうんですから。
それはともかく、すべての経験はマイナスにはなりませんので、安心して「ひどいと思われる経験」をしちゃってください。経験そのものを消そうと思わないことです。そこから何を学ぶのかが大切です。それだけです。