宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

肥前の国峰

2015-01-17 | Weblog

江戸時代になり領国支配が徹底しだすと山の信仰にも新たな領域観が生まれます。
中世には行き来が自由であった山稜も国境という見えぬ限りがルートを塞ぎ、
修験道による峰入りのルートも領国に合わせたものに再編され「国峰」と呼ばれます。
脊振山を含む肥前の国峰は、牛尾山を起点に天山、彦岳、脊振山から彼杵半島の
経ヶ岳、多良岳に至るルートが成立しました。


肥前の霊場 牛尾山2

2015-01-12 | Weblog

牛尾神社御由緒記

肥前国小城郡牛尾山鎮座 牛尾神社御由緒略記
御祭神 天之萱根命
 当神社は延暦十五年九月九日大和国吉野の里良厳上人、桓武天皇の勅宣を賜い肥前国(保土)郡実万ヶ里(今に小城郡西郷という。)に下向ありて、山の山頂に若王子大権現を祭り、併せて一院を建て護国神宮寺福長寿院別当坊という、勅に依り日本四別当一に列す、(第一箱根山別当坊、第二熊野山別当坊、第三牛尾山別当坊、第四鞍馬山別当坊)之れなり。
 当山は専ら西海道鎮護の御祈願所として九国安寧の御祈願を掌れり、その後この僻遠の一霊場が如何に朝野の信仰を博し得たかは延久元年八月欽名天皇の御後胤に当たらせられる大覚僧正、花山院第三の宮覚実僧正の御師弟が遥々熊野から降らせ給ふたことや、保元二年花山院家忠公が一時中絶していた別当坊を再興せられて、琳海親王を別当坊の院主に任ぜられたことによって伺はわる。寿永二年夏源頼朝公が神田二十余町を当山へ寄進せられ同日その臣北条、北畠ニ氏が各々願文を奉つたことは東鏡(鎌倉幕府日誌)に明記してある。文冶元年源平合戦の砌参河守範頼九州に渡り参州豊前の敵を征し筑前の敵を伐つに当たり琳海親王は当山衆徒兵三千余騎を以って、熊野山湛僧坊と諜合して豊前日田まで出陣す。平家一族を壇の浦にて殲滅した後天下泰平の御祈願の為に源義経の使者亀井六郎重清を遣はして義経自筆の願文並に、義経、弁慶の腰旗、砂金五百両を当山に奉納ありたり。元亀年中鍋島直茂公、大友宗麟の大軍を川上村今山に於いて夜襲の時別当坊琳信一山の衆徒兵を引具して公の軍に加はり名誉の御勝利ありしを以て、勝茂公代より神領十六石三斗七升御改付ありたり。
 古来国主領主の崇敬極めて厚く、徳川時代に於いては旧佐賀藩主より華表並に社殿の造当修築等奉納のことはすべて藩費により支弁せられたり。
 明治維新に際し神仏習合分離と共に若王子大権現を牛尾神社と改称す。
 明治六年村社に列し、昭和十六年郷社に昇格し現在に至る。
祭日 春祭四月十五日
   例祭十月十五日
   秋祭十二月十七日
宮司 花薗康行

肥前の霊場 牛尾山

2015-01-12 | Weblog

英彦山の全体像を語った最も古い記録に「彦山流記」という書物がある。
その奥書には次のように綴られている。
「建保元年(1213年)癸酉七月八日九州肥前国 小城郡牛尾山神宮寺法印権大僧都谷口坊慶舜」
中世彦山の世界観を語ったのは彦山在住の僧侶ではなく、
肥前小城郡にあった牛尾山の谷口坊の僧侶であった。
佐賀県小城市にある標高80mの牛尾山がその場所にあたる。


低平な佐賀平野から急に立ち上がる丘陵で、
現在では梅林で有名な名所になっている。


丘陵上では弥生土器や石器が散見され、中世末には千葉胤頼の牛ノ尾城があったとされる。


現地には牛尾神社が残されている。

そろそろ難所ヶ瀧も氷曝に!?

2015-01-01 | Weblog

新年明けましておめでとうございます。
今年は年頭から太宰府の平地でも0度となり
午前中からの降雪でうっすら雪景色となりました。
今晩から明後日までの寒波により山中はより寒が締り、
宝満山の登山路の中宮以上の箇所ではアイゼンが必要になりそうです。
登山には十分な装備と余裕のある時間設定でおでかけください。
いよいよ難所ヶ瀧も氷曝になる季節がやってきました。


(2012.2.11記事より)