宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

三郡山の初冠雪

2007-12-31 | Weblog


大晦日になりました。
昨日からの雪交じりの時雨が
宝満山とは峰続きの三郡山(935.9m)に
今年の最終日で初冠雪をもたらしました。

宝満の頂(画面奥峰の右側)にまでは及ばなかったようです。
久々に寒い年越しとなっています。
来年は仏頂山奥の宇美町側にある難所ヶ瀧も
凍結して巨大な氷柱になることがあることでしょう。

明日朝の天気予報は早暁から「雪」。
初日の出を山頂から拝するのは
難しいかもしれません。

今年一年皆様方にはお世話になりました。
春先の南谷のフィールドワーク、有智山城の下草刈、
加賀白山登拝、秋の本谷礎石群の清掃、下草刈などなど・・・
ご参加いただきました皆様に感謝しております。

来年も充実した活動が出来ることを祈念いたします。
みなさまにとって良い年でありますよう・・・

(タイトル写真;板付方面より望む三郡山塊)

『都府楼』39号発行記念講演会

2007-12-27 | Weblog
前回ご照会した雑誌の詳細を追記しておきます。
『都府楼』39号の掲載記事は以下の通りです。

「宝満山研究の今昔」小田 富士雄
「大宰府の鎮山 宝満山」森 弘子
「宝満山の自然」冷川 昌彦
「発掘調査から見た宝満山」山村 信榮
「宝満山(複合的遺産)の現状」小西 信二
「宝満山と生きる“山のぬし”谷川寅雄さん」完戸 鷯
ほか

また、この出版に併せて記念の講演会がおこなわれます。

『都府楼』39号発行記念講演会
「大宰府の鎮山 宝満山」
主催;財団法人古都大宰府保存協会(電話092-922-7811)
講師; 森 弘子さん(福岡県文化財保護審議会専門委員、太宰府発見塾塾長)
日時;平成20年2月18日 月曜日 13:30~15:30
場所;太宰府館(宰府3-2-3 天満宮参道脇)3階まほろばホール

雑誌都府楼の「宝満山」特集号

2007-12-25 | Weblog


太宰府の政庁跡にある大宰府展示館に事務局を置く
財団法人古都大宰府保存協会さんが
雑誌『都府楼』の「宝満山」特集号を刊行されました。

感動の一冊です。
なぜかといえば・・・
小田富士雄、森弘子、小西信二お三方の揃い踏みの書物なのです!
それぞれに宝満山の調査研究を長年続けられ
本研究会の例会においてもその一端をご披露いただきましたが
紙上でそろわれたのは初のことです。
本研究会の効用のあらわれでしょうか?
喜ばしいことです。
自然史についてもいつもフィールードワークでご指導いただいている
冷川先生がご寄稿されています。

考古学、民俗学、宗教学、自然史、保存活動・・・
それぞれの分野から経過と現状が語られており
宝満山を知るには必携の書となりそうです。

お客様

2007-12-18 | Weblog


本日は作家の立松和平さんが取材で宝満においでになり
取材にご同行させていただきました。
100の霊山を登る企画で本山が52番目の山だとか・・・
ご自身は男体山が故郷のフィールドなのだそうで
山頂祭祀の点では近しいものがあったのではないでしょうか?
気負いのないスタイルで登拝され
山中で出会った方もしばらくたって
「ああっ、もしかしてっ」と一様に同じ反応でした。

あと3,4年かけてお登りになられるとか。
ご無事と大願成就を祈念いた致します。

ご興味のある方は雑誌「岳人」をご参照あれ。

博多研究会にて

2007-12-11 | Weblog

本日、福岡市博多区冷泉町の
博多遺跡群第172次調査事務所にて
第137回博多研究会がおこなわれました。
ご発表は福岡大学の桃崎祐輔氏で
「福岡平野周辺の中世山岳寺院について
ー糟屋郡・糸島郡の事例を中心としてー」
というテーマでのご発表でした。

時間の都合もあり残念ながら氏がおこなっている
二丈町一貴山での調査の詳細などはふれられませんでしたが
糟屋郡久山町での白山の調査事例などに触れられ
山岳寺院と貿易都市博多の成立背景、
ヒンターランドとしての農耕地の発達、
中国系貿易商の活動拠点としての
山岳信仰地の開発など
広範囲な視点からのアプローチでした。

山岳の寺院が社会的になぜ成立しえたのか
その存立が困難とおもわれる山岳寺院が
なぜ同時期に近い場所で発生するのか
ということに言及され興味深い話題提供でした。

ストーリーが先行して処々の事実認定に異論がありますが
基礎研究をする研究者が少ない分野であり
ぜひ続けていたきたいものです。

ようやく宝満山も考古学分野で比較できる
近くのフィールドが知られつつあります。


第13回例会

2007-12-10 | Weblog
第13回例会
2007年12月8日(土)午後2~5時
於太宰府天満宮崇敬者会館宝満の間

第13回例会はDVD鑑賞と卓話を行いました。
今回のテーマは「六所宝塔院について」

前半は会員の末永様が記録・編集をされたDVDの上映。
まず、2007年10月20日の12回例会「愛嶽山・大南窟・枡形城踏査」。
30名での道行や各所での説明内容が約20分に編集されており、
踏査の様子を鑑賞することができた。
あとは今回のテーマである「本谷礎石群の下草刈」の様子を鑑賞した。
本谷礎石群は2007年4月25日に行った第8回例会で、踏査を。
この時、現地では小西信二、森弘子、小田富士雄のお三方が説明を行っている。
その様子が編集され、例会の時には本谷礎石群の場所が雑木林と化していたことが
DVDに収められていたことで、下草刈以前の様子を伺えた。
続いて、12月1日(土)に行った下草刈の様子が編集されていた。
冷川先生のご指導のもと次々と木々が切り払われ、明るくなった空のもとに
現れた礎石や基壇の様子を鑑賞。
礎石群からは山頂が望め、当時の眺望と立地の良さを改めて、知ることが
できた。

DVD鑑賞後、
本会幹事小西信二氏より本谷礎石群の下草刈を期に、
「六所宝塔院について」と題してお話をいただきました。

本谷礎石群は太宰府市大字内山字本谷に立地。
昭和56年9月に、遺跡分布調査の折に小西氏が発見。
地元の人がこの地で山芋掘りをしていて瓦を見つけているという話を聞いたのが
きっかけであったとのこと。
発見した後、山林所有者に遺跡の説明を行い、同年10月12日付で「遺跡発見届」を
太宰府市教育委員会に提出。
「宝満山の地宝」(大宰府顕彰会 1982年刊)には妙見祠があったことから「妙見祠礎石群」
として報告されている。
礎石群の銘名となっていた妙見祠は現在、本谷池の近くに移されている。
そのため、ここでは字名をとって「本谷礎石群」としている。
礎石群は小西氏の調査により、3間×3間の基壇を伴う礎石建物と考えられる。
南に階段上の入り口が推定される。
この礎石群は下記『岩清水八幡宮文書』に記された宝塔と想定される。

承平七年(937)「大宰府牒」
府牒 筥崎宮 應令造立神宮寺多宝塔壱基事
牒、得千部時僧兼祐申状僞、謹案天台伝教大師去弘仁八年遺記云、
為六道衆生直至仏道発願、於日本国書写六千部法華経、建立六箇基宝塔、
一一塔上層安置千部経王、下壇令修法花三昧、其安置建立之処、叡山東西塔、
上野下野国、筑前竈門山、豊前宇佐宮弥勒寺者、而大師在世及滅後僅所成五処塔成、
就中竈門山分塔、沙弥證覚在俗之日、以去承平三年建立成。・・・後略

弘仁八年(817)に伝教大師最澄によって発願された六所宝塔院のひとつである
筑前竈門山の宝塔が承平三年(933)に沙弥證覚により建立されたことを示す貴重な資料がある。
宝塔は二階建てになっており、上層に千部の法華経を修め、下壇では法花三昧行
つまり法華経を唱えるための施設である。
竈門山に建立された宝塔の位置については、
当初は内山地区周辺、さらには下宮礎石群が宝塔ではないかという説もあった。

現存する多宝塔の図面を見ると、構造として塔でありながら心礎がない。
建物構造としては二階建ての建物で、上層に経を納め、下壇で行を行う。
このため、下壇に柱が貫いている構造では祭壇を設置する空間の邪魔になるため、
柱は梁の上にのっかっている構造になっているようだ。
基礎部分は基壇が設けられ、3間×3間の礎石建物となっている。

本谷礎石群も階段を備えた基壇と3間×3間の礎石群が確認されている。
このことから、ここが筑前竈門山の宝塔の可能性が高いと考えられている。
この場所は太宰府市教育委員会による確認調査を行う予定となっており、
今後の調査成果に期待が寄せられる。

同日夕刻に二日市において
12名のご参加を得て忘年懇親会がおこなわれました。


本年も多くの方にご参加いただき
ありがとうございました。

※ 次回例会は2月の予定です。

第13回例会のCTV放映

2007-12-09 | Weblog
昨日太宰府天満宮文華殿2階の宝満の間にて
第13回の例会がおこなわれました。
詳細は追ってご報告いたします。

この模様がケーブルステーション福岡
(福岡筑紫・粕屋地区の一部配信)にて
午前3,7,11時代、午後3,7,11時代に「Qテレタイム」の中で
ヘビーローテーションで放映されています。
(番組表 http://www.csf.ne.jp/%7Ehousou/2007-12.pdf)

可能な方はご参照下さい。

事務局

高野山の多宝塔2(金輪塔)

2007-12-08 | Weblog

高野山金輪塔(創建平安後期、1834年再建)

宝満山の本谷礎石群の関連で高野山繋がりの画像をひとつ。
高野山の復興に力を尽くした明算上人の御廟所である「金輪塔」。
金輪仏頂尊を安置する為、金輪塔と呼ばれているらしい。
平安後期創建(1046~1108年)で江戸天保5(1834)年再建のもの。
身舎は3間四方で一辺の規模は825cmという。

老朽化が進み多少傷みが見られる。

今日の午後は例会と懇親忘年会がおこなわれます。
ご参加をお待ちいたしております。

事務局

本谷礎石群の宝塔跡

2007-12-06 | Weblog

高野山金剛三昧院の多宝塔 承応2(1223)年建立

次回の例会は今週土曜日の12月8日におこないます。
また、夕刻18:00から二日市温泉の「こまつ千寿」にて
懇親忘年会をおこないます。
多くのかたのご参加をお待ちしております。

例会は「最澄遺記の六所宝塔院」と題して
事務局より発表をおこなう予定です。
先に下草刈の作業をした「本谷礎石群」は
まさにその六所宝塔のうちの「安西塔」に擬される遺跡です。
事前の調査では3間四方の礎石の配置が予測され
柱間は240+300+240cmの一辺780cmの規模に想定されます。
心礎があるとの意見もありますが
中心部分には石祠の基礎(動かした転用礎石か)があり
存否は不明な状況です。

上の写真は高野山金剛三昧院の北条政子が発願という
現存する多宝塔の遠景です。
国内でも残されたものとしては滋賀の大津石山寺に次ぐ
最古級のものとされているようです。
外側の縁の規模で一辺約800cm、身舎は宝満と同じく
3間四方でその規模は約600cmです。
もし、宝満の礎石が宝塔であり
形状が多宝塔であれば心礎は必要なく
その大きさはこの写真よりも
若干大きな形状をしていたものと思われます。

基壇のある場所は「妙見原(みょうけんばる)」という
奈良時代からの祭祀土器が散布する
山内の祭祀場の一つであった平地から
(現在は近代につくられたため池「南谷池」になっている)
南側に見上げた丘の上に位置します。

つづく

本谷礎石群の作業報告

2007-12-02 | Weblog

本日、太宰府市大字内山字本谷(もとだに)の礎石群の山林にて
地権者の方のご承諾を受けて、
会員12名による下草刈、雑木の間引き作業をおこないました。
伐採作業にかかるまえに元大濠高校生物教諭の冷川先生より
環境を考慮して伐って良い木、伐らない木のご説明をいただき
4名で作業開始しました。
お昼過ぎ頃には太宰府発見塾が引けた会員さんが合流し
件の人数になり・・・


伐採後に山頂が見えて感激する一同。
遺跡の立地もよく考えられる条件となりました。
宝塔院についての詳細は来週8日の例会で
史料を交えながら解説の予定です。

もとは赤松が点々と自生する2次林でしたが、
ここ20年で落葉広葉樹や常緑広葉樹がはびこり、
赤松はことごとく根腐れして倒壊しかかっていました。
それだけ環境の変化が著しいことを示しています。
「遺跡のためにはもとの管理された赤松林の里山に戻そう!」
とのご提案がありました。
ボランティア組織の育成が本会でできればよいのですが。

今日おいでいただだきました皆様方に感謝いたします。

事務局

※ 次回例会は12/8日土曜日 14:00~ 太宰府天満宮文華殿2階 天拝の間にて
  テーマは「太宰府宝塔院について」。夕方18:00からは二日市「こまつ千寿」 にて
  忘年懇親会です(会費3,500円予定)。ご参加をお待ちしております。