21世紀 脱原発 市民ウォーク in 滋賀

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福島原発事故から12年:ドイツは全原発停止を実現 ドイツは「脱原発」できたのに、日本はなぜ「脱原発」できないのか

2023-05-10 09:39:36 | 記事
《2023年5月:第112回 脱原発市民ウォーク in 滋賀のご案内》

新緑の季節になりました。
次回の脱原発市民ウォークを5月13日(土)に行います
(午後1時半、JR膳所駅前広場に集合)。


どなたでも自由に自分のスタイルで参加できます。
都合のつく方はぜひ足をお運びください。


■■ 福島原発事故から12年:ドイツは全原発停止を実現
  ドイツは「脱原発」できたのに、日本はなぜ「脱原発」できないのか ■■


2011年3月11日に起きた東京電力福島第一原発の大事故を受けて、ドイツの連立政権は2022年末を目標に脱原発を進めてきましたが、ウクライナ紛争などの影響で若干遅れたものの、去る4月15日、まだ国内で稼働していた3基の原発を停止し、60年続いた原発の歴史に幕を閉じました。欧州では、一方でフランスをはじめとしていくつかの国で原発の新設など依然として原発を推進する国があるものの、オーストリアとイタリアがすでに国民投票により脱原発を決定いるだけではなく、スイスも国民投票で2050年までに脱原発を実現することを決定しており、またスペインが2035年までに全原発を停止することを決めるなど、脱原発の動きが広がりつつあります。

一方、日本では原発の維持・推進を意図して、原発の運転期間の実質的な延長、原発の新増設・建て替え、既存原発の再稼働の促進などを内容とする原発政策の大転換が昨年末の「GX(グリーントランスフォーメーション)実行会議」で決定され、閣議了承を得た後、関連法規法を改正するために今国会で審議されつつあります。すなわち、日本は原発の大事故を経験したにもかかわらず、福島原発事故を受けて脱原発を実現するに至ったドイツとは正反対の方向に向かおうとしています。原発の大事故を経験していないドイツが脱原発を実現させることができたのに、大事故を起こしてしまった日本はなぜ脱原発できないのでしょうか?

なぜ日本は脱原発できないのか、その根本的な原因は一体何なのでしょうか。日本が脱原発できないことの原因、脱原発を妨げている要因を明らかにするために、ドイツにおける脱原発実現に至るまでの過程がどのようなものであったか、そして日本においてどのような時代的背景のもとに原発が導入され、原発推進の末に大事故を起こすに至ったのか、ごく大雑把ですが、日独における原発の歴史を振り返り、原因あるいは要因について若干の個人的な考察を以下に記すことにいたします。

【なぜドイツは「脱原発」できたのか?】

ドイツにおける原発の歴史、脱原発実現に至る過程-福島原発事故以前から脱原発を視野に入れていたドイツ

ドイツが脱原発に至るまでの主な動きは以下のようなものです。

・1979年、環境政党「緑の党」が誕生:環境保護と平和主義を掲げ反核・反原発を政策とするドイツの緑の党(正式名称:同盟90/緑の党)が1979年に誕生。その後、広範な市民運動などを通じて議会における有力な野党に成長し、連立政権を組むに至る
・1986年4月、チェルノブイリ原発事故
・1998年19月、社会民主党と緑の党による連立政権が誕生
・2000年6月、政府と電力業界が原発を段階的に全廃することに合意。原発の稼働期間を最長32年とすることを決定。
・2005年11月、キリスト教民主同盟のメルケル政権が発足
・2010年9月、メルケル政権が脱原発実現の時期を先送り
・2011年6月、メルケル政権は、東電福島第一原発の事故を踏まえ、国内に現存する17基の原発を2022年末までに廃止する方針を決定
・2021年12月、シュルツ政権が発足(社会民主党、緑の党、自由民主党の連立政権)
・2022年2月、ロシアがウクライナ侵攻開始
・2022年10月、稼働中の3基の原発の稼働を2023年4月まで延長することを決定
・2023年4月15日、原発3基の稼働を停止し、脱原発を実現

福島第一原発の大事故が起きた時点ではドイツには17基の原発が設けられていましたが、アンゲラ・メルケルが率いる連立政権は福島原発事故からわずか4日後に「原子力モラトリアム」を発令し、1990年以前に運転が開始されていた7基の原発を直ちに停止させ、この7基とトラブルのため以前から停止していた1基を廃炉とすることに決めるとともに、残りの9基も2022年12月31日までに順次運転を停止することを決定しました。

その後、2021年12月に政権の座についたシュルツ首相が率いる連立政権(社会民主党、緑の党、自由民主党)がメルケル連立政権(メルケル が率いるドイツキリスト教民主同盟 (CDU) 、キリスト教社会同盟 (CSU) とドイツ社会民主党 (SPD)による大連立 政権)の決定を引き継ぎ、去る4月にドイツの脱原発を実現させたのですが、それを可能にしたのは、直接的には、上記のように福島原発事故直後のメルケル首相の決断とその決定が確実に実行に移されていたことによるものです。

福島原発事故以前に将来的な脱原発の素地がつくられていたドイツ:

ドイツにおける脱原発の直接の引き金になったのは福島第一原発の大事故であるのですが、実は福島事故より以前、チェルノブイリ原発事故から14年後の2000年に、すなわち福島原発事故の11年前に、当時の連立政権(1998年に誕生した社会民主党と緑の党による政権:首相は社会民主党のゲアハルト・シュレーダー)が、原発を段階的に全廃することで、すでに電力業界と合意に達していたのです。次いで、シュレーダー政権は2002年6月、原発の稼働年数を32年に限定する「脱原子力法」を施行しました。この法律に基づけば2022年か2023年には原発は皆無になるはずでした(この脱原発への道筋は、上記の年表に示されているように、メルケル政権の下で一時的に足踏み状態に陥ります)。

脱原発への動きにおいて決定的に重要な役割を果たしてきたドイツ「緑の党」を中心にし市民運動:チェルノブイリ原発事故の衝撃

上記のように政権と電力業界が合意に達したことの背景には緑の党の存在がありました。「緑の党」は1979年に環境保護を重視する市民たちにより、反核とともに脱原子力を政策目標の一つに掲げて結成された政党です。環境保護のみを政治テーマとした政党とみられることが多いのですが、これは正確でなく、エコロジーの視点からの産業社会のつくりかえ、社会福祉制度の構築、男女の平等、多文化社会の実現、平和政策など、新しい総合的な社会構想を意識した政策を提案しています。2022年現在、ドイツ連邦議会において118議席を有する3番目に大きい政党になっています。世界の多くの「緑の党」のなかで最も歴史が古く、1983年に議会で初議席を獲得して以来、最も議会政治の場において成功を収めてきました(党結成後、東ドイツの民主化に関わった市民らが結成した「同盟90」と1993年に統合されており、このため正式名称は「同盟90/緑の党」とされています)。

ドイツは環境意識が高い国のひとつであり、このため1970年代から激しい反原発、反核の運動(ドイツにはNATOの核兵器が配備されています)が展開されてきました。その結果、1979年に反原発を掲げた緑の党が結成され、4年後に議会入りを実現。その後、1986年にチェルノブイリ原発で大事故が起き、欧州一円に放射性物質が降下し、ドイツでも農作物や家畜が汚染されるなどドイツの市民に大きな衝撃をもたらし、市民の間で原発への不信感が格段に強まりました。ドイツの緑の党はこのような状況を背景に市民の支持を拡大し、その結果、上記のように1998年に連立政権に加わり、脱原発への道を切り開いていきました。

メルケル首相が福島原発事故を機に脱原発を決断するに至るまでの経過と明確に脱原発を決断するに至った理由

前述のようにメルケルは福島原発事故が起きた直後に2022年末までに全原発の運転を中止し脱原発を実現することを決断したのですが、政界に登場するまでは理論物理学者であり、もともとは原発擁護派とも言うべき存在であったとされています。このため、社会民主党と緑の党による連立政権が2000年6月に電力業界と原発の段階的に全廃することに合意し、原発の稼働期間を最長32年にすることをしたものの、メルケルは政権の座に就くと、2010年10月、原発の稼働年数を平均12年間延長しました。

原発施設に様々な安全確保のための対策講じても完全に除去し切れないリスクは「残余のリスク」と称されていますが(注参照)、メルケルは福島第一原発の事故が起きるまでは、残余のリスクは重大な事故につながらないので受け入れられると考えていました。しかし、福島原発事故による災害の大きさに直面して、残余のリスクがこれまで考えられていたよりも大きなものであり、外部電源が完全に止まり冷却機能が失われれば同様の事故が欧州の原発でおも起こり得ると考えるに至ったとされています。
(上記のメルケルの決断に関する説明は「ドイツはなぜ「脱原発」ができたのか | 時事オピニオン | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス」におけるドイツ在住のジャーナリスト熊谷徹氏の説明によるものです)。
(注:「残余のリスク」は,基準地震動を上回る地震動の影響が施設に及ぶことにより,①施設の重大損傷事象が 発生すること,②大量の放射性物質が放散する事象が発生すること,③それらの結果として周辺公衆に対して放 射線被ばくによる災害を及ぼすことであると定義されています)

脱原発を実現させた現政権のレムケ環境相(緑の党)は去る3月の記者会見で、「原子力は高リスクの技術であり、ドイツのような国でも制御できない」「原発は戦時には標的になる」「戦争状態においてまで防護対策が取られている原発は世界のどこにもない」として、「ドイツ政府が脱原発の決意をしたことは正しかった」と述べています。

【なぜ日本は福島第一原発の大事故を経験しても「脱原発」できないのか?】

以上にドイツがついに去る4月15日に脱原発の実現に至った過程について、その概要を記しましたが、一方日本ではドイツが脱原発を実現した直後の去る4月27日、今後も原発を積極的に推進することを実質的な内容とするいわゆる「束ね法案」(「GX(グリーントランスフォーメーション)脱炭素電源法案」(注参照)が衆議院で可決され、実質的に成立しました。この結果、2011年3月に起きた福島第一原発の大事故を経験しながら、日本は今後、福島原発事故を機に脱原発を2022年末までに実現する方針を打ち出し実現させたドイツとは正反対の方向に向かうことになります。ドイツは脱原発を実現することができたのに、日本はなぜ「脱原発」ができないでしょうか?なぜ、ドイツとは正反対の方向に向かおうとするのでしょうか?日本が脱原発できないことの理由・原因については、様々な歴史的・政治的・社会的あるいは科学技術的要因などが複合的に絡み合っているため一言で明解に説明するのは容易ではないのですが、以下に重要と考えられる理由や原因、要因などについて、私の考えを若干記すことにします。
(注:原発を含む原子力の平和的利用に関する最も重要な法律であり、中曽根康弘・衆議院議員が中心になって作成され1955年に施行・公布された現行の「原子力基本法」の第2条には「原子力開発利用の基本方針:平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする(いわゆる「民主・自主・公開の平和利用3原則」)とのみ規定されているのですが、このたびの改正により、この規定に加えて、「原発活用によって電力安定供給や脱炭素社会を実現することは『国の責務』」ということが明記され、また、原子力事業者は安定的に運営できる事業環境の整備などを行うとする施策方針の規定が設けられおり、このため原子力利用の憲法というべき原子力基本法の性格は大きく変質し、「原発推進基本法」とも言うべき性格のものに転じています)

日本が「脱原発」できないことの要因その1:終始徹底した国家・政府・政治家主導の下で「国策」として強力に推進されてきた日本の原子力発電

はじめに、日本において原子力研究の開始が決定されるまでの過程、初の原発が導入されるに至るまでの経過、原子力規制員会が設置されるに至るまでの過程など、国家的な原発推進の体制が築き上げられるに至るまでの経緯について、その概要を記します。

敗戦後、原子力委員会が設置される以前の、国会レベル、学術会議における原子力に関する動き
・1945年8月6日:広島に原爆投下、次いで9日に長崎に投下
・1952年4月28日:サンフランシスコ講和条約が発効、日本が独立を回復
・1952年10月;日本学術会議総会で、茅誠司と伏見康治が提案した原子力委員会設置の政府への申し入れを審議
・1953年夏:中曽根康弘(当時衆議院議員)が米国における原子力研究の状況を視察
・1953年12月:アイゼンハワー米大統領が核問題を中心にした冷戦下の状況を意識して、国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」と題して演説
・1954年2月:改進党の国会議員が「原子力予算」の提案を申し合わせる
・1954年3月1日:米国がビキニ環礁で行った水爆実験で、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の船員23人が「死の灰」を被爆
・1954年3月2日:自由党、改進党など3党が原子炉築造費2億円余を盛り込んだ予算修正案を提案

原子力委員会が設置され活動を始めるに至るまでの過程
・1954年12月:初の原子力海外視察団が出発
・1955年8月;スイスのジュネーブで第1回原子力平和利用国際会議が開催され、中曽根康弘らが参加
・1955年11月:自由党と日本民主党の保守合同で自由民主党が発足。前月には左右社会党が再統一。いわゆる55年体制が始まる
・1955年12月:日米原子力研究協定発効(この協定に基づいて、後に日本最初の原子炉として日本原子力研究所に二つの研究炉が導入されることになった)
・1956年1月:原子力委員会が発足。初代委員長の正力松太郎(元内務官僚、当時衆議院議員、読売新聞社主)が初会合で「5年以内に実用規模炉設置」を宣言(放言)。委員であった湯川秀樹らが反発
・1957年3月:原子力委員会が海外からの輸入を念頭に早期導入の方針を決定、月末に「海外からの導入ではなく、まず日本での自主的な研究が大切である」とする湯川秀樹が原子力委員を辞任

日本に初の商用原発が導入されるに至るまでの過程
・1956年5月:英国原子力公社産業部長が来日
・原子力委員会代理の石川一郎を代表とする訪英調査団が出発。英国型原子炉(中性子の減速材として水ではなく黒鉛を用いる方式の黒鉛炉:注参照)の導入の可否を調査
・1957年11月:原発を受け入れる日本原子力発電(原電)が発足
・1958年1月:原電社長らによる訪英調査団が出発。2月中旬に英国炉輸入を決定
・その後、1959年に原電が東海原発の設置許可を申請、炉心構造の安全性の問題があると指摘されたため炉心構造の変更を申請。原子力委員会が「安全は確保される」と結論したために同年末に設置許可を正式に決定(しかしこの原子力委員会の結論に抗議して、委員の一人であった名古屋大学の坂田晶一教授が辞任を表明)。
(注:当時、現在では一般的である商用の軽水炉はまだ実用化されておらず、西側諸国で商用の原子力発電に成功していたのは英国の黒鉛型のコールホルダー原発だけでした)

本格的な原発規制機関、原子力規制委員会が設置されるに至るまでの過
・1975年2月:原子力懇話会が発足(1974年9月に日本初の原子力商船「むつ」が試運転中に放射線漏れの事故を起こしたが、当時安全審査を担っていた原子力委員会が沈黙し無力であったため、原子力行政見直しの声が強まり、見直しを実行するために原子力懇話会が設置されるに至りました)。
・1975年10月:第15回会合で座長の有沢広巳が試案を提示。原子力委員会から安全規制部門を独立させた組織をつくることを提案
・1978年10月:内閣府の機関として原子力安全委員会が発足
・1988年7月:日米原子力協定が発効(米国から日本への核燃料の調達や再処理、資機材・技術の導入などに関する協定。協定は更新を経て現在も有効)
・2001年:省庁再編の動きの中で、原発の規制を任務とする原子力安全・保安院が経済産業省資源エネルギー庁の特別機関として設置され、内閣府原子力安全委員会の監視・監督を受けるとされた。しかし、2011年3月に起きた東電福島第一原発の大事故に際して原子直保安院が対処に当たったものの、安全規制の設定の甘さ、事故発生後の見通しと対応の遅れ、危機対処に関する東電への指導力不足が明らかになり、原子力安全委員会と共に国内的にも国際的にも非案を浴びました。
・2011年9月:民主党政権下で、環境省の外局として新たな規制機関「原子力規制員会」が設置される(事務方は原子力規制局)。原発の規制を任務とする原子力安全・保安院が原発推進を方針とする経産省内の設けられていたために原発の規制がまったく不十分なものであったことを反省し、原子力規制委員会は経産省下の組織ではなく環境省の外局として設けられました。
・2012年12月:民主党政権が2030年代に脱原発を実現することや使用済み燃料の再処理中止など一連の原子力政策の大幅な見直しを提言(しかし、2012年12月に自民党が政権に復帰したため、この提案はまったく顧みられませんでした)
・2023年4月:岸田政権が、原子力基本法に原発推進の方針を盛りこむなど、原発推進を内容とする原発政策の大転換を意図する法案を国会に提出

(以上に示した年表の多くの部分は「レベル7:福島原発事故、隠された真実」(東京新聞原発事故取材班:幻冬舎2012年3月)に掲載されていた年表を簡略化し、加筆して記したものです)

日本の原発導入に大きな影響を与えていた冷戦期における米国の政策

以上、戦後日本が原発導入を開始してから現在に至るまでの過程のごく簡単な概要を記しましたが、最初に導入されたのは英国の原子炉であったものの、当初、日本が原発の導入を決めるに至ったことの背景には以下に記すように米国の大きな影響が存在していました。

初の原子力予算が提案される前日の1954年3月3日、南太平洋のビキニ環礁で、広島に投下された原発の千倍もの威力を有する水爆の実験が行われために、米国が指定していた危険水域の外側で操業していた静岡焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被爆しました(無線長の久保山愛吉さんが後に死亡)。乗組員が被爆したことが報じられると、日本国内で反核、反米の感情が一気に高まったのですが、日本のこのような状況に対応し世論を懐柔する手段として米国が考えたのが、二次大戦後の東西冷戦に備えてアイゼンハワー米大統領が提唱していた「原子力の平和利用」すなわち原発であったとされています。その証拠に、たとえば第五福竜丸のことが報道されてまもなく、米国の国防総省の高官が、国家安全保障会議の委員会に、ビキニ水爆のマイナスイメージを払拭するために日本に原子炉を建設することを提案しています。これはビキニの水爆実験が引き起きした混乱が冷戦の相手国ソ連のプロパガンダの利用されることを恐れてのことであり、米国の他の関係者たちも同様の発言をしています。その後、日本の原発導入に関して米国の関係者により様々な働きかけがなされ、たとえば後に原子力委員長代理と東大総長を務める向坊隆が米国大使館に派遣されるなど、米国からの原子力技術に導入に向けて地ならしが行われました。また1955年には、米国は友好国へウラン提供する方針を決定し、日本の外務省に伝えています(以上、原発導入に際しての米国の動きについての説明は前掲書「レベル7:福島原発事故、隠された真実」に基づいたものです)。これらの状況を考えると、日本への原発導入には冷戦下の米国が反共政策の一環として日本への原発導入を利用したという無視することができない側面が存在していたと言うことができます。
以上に述べたように日本の原発導入に米国が大きな影響を及ぼしていたことは確かですが、前述の様々な年表からわかるように、原発導入とその後の日本における原発の推進に決定的な大きな役割を果たしていたのは原子力と関連を有する物理学などの専門家や学者ではなく、中曽根康弘、正力松太央、緒方竹虎などの、政権党であった自民党(当時の改進党や自由党)の有力政治家と官僚でした。彼らといわゆる「原子力村」の面々が、福島原発事故後の現在に至るまで、原発の安全性、原発規制の問題を後回しにして(米国の原子力規制機関NRCが設置されたのは1975年ですが、日本で原発に対してまともな本格的な規制が行われるようになったのは導入から約半世紀を経た2011年、福島原発事故の後からに過ぎません)、終始徹底して国家・政府・政治主導の下で、欠かすことができない最も重要な「国策」のひとつとして金に糸目をつけず強力に推進されてきたことが、日本が「脱原発」できないことの最大の要因ではないでしょうか。

日本が「脱原発」できないことの要因その2:巨大な圧力団体「原子力村」の存在

上記のように日本の原発は国・政府や有力政治家の徹底した主導の下に推進されてきたと言えるのですが、彼らの力だけで推進されてきたわけではありません。政府の原発推進という国策を背後で強力に支えてきたのは、いわゆる「原子力村」の存在です。原子力村は原発を推進することで互いに利益を得てきた政治家、企業、研究者などによる集団です。米国のカリフォルニア州の面積にも満たない狭い日本に50余基もの原発が建設されるまでに至ったのは(広い国土に計100基余の原発を保有する米国の関係者はこの日本の状況を「クレイジー」と評しています)、原子力村の存在抜きでは考えられません。原子力村は政治家、官僚、主要電力会社だけではなく、原子量発電の業界に様々な関係を有している日本の中心的な企業を中心とした財界・産業界、大学などにおける特定の関係者により構成されており、これまで原発推進のために以下に示すような多方面に及ぶ活動を常時展開してきました。

電力会社関係者からの政治家への献金、原子力の有用さを宣伝する新聞広告の大々的な掲載、大学などの原子力技術機関への電力会社からの研究費名目による献金、マスコミ関係者を原発推進を意図した講演会の講師に招き多額の謝礼の支払い、研究者の原発施設などへの見学ツアーへの招待と接待など様々な活動を行っており、また大学では教授を通じて原子力工学を学んだ学生が原子力関係の人材として関連業界に送り込まれています。それだけではなく、関連企業から多額の献金を受けて大学の関係者が国の検査基準を緩めるよう取り計らったりしている例も存在しています。一方、原子力施設の安全に関する技術指針を定めた土木学会の部会の委員の半数が、電力会社関係者で占められているという実態も存在しています。また原発推進のPRを目的にした「原子力文化財団」といった組織も存在しています。このような原発推進のための巨大な圧力団体の存在は、海外では例がないのではないでしょうか。

日本が「脱原発」できないことの要因その3:ドイツの「緑の党」のような、環境重視を掲げた市民運動を基盤とした広範な市民の支持に基づく強力な全国規模の政党を誕生させることができなかった


日本では1960年代前半から反原発の市民運動が始まっており(たとえば1964年の、中部電力の芦原原発計画に対する三重県南島町の漁協による反対運動)、その後も電力会社による原発立地計画に反対する運動が各地で行われており、その中には実際に原発立地を電力会社に断念させることに成功した例がいくつも存在しています。この意味において日本で市民による反原発運動が始められたのはドイツにおいて反原発運動が開始された時期とほぼ同じ時期であったと言えるのですが、その後の運動の広がり方はドイツと日本では大きな違いが存在しています。

ドイツでは1960年代に始まった反原発運動がその後全国的な広がりを持ち、環境主義、反原発を掲げるだけでなく男女平等など広範な社会変革を目指す「緑の党」を誕生させるに至り、議会で連立政権を組むことによりドイツを脱原発へと導く原動力となりました。しかし、日本では1960年代に運動が始まり、各地で個々に運動が行われるようになり、その後徐々に広がりを見せ、市民側に立った信頼のおける組織「原子力資料情報室」が誕生したり、原発の危険性を訴える大学の原子力研究者たちが現れるなど、首都圏や京都・大阪などの都市部で運動が活発になり、東海村の臨界事故(1999年12月)やチェルノブイリ原発事故(1986年)の後には一時的に運動が盛り上がりをみせていたものの、残念なことに、2011年に福島第一原発で大事故が起きるまでは、全国的に連帯した大きな運動へと発展したと言える状況には至りませんでした(2011年9月19日に行われた「さよなら原発集会」には6万人もが参加したとされていますが、福島原発事故が起きた時点では、たとえば滋賀県には反原発の市民グループはひとつしかありませんでした)。このため、ドイツのように環境主義、反原発を中心に据えた議会政党を誕生させるには至っていません。このような社会的状況が日本が「脱原発」できないことの大きな要因の一つになっていると言わざるを得ないのではないでしょうか(日本における反原運動の具体的な歴史については、「はんげんぱつ新聞」の2019年11月7日号に詳細な年表が掲載されていますので、ご覧ください)。

日本が「脱原発」できないことの要因その4:脱原発に向けての方針を展開する機会が何度も存在していたにもかかわらず、電力会社をはじめとした関係者は、これまでに起きたことがある原発の大事故をすべて対岸の火事、他人事としか捉えていなかった。

世界では過去に福島第一原発の事故だけではなく、スリーマイル島原発事故(1979年)やチェルノブイリ原発事故が起きており、またっその他にも秘密にされていて広く知られていないものの深刻な事故がいくつも起きています。また日本では、大事故には至らなかったのですが、2004年8月に美浜原発3号機で定期検査中に破損していた二次冷却水の配管部から突然高温の蒸気が噴出し作業員5人が死亡、6人が負傷するに至るという重大な事故が起きています。本来であれば、このような事故を機会に、原発の安全性について徹底的な見直しを行い、場合のよっては脱原発をも視野に入れて方向転換のための対策を講じるべきであると考えられるのですが、政府や大手電力会社をはじめ原発の関係者は、これらの事故をいずれも他人事としか捉えておらず、このため、既存の原発の安全性に関して真摯な検討はほとんど行われていませんでした。

たとえば、1979年に起こったスリーマイル島原発の事故では、事故以後、米国原子力規制委員会は大幅に規制を強化しており、このため規制側と産業界側の対立傾向が強まったとされていますが、当時、日本の関係者は、日本とは無関係の問題として、日本の原発の安全性に関して、具体的な見直しの作業などはほとんど行っていなかったものと推測されます。また、チェルノブイリ原発事故は欧州諸国を震撼とさせた未曽有の原発史上最大の事故でしたが、当時、日本の関係者の大半は「チェルノブイリ原発は軽水炉である日本の原発とは型式が異なる黒鉛式の原子炉で起きた事故であるから、あのような大事故が日本で起きるとは考えられない」として、対岸の火事としか捉えていませんでした。このため日本の原発に関してその安全性を省みることは一切行っていません。一方、上記の美浜原発の事故(2004年)は、事故が直接の原因となって死者5人、負傷者6人が出たという意味で、これまでに国内で起きたことがなかった重大な事故でしたが、それだけでなく、もし運転中にこの事故が起きていたならば、二次冷却水の漏洩により一次冷却水による冷却能力が低下し、原子炉炉心の冷却が十分に行われない状態に陥りかねないという危険極まりない深刻な事故でした。この事故のために、関電は滋賀支店長の名で県民に向けた謝罪広告は出しましたが、滋賀支店の原子力マネージャーと称する職員は運転中に起きていたならば炉心が危険にさらされかねないという意味で重大な事故であるという私の指摘を頑として認めようとせず、反省の色はまったくありませんでした。

日本が「脱原発」できないことの要因その5:原発マネーがないと財政が成り立たないため、原発や関連施設が設けられている自治体は原発の維持・推進を必要としている。

原発が立地されているのは日本海や太平洋の沿岸に位置している、人口密度の低い経済的に豊かとはいえない地域の小さな自治体が大半です。このため、これらの自治体は原発に関する様々な補助金や交付金をはじめとしたいわゆる「原発マネー」が様々な形で支給されており、このためもともと財政状況が厳しいこれらの自治体はその財政を各種の原発マネーに大きく依存するようになっています。原発マネーとしては電源三法(電源開発促進税、特別会計に基づく法律、発電用施設周辺地域整備法)に基づく補助金・交付金の他に使用済み燃料の中間貯蔵に関する「核燃料税」と称される特別税などが存在しているだけではなく(青森県むつ市:市内に設けられている東電と日本原電の使用済み燃料中間貯蔵施設が対象)、電力会社が原発立地自治体の道路整備や公共施設建設の費用などを負担するといった電力会社による実質的な寄付が行われたりもしています(関電の場合は、匿名で億単位の寄付をしたりしていることも報じられています)。その他、原発建設用地の取得の段階から、様々な形で「原発マネー」が動いています。

原発が存在している限り固定資産税をはじめとした税収や上記のような原発マネーによる収入があるため、立地されている自治体の財政は何とか成り立ちますが、たとえば廃炉になり原発が存在しなくなるとこれらの収入の道は断たれます。このため原発が立地されている自治体はいきおい原発の存続・推進を強く望むことになります。たとえば、昨年8月、岸田首相が次世代原発の建設について検討を行うよう指示した際、「原発銀座」と称されるほど原発が多数存在している福井県の知事は、「ようやく現実的な視座に立って、将来に向けた具体的方策の検討が開始されたことは、大いに歓迎したい」としています(日本経済新聞2022年8月24日)。このような原発が立地されている自治体の姿勢が、日本が脱原発できないことの大きな要因の一つになっているものと考えられます。

日本が「脱原発」できないことの要因その6:ドイツに比べ大幅に遅れている自然エネルギーの導入

脱原発の方針を政治的に決定したとしても、方針を実行に移すための具体的な手段が存在していなければならないことは言うまでもありません。この点に関して、ドイツは脱原発を実際に確実に実現するための手段として、風力発電を中心にした自然エネルギーの大幅な導入を早くから計画し実行に移してきました。このため、自然エネルギーの電力構成に占める割合は、福島原発事故が起きた2011年にはすでに20%にまで達していましたが、2021年には二倍増の41%にまで達しています(太陽光8.4%、風力21.2%など)。最終的には80%が目標とされています。このほど最後の原発の運転が停止されたドイツの都市リンデンの市長は「準備期間はあり十分に備えてきた。原発から新しいエネルギーへの移行は前向きの挑戦だ」と述べています。

一方、日本の場合、太陽光発電はある程度普及しているものの、以下に示すように特に自然エネルギーンの本命である風力発電の利用はドイツに比べて格段に遅れておいます。

第6次エネルギー基本計画(2021年10月策定)における2030年時点の電源構成目標値は、石油・石炭・液化天然ガス=41%、原発=20~22%、自然エネルギー計36~38%(太陽光=14~16%、風力=5%、水力=11%、バイオマス=5%)とされています。

脱炭素化・脱原発を実現するには自然エネルギーの活用しかないことは明らかです。その中でも最も重要なのは風力です。太陽光は用地の確保や環境問題などで日本では限界に近づいており、水力が今後大幅に伸びることは考えられず、バイオマスは2021年の時点ですでに3.2%に達しており将来的に大幅な伸びは期待できないからです。しかし、日本にける風力発電の目標値はドイツに比べて段違いに低いものに留まっています。風力の比率は、ドイツでは2021年の時点ですでに21%に達していますが、日本の場合は2030年の目標値でもわずか5%に過ぎません。

したがって、脱原発問題を科学技術的側面から考えるならば、最近になって本格的な洋上風力発電の大型プロジェクトが秋田、新潟で開始されつつあるものの、よほど本腰で強力に推進する方針を立て迅速に実行に移さない限り、日本が脱原発を実現することは事実上不可能に近いと言わざるを得ません。政府は2040年までに原発45基分に相当する最大4500万キロワットの洋上風力発電を整備することを目標とし、自然エネルギーを主力電源化するとしていますが、この政府の計画は今のところ絵に描いた餅の域を出るものではありません。

以上、日本が「脱原発」できないことの原因・要因について私見を記しましたが、政府は当面、今夏以後に再稼働を促進すること(東北電力女川原発、原電東海第二原発、東電柏崎刈羽原発)に注力するものと考えられます。原発政策の大転換が決定的になったため状況は厳しいのですが、再稼働阻止に向けて、市民の力を結集してがんばりましょう。

2023年5月7日

《脱原発市民ウォーク in 滋賀》呼びかけ人のひとり:池田 進
 大津市木下町17-41 
 TEL:077-522-5415 
 メールアドレス:ssmcatch@nifty.ne.jp

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