山とバイクと時々お遍路

近畿北部、北陸の山(特に白山が好き)歩き。バイクツーリング、自転車で遊んでいます。

川中島合戦 海津城(松代城)

2017年11月13日 | 城郭・城跡
2017年10月29日(日)雨







名称・・・・松代城(まつしろじょう)海津城
所在・・・・〒381-1231 長野県長野市松代町松代
形態・・・・輪郭式平城
築城年・・・永禄3年(1560年)
築城主・・・武田信玄
主な城主・・武田氏、田丸氏、森氏、真田氏
遺構・・・・石垣、土塁、堀
指定文化財・国の史跡
駐車場・・・有り(無料)


読みは「かいづじょう」。山本勘助が築城し、甲州流築城の模範になったといわれる名城。
川中島平全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を巧みに利用した堅固な造りであった。
激戦となった第4回川中島合戦では、信玄がここを基地として出撃する。
永禄3年(1560)ころには完成したと推定され、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によると、謙信との合戦に備えて信玄は築城を急ぎ、山本勘助は80日で普請したという。

太鼓門












南櫓門
















北不明門



























岡澤先生の史跡解説

海津城の名称は、山本勘助の甲州流築城法「甲斐図」に拠り、築城されたところからついたという説もある。明治4年(1871)廃藩置県令で、松代城は翌年廃城となり、本丸・二の丸・三の丸の楼門塀などが取り壊された。真田家の邸宅として取壊しの難を免れた花の丸御殿は、同6年(1873)、不審火により灰燼に帰した。城内の門には、城内入口の南大御門、本丸には太鼓門・東不明門・西不明門・北不明門・土門と呼ばれた通用門などがあった。

小島田町の杉山利治家の表門の屋根屋根瓦は、巴瓦に真田家の家紋「六連銭」がはいっている。間口2.7m・奥行1.8m、杉材で造られている。東側に潜り門があったが、門を修復したときに取り除いてしまったという。当主の話によると松代藩に出仕していた三右衛門が廃城のとき払い下げを受けた門という。

また、稲里町広田の広田砦跡には、同砦の守将であった大日方佐渡守開基の昌龍寺がある。この寺の鐘楼は「四面角塔二層」である。基底部約3.6m四方・2層部約1.8m四方、高さ約15m。1層の隅柱と中柱は手斧削りで、尺角の松材が使われている。この鐘楼は、松代城の隅櫓(すみやぐら)を移築したものと伝えている。兵庫県豊岡市の仙石氏の出石(いずし)城太鼓櫓(重要文化財)や群馬県沼田市の沼田真田氏の沼田城太鼓櫓に、この鐘楼は外形が酷似している。


【岡澤先生のプロフィール】

岡澤由往(おかざわ・よしゆき)

長野郷土史研究会会員。昭和5年(1930)、長野市小島田町生まれ。大東文化学院専門学校(現大東文化大学)本科卒業後、長野県立高等学校各校の教員勤務(国語・社会担当)を経て、長野市誌刊行委員副委員長・編さん専門委員を務める。

教員在職中、古文書の解読を独学で習得。以来、川中島周辺地域の家々に残る貴重な古文書や史料、伝承などの研究を続けており、2006年には川中島古戦場史跡の故事となった『甲越信戦録』現代語訳を上梓。現在農業に従事するかたわら、各地の公民館や学校などで古文書解読・「川中島の戦い」にまつわる講演・講座の講師を多数手がけている。
著書に『もう一つの六文銭』(銀河書房)、『激闘!川中島合戦をたどる』(龍鳳書房)、『戦国哀歌川中島の戦い─甲越信戦録・現代語訳』(龍鳳書房)、監修に『古戦場の村々の記録』(銀河書房)など。


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