牛尾神社御由緒記
肥前国小城郡牛尾山鎮座 牛尾神社御由緒略記
御祭神 天之萱根命
当神社は延暦十五年九月九日大和国吉野の里良厳上人、桓武天皇の勅宣を賜い肥前国(保土)郡実万ヶ里(今に小城郡西郷という。)に下向ありて、山の山頂に若王子大権現を祭り、併せて一院を建て護国神宮寺福長寿院別当坊という、勅に依り日本四別当一に列す、(第一箱根山別当坊、第二熊野山別当坊、第三牛尾山別当坊、第四鞍馬山別当坊)之れなり。
当山は専ら西海道鎮護の御祈願所として九国安寧の御祈願を掌れり、その後この僻遠の一霊場が如何に朝野の信仰を博し得たかは延久元年八月欽名天皇の御後胤に当たらせられる大覚僧正、花山院第三の宮覚実僧正の御師弟が遥々熊野から降らせ給ふたことや、保元二年花山院家忠公が一時中絶していた別当坊を再興せられて、琳海親王を別当坊の院主に任ぜられたことによって伺はわる。寿永二年夏源頼朝公が神田二十余町を当山へ寄進せられ同日その臣北条、北畠ニ氏が各々願文を奉つたことは東鏡(鎌倉幕府日誌)に明記してある。文冶元年源平合戦の砌参河守範頼九州に渡り参州豊前の敵を征し筑前の敵を伐つに当たり琳海親王は当山衆徒兵三千余騎を以って、熊野山湛僧坊と諜合して豊前日田まで出陣す。平家一族を壇の浦にて殲滅した後天下泰平の御祈願の為に源義経の使者亀井六郎重清を遣はして義経自筆の願文並に、義経、弁慶の腰旗、砂金五百両を当山に奉納ありたり。元亀年中鍋島直茂公、大友宗麟の大軍を川上村今山に於いて夜襲の時別当坊琳信一山の衆徒兵を引具して公の軍に加はり名誉の御勝利ありしを以て、勝茂公代より神領十六石三斗七升御改付ありたり。
古来国主領主の崇敬極めて厚く、徳川時代に於いては旧佐賀藩主より華表並に社殿の造当修築等奉納のことはすべて藩費により支弁せられたり。
明治維新に際し神仏習合分離と共に若王子大権現を牛尾神社と改称す。
明治六年村社に列し、昭和十六年郷社に昇格し現在に至る。
祭日 春祭四月十五日
例祭十月十五日
秋祭十二月十七日
宮司 花薗康行