宝満の廃仏毀釈は随分徹底的に行はれたものらしい。木像や仏具は火をつけて焼いた。太宰府から石工の谷川藤七といふを伴ひ来り、石に刻した梵字などは鑿を以て削り去らしめた。又五百羅漢の如きは、これを谷底に突き落とし、或いはこれを割りなどした。鏡や金仏はこれを地金で博多の金物師磯野に売つた。下宮の祇園社には火をかけた。これは仏像を安置して居たからであらう。此の如く破壊は完全に行はれたが、しかし破壊を行ふ前に、仏像仏具など寄付者の手に返せるものは返した。たとへは、大般若経は四三島の酒屋の寄付であつたから、其処は帰したといふやうに。
五百羅漢はなるほど首の無いのや、顔面のなくなつたのや、胴が二つに折れたのやが沢山ある。又一の鳥居の傍には一字一石塔もある。これ等は谷川の鑿の見舞を受けて居らぬ。
本稿は木村卯平氏及び大岡重美氏母堂の談話に負ふ所が多い。
※『福岡県史料叢書』第10号「筑前宝満史料」福岡県庁庶務課別室史料編纂所より
(了)
五百羅漢はなるほど首の無いのや、顔面のなくなつたのや、胴が二つに折れたのやが沢山ある。又一の鳥居の傍には一字一石塔もある。これ等は谷川の鑿の見舞を受けて居らぬ。
本稿は木村卯平氏及び大岡重美氏母堂の談話に負ふ所が多い。
※『福岡県史料叢書』第10号「筑前宝満史料」福岡県庁庶務課別室史料編纂所より
(了)