宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

宝満山採燈護摩供4

2008-05-28 | Weblog

破壇
まだ、炎が燃え盛る壇を解体して
壇の組み木であった杉の丸太を
幅1.4mほどの平行に並べて、
その間に燃えた護摩木のオキを
鉄の熊手などで広げて道をつくります。
炎が立ち上るところは丹念に長細い竹ざおで
叩きながら火を散らせたり落ち着かせたりします。
やはり壇のあった場所は地面が熱いようです。


火生三昧法
正面をよけて道の三方向に桧の枝葉で床が設けられ
それぞれに行者が着座して火生三昧法がおこなわれます。
方位に対する加持のようです。


山伏の火渡り
まずは行者が「エイ、エイ、エイ」の気合とともに
まだオキの燻る道を大きな動作で渡ります。



信者の火渡り
そうしていよいよ参列者の番。
みなさん無病息災を念じながら足早に・・・
幼子が行者に抱かれて渡る光景も見られます。
相当の数の人が列を成して順番待ちをしています。
今年も大盛況です。


終焉

この日の午前10時半頃から始まった行事も
信者の火渡りで大団円となり、
午後2時過ぎには終焉を迎えました。
これで今年の峰入りから採燈護摩供、火生三昧までの
一連の行事が滞りなく終わり、
太宰府にもいよいよ梅雨の季節が訪れます。

宝満山採燈護摩供3

2008-05-27 | Weblog

乳木の加持
長さ一尺の角柱状の乳木(にゅうもく)を
導師(採燈師)が宝剣で刻む所作をして加持し、
三本を続けて燃え盛る護摩壇に投入します。
そうしていよいよ護摩祈祷が始まります。



護摩木の投入
信者や参列者がさまざまな願文を書き込んだ
数多くの添護摩木を山伏たちが次々と読み上げて宝剣で加持し
護摩壇を取り囲んで四方から次々と炎の中へ投入します。
それ以外に、火渡りのオキにするために
不動明王の真言で加持された杉板の束も投入されています。


願文のある護摩木(乳木)の投入


燃え盛る護摩木


破壇の作法

願文のある添護摩木の投入が終わって
炎が落ち着きを見せる頃、
導師が立ち上がって護摩壇の前に立つと
除魔の法螺が鳴らされ、導師は「本覚讃」をとなえ
壇を解く破壇の作法がおこなわれて
組んであった護摩壇が解体されます。

つづく・・・


宝満山大護摩供2

2008-05-26 | Weblog

導師(採燈師)の護摩祈祷
護摩壇に点火されて煙が上がりだす頃
導師は印を結び護摩の作法をおこないます。


般若心経の読経
護摩壇の前に並んだ式衆は一斉に般若心経を
高らかに読経し始めます。


火天段
煙が龍の様に天に昇る様が現出します。
導師は各段に諸尊を招請します。


本尊段
護摩壇から煙と炎が立ち上り始めます。
その間に導師は檜扇で扇ぐ所作をおこないます。


諸尊段
壇から火の鳥が立ち上ります。
導師は散丈と呼ばれる二股の樫の長い杖で
護摩壇の上を右に左に加持します。

つづく・・・

宝満山大護摩供

2008-05-25 | Weblog
今日、宝満山の竈門神社社殿前において、
宝満山修験会による採燈護摩供がおこなわれました。


昭和57(1982)年に再興されて以来の
太宰府を代表する恒例の年中行事となっています。
今日はさすがに駐車場もいっぱいです。
10:30ころから行者を先頭に稚児行列が
内山の集落を廻っている間に、

竈門神社本殿では護摩供催行の
奉告祭が神式でおこなわれ、
神前で筑前琵琶奏者の中村旭園さんによる
「竈門山」が厳かに奏でられました。

その後、山伏一行が結界を切っての入場があり、


護摩壇の正面にしつらえられた座に
大先達と先達が着座して

神職から「忌み火」が山伏に渡されて
正面の祭壇の蝋燭にその火が移され場が整います。


その後に、旅の山伏一行が
入場をもとめて来訪し、

結界の付近で入壇の問答が
声高らかに繰り広げられます。
(入峰の際の問答の台詞とほぼ同じですが、
異なる点としては当山側の質問の中に
「護摩の儀」を問う場面が入れられています。)

つづく

妙香庵の落慶法要

2008-05-25 | Weblog


太宰府市の内山、
宝満山の上り口の左手に
天台宗妙香庵さんが新たに坊院をお建てになり
今日はその落慶法要が執り行われ
多くの門徒さんが参列されておられました。
ご本山の座主をお迎えしての式とか。



妙香庵さんは昭和62年に同じ内山に
高さ5.8mの入唐を祈念する若き最澄さんの像をお建てになり、
その意思を後世に伝える寺院として
また、信仰の山を形で表すランドマークの寺として
知られているところです。
ここもまた人が集うあらたな
宝満山の拠点になることでしょう。

かつてここにあった「有智山寺」は
中世においては九州を代表する
天台系の山岳寺院であり、
その縁が現代に繋がっている、
というところでしょうか。

宝満山の江戸時代の禄高

2008-05-17 | Weblog
明治における宝満修験の解体を語る前に
多少、整理しておくべき、と思うことを少々。
江戸時代の宝満山伏の経済環境について。

山は基本的には筑前黒田藩の 支配下にあり、
そこに住まう山伏たちは充、不十分は別として
禄(扶持)を藩から受けていました。
その経過を黒田藩の分限帳から拾ってみましょう。

『元和九年知行高帳』
「一 弐重五石 三笠郡 宝満山」

『寛永知行役帳』
「 同(知行高)弐十五石
 一同(役高)弐分五厘 寶満山」

『文化十四年分限帳』
「一 五十石 竈門神社
       楞迦院」

※楞迦院は江戸時代宝満二十五坊の座主

『慶応分限帳』
「○ 五十石 竈門神社 御笠郡
    長政公より元和四年二月二五日弐拾五石御寄付
    綱政公より元禄九年正月弐拾五石加増

       天台宗 楞伽院」

 これによって江戸時代は前期には25石、中期以降は
50石が黒田藩から宝満二十五坊の楞迦院を窓口として
支給されていたことが分かります。

宝満山近世坊跡(西院谷)の石垣

宝満修験の解体

2008-05-16 | Weblog
 明治新政府は維新後直ちに神仏判然令(神仏分離令)を明治元年までに太政官布告により発布し、その影響は直ちに全国の宗教界に波及しました。
 宝満山では二十五坊あった修験者組織の構成員の大半は、明治3年の段階では竈門神社に奉仕する神職となったようです。
 追い討ちをかけるように明治5年9月にだされた修験道廃止令によって、多くの山伏たちが宝満山からの離山を余儀なくされ、近郷や博多周辺の都市域や周辺集落に居を移したようです。
 二十五坊の内の有力な坊は筑紫野市側の東院谷に寄っていたこともあり、その山裾の集落で、現在の筑紫野市大石では明治初年頃には富倉坊(富永)、新坊(井上)、歓明坊(柴田)、尾崎坊(長谷尾)、道場坊(原田)、仲谷坊(仲谷)、修蔵坊(佐々木)、岩本坊(緒方)、東院坊(高木)、南之坊(橋)などが居住していたとされています。
 しかし、富倉坊の末裔を残して他はその後早くに退転して、宝満修験の伝承や遺産も散逸してしまったようです。


参考文献;『筑紫野市史民俗編』1999筑紫野市

※ 今日5月16日の読売新聞夕刊5面に宝満34次調査の関連記事が掲載されています。(「遺跡そこでその時 その5 933年筑前宝塔院建立」 池田和正記者)

宝満山の入峰(平成20年編2)

2008-05-12 | Weblog

峰入登拝の道中1 10:30
法螺の合図にはさまざまな意味があるそうです。
先頭やシンガリの位置や場所を確かめたり、
その合図に答えたり。
本州の峯中では熊除けにも・・・


中宮での読経(般若心経) 11:20
宝満山の本地仏である十一面観音の石像が
中宮の大講堂跡にある石祠に祭られており、
その前に勢ぞろいした一行が力強く読経。


峰入登拝の道中2(笈) 11:30


峰入登拝の道中3(山伏につづく参加者)


山上座主坊跡での解説(永福院さん) 12:50
紫の房が先達の印。


仏頂山の心蓮祠


仏頂山心蓮祠報告祈祷 13:20
宝満山開基の伝説の人心蓮上人を祭る。
この頂は宝満山頂829.6mより高く標高868.7m。
またの名を「元宝満」。


鎖場登坂1 13:50


鎖場登坂2


宝満山頂に至る 13:55


山頂祈祷1 14:00


山頂祈祷2 14:10(解散)

この山頂での解散の後、
今回初めて宝満山での入峰に参加した
「新客」3名に対しての
「入峰灌頂」が一の鳥居上手の水場で
厳かにおこなわれました。
希望の参加者も灌頂に預かることが出来たようです。
(大先達は本行院さんか)


参加者に配られた「入峰証」札。
山頂で竈門神社神職が配られた引換証を
下山して社務所で頂けるものです。

入峰の際に札所などに奉納された
「碑伝(ひで)」の形状を模して
つくられているところが心憎いのです。


宝満山の入峰(平成20年編1)

2008-05-11 | Weblog
今年も宝満山修験会の皆様による
宝満山での入峰(にゅうぶ)が本日おこなわれ、
一般の随伴者約60名を含む約80名が
宝満山に登拝しました。


竈門神社下宮での入山祈祷 9:00


入山前の諸注意(隊列前後の股木の作り出す
結界の間で登拝するよう、との説明が)


一の鳥居での入峰儀礼1(入山の問答;先達側 寶照院さん) 9:50


一の鳥居での入峰儀礼2(入山の問答;新客側)

新客;「案内申(あないもーう)、案内申」
先達;「承け給う、承け給う」
   「して旅の行者何れの修行に候や?」
新客;「筑前の国は糟屋郷の修験者にて候」
先達;「今日、此処に来山の義は?」・・・・
   (中略)
新客;「宝満山修験の起源はいかに?」
先達;「抑々開祖心蓮上人が、白鳳二年
 主神玉依姫、即ち金剛宝満菩薩、
 本地十一面観世音のご降臨をご感得せられ、
 宝満山をご開山されたることに始まり、
 その後、文武天皇の御代、高祖役行者
 神変大菩薩、当山にてご修行なさい給い、
 ここに宝満山を金剛界とする。
  扶桑六十余州の本山派国峯修験
 根本道場として、名僧知識陸続として入峰修行し、
 その芳躅を慕い獅子流今日の隆盛を
 見るに至ったものと心得て候」・・・


一の鳥居での入峰儀礼3(入山の問答錫丈の義;新客側)

先達;「手に載せる錫丈はいかに?」
新客;「音声により三界六道の受苦衆生の
 迷夢を驚覚する、衆生覚道の知丈なり。
 これに三種あり。
 一つには声聞杖にしてその四環は四蹄を表す。
 二つには縁覚その十二環は十二因縁を表し、
 三つには菩薩丈。その六環は六度を表すなり!」・・・
   (中略)
先達;「先ほどよりのお答え
 いちいち疑いなし!
 然らば、お通りそうらえ!」
新客;「心得て有り難く、入峰仕る!」


一の鳥居での入峰儀礼4(法弓の義)


一の鳥居での入峰儀礼5(法剣の義)


一の鳥居での入峰儀礼6(法螺の義)

※1 先達の博多冷泉町寶照院(ほうしょういん)さんの関連記事
http://kyushu.yomiuri.co.jp/hakatahatu/surp/0307/su_307_03073101.htm

※2なお、メディア関係では今日は西日本新聞さんが取材されていました。
また、日テレ「鉄腕ダッシュ」という番組が、
宝満山での「覗き行」の体験取材をおこなったそうで、
来週18日に放映があるようです・・・(未確認情報ですが・・・)

宝満山の峰入り行

2008-05-08 | Weblog
修験道の世界では多くは春秋におこなわれる
峰入りの行こそが道を究める重要行事であり、
信者とのつながりを意識した布教のための
旅の行でもあったようです。

もともと天台宗の中には寺が管理する
山中を中心とした山岳エリアを
行場を辿りながらおこなう回峰行が存在し、
このような密教行事が下敷きとなって
修験道でも祈祷するポイントが定められた
峯をめぐる行が成立していたようです。

宝満山では江戸時代まで「春峰」として
宝満→三郡縦走→久山→犬鳴→
鞍手→吉富→宗像→孔大寺山→
鐘崎織幡宮→新宮→香椎宮→筥崎宮
→博多→福岡城→高宮宮→春日神社
→武蔵寺→五条峰薬師→天満宮→宝満山
(詳細略す)
というルートを約20日間掛けて歩き通す
峰入り行がおこなわれていました。

明治時代になって以降は神仏分離令、
修験道廃止令の施行に伴い
山中から行者達は立ち退きを余儀なくされ
行事も徐々におこなわれなくなりました。

昭和57年の宝満山開祖とされる心蓮上人の
1300年祭を期して山伏の末孫の方々や、
宝満山を修行の場とする方々などによって
宝満山修験会が結成され、
現在では毎年5月の第2日曜日に
市民と一緒に入山する峰入り行が続けられています。

今年の実施は平成20年5月11日(日)午前9時からで
コースは竈門神社→一の鳥居(入峰作法)
→中宮→女道→キャンプセンター(昼食)
→元宝満心蓮上人祠→上宮(解散)となっているようです。

宝満山での峰入りの歴史と概要は
こちら永福院さんの紹介されるHPがお勧めのようです。

http://www1.odn.ne.jp/~cee58490/homan.htm