「努力は報われる」と口で言うことは簡単ですが、「努力が報われない」ことの方が圧倒的に多いことを私たちは知っています。それがいかに理不尽なことかも。ただ、では「どんな努力をしたのか?」「それは本当に努力といえるのか?」と問われたら即答できない人も少なくないのです。この国では努力が自己満足になっていることが多いからです。
それは「努力は美徳」という考え方が根強くあるからでしょう。本当に努力している人はそれを努力だと感じていない場合がほとんどです。現に堀米選手は「努力」という言葉は使っていません。彼の言葉は「オリンピックでは勝ちにこだわって頑張りたいです」でした。「努力」ではなく「頑張る」なのです。
それは「努力は美徳」という考え方が根強くあるからでしょう。本当に努力している人はそれを努力だと感じていない場合がほとんどです。現に堀米選手は「努力」という言葉は使っていません。彼の言葉は「オリンピックでは勝ちにこだわって頑張りたいです」でした。「努力」ではなく「頑張る」なのです。
若い世代には「努力」は強いられるものというイメージが強いのかもしれません。「頑張る」はあくまでも主観的なものと捉えているようです。本来「努力」は“effort”の事で、外的な誘因よりも意志または意図によって維持される心的,身体的な活動と,その際に生じる主観的な緊張感をさす言葉なのですが…
誰もが堀米雄斗や大谷翔平に成れるわけではあません。そこには「努力」だけでは埋められない「才能」という壁があるからです。「努力が出来る」のもある種の才能なのかもしれないのです。ただ、「才能」を言い訳にしてはいけないと思います。人である以上、出来ることもあれば出来ないこともあるものですが、出来るようになる努力、あるいは出来る事を見つける努力は必要でしょう。
出来ないことを言い訳にするより出来る事を探す、出来る方法を探すことが大切です。頭の良し悪しは才能かもしれませんが、勉強が出来るか出来ないかは努力です。プロ野球の選手になるのは不可能でも東京大学に合格する可能性はゼロではないということです。普通の人がプロのアスリートに成れる可能性は限りなくゼロに近いのですが、一流といわれる大学に合格することは「1%の可能性」はあると私は考えます。問題はその可能性を限りなくゼロに近いと考えるか、ゼロではないと考えるかの違いでしかないと私は思うのです。
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