宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

白山登拝記録抄付録

2007-08-31 | Weblog
白山登拝記録抄付録
(勝山平泉寺跡)

2007年7月31日

白山登拝が終了し一行は帰路には
白峰から福井県勝山市に抜け
北陸自動車道に至るルートを辿った。

勝山ではせがんで寄り道をしていただき
現白山神社、かつての平泉寺跡に参拝した。

この平泉寺はかつては越前馬場の名称で
越前側から白山に登拝する禅定道の起点になった寺院であり
白山中宮を併せ持つ一大宗教施設であった。


白山を開いた泰澄の供養塔も参道に見られる。
中世に於いては「南谷三千六百坊、北谷二千四百坊」を描く
境内図が残されており、遺跡として
東西1.2km、南北1kmの規模を誇るという。
まさに越前の冨が集積された場であったことがわかる。


一般道から折れ参道に入ると
永遠続く杉の巨木の並木に導かれ
真夏の静寂な中にそれは鎮座していた。
石畳、苔むした参道際、石組みの水路、杉の古木の並木。
一切、観光のために媚びた演出のない境内。
白山の信仰拠点にふさわしい気品のある神社。
信仰の原点を思い起こさせてくれるような体験。
聞けば境内の維持管理は地元住民の方々でまかなわれているとか。
苔の絨毯は見事としか言いようのない見事さである。


二の鳥居のさらに見上げた奥に拝殿
さらに登ったところに本殿があった。



拝殿には今も「中宮平泉寺」の懸額が掛けられていた。
廃仏毀釈の際にははずされたであろうものが
こうして掲げられていることは
全国の神社の中でも稀なことではなかろうか。
中世の思いがちゃんと残されている証拠である。


参道東の集落を覗くと
礫で区画された街路が今でも機能しており
発掘で発見された16世紀の坊院の区画が
現在に生きているような印象であった。

ここがあの白山信仰を支えていた一つの拠点であったところだ。



宝満山中で越州窯系青磁椀出土

2007-08-29 | Weblog
2007年8月28日の西日本日本新聞朝刊に
宝満山山頂付近の祭祀遺跡から
9世紀の越州窯系青磁椀が出土した、
と報じられました。

出土したものは椀の底に近い破片で
ややオリーブ色がかった緑色の釉薬が掛けられ
内面の底に近い部分には
三つの白い目跡(重ね焼きの白土の塊)があります。

採取したのは当研究会のメンバーで
遺物について福岡大学名誉教授の小田富士雄先生は
「今回の発見は宝満山の山岳信仰と大陸との
つながりを考察する手がかりとなる。」とコメントしておられます。

この時期の越州窯系青磁椀の出土は
過去に出土した遺物との組み合わせから
山頂周辺でおこなわれた祭祀に
当時の役所的な背景が強く読み取られ、
過去に指摘されている、ここでの祭祀が
遣唐使の入唐や帰朝などの国家的外交交渉の
行事に係わった可能性のある重要行事であったことが
補強されるような意味のあることといえます。

ちょうどこの時期以降は
宗像の沖ノ島でおこなわれていた
祭祀が国家的なあり方から
在地的な祭祀に移行する様相で、
国家規模の国境祭祀が宗像から
大宰府宝満山に移行していった可能性を
指摘することができます。

とりもなおさず今回の発見は
宝満山の歴史的な価値を更に高めたことは
間違いないといえるでしょう。

次回例会での報告が楽しみです。



例会記事に画像を付けました

2007-08-25 | Weblog
今月8月19日と20日にUPした
第11回例会の伊藤博紀様ご発表
「宝満山護持と登山形態の変遷」の記事に
あらたに事務局が参考画像をつけておりますので
ご参照ください。


また、山でのトイレの問題に関する記事が
8月24日朝刊の朝日新聞に掲載されています。

また、6月17日に太宰府で開催された
「山のトイレを考える福岡2007」の報告書も
実行委員会の事務局である九州登山情報センター
(太宰府市内山)から刊行されたようです。

ご興味のある方はご参照ください。

白山登拝記録13

2007-08-22 | Weblog
白山登拝記録13
(下山)

2007年7月31日

6:35 
   室堂社務所の宿泊所に御礼の挨拶をし
   いよいよ離山する。
   たからかにほら貝の音が山に響き渡る。
   社務所神官さんのご配慮。
   神仏習合の霊場であった名残のよう。
   修験道の峰入りの出立の雰囲気となる。
   奥宮の鳥居を抜け、脱帽し、改めて一礼。
   白雲の山の懐に招かれ、快晴の中に送りだされる。
   
   

6:45 五葉坂の頭で集合写真を撮り、いよいよ下山開始。
   空は抜けるように晴れ渡り
   日差しがなにかしら新鮮さを帯びて力強い。
   北陸地方にようやく梅雨明けが宣言されたらしい。


   
   ガスも無く、行きとはまるで別の景観。
   別山の先に広がる雲海。
   自分達が雲海の上の別世界に居たことを知る。

   気高い山頂を見上げる。
   
6:52 弥陀ヶ原木道を歩く。

6:57 黒ボコ岩を通過。


7:37 南竜との分岐点に至る。
   体力の差がじだいに顕著になる。
   元気な先頭は見えない。
   気になる2番手は少しご高齢の先輩と
   診療所から奇跡の復帰を果たした2名。
   ゆっくりながら、確実に歩みを進める。
   


   ここで無理をして足を痛めれば
   若手が背負って降りるしかない。
   ガレ場の下り道から見上げれば
   眩しい青空を背景に別山がくっきりと見える。
   別山と白山の渓谷のコントラストと、自分たちの存在。
   白山での充足感と下り道に軋む両足、下山の一歩一歩が惜しい。
   ニッコウキスゲ、クルマユリなどお花畑ともお別れ。

7:50 甚之助小屋に至る。
   ここでやっと朝食を摂る。
   全員が元気。なんともありがたいこと。


   室堂ではパンパンに膨れていた
   補助食品のパッケージも元通り。
   それだけ降下したんだと再認識。

8:18 甚之助小屋を出る。
   

8:55 別当覗きで小休止。
   見上げた向こうの尾根を縦走する
   観光新道にも下山者の隊列が見える。

9:35 中飯場に至る。
   全員疲労のピークか。
   しかし、息はそろっている。
   すぐ近くを工事用道路が通っている。
   重機の音に下界に下りてきたことを認識する。
   「あともう少し・・・。」


10:30 つり橋を渡り、別当出合の鳥居に至る。
    もう大丈夫。


10:40 別当出合駐車場に至る。
    12名全員、事故や怪我もなく無事に下山。
    山に感謝する。

   これで白山登拝のすべてが終了した。
   

白山登拝記録12

2007-08-21 | Weblog
白山登拝記録12
(御前峰でのご来光)

2007年7月31日

3:30 室堂社務所の宿泊所
    床の中だが大半は目覚めている。
    山頂でのご来光を拝んでの日供祭の
    実施を告げる太鼓が鳴らされるはずの時間。
    だが鳴らない。
    夜間は月光が煌々と照る時間もあったが
    雲の流れが速い。
    廊下越しで聞こえる社務所神官さん方の
    慌ただしい音。やはりだめか・・・

3:40 ドドーン ドロロロロ!ドドドン
   ちょっと調子をはずした太鼓の音が室堂に響き渡る。
   10分ほど迷われた末のご決断であったと思われる。
   なんにしてもありがたいことであった。
   間髪入れずに二度目の太鼓。今度は快調。
   部屋の明かりが灯る。実施決定の瞬間。
   7名が登拝の準備をはじめる。
   外はまだ漆黒の闇。

3:50 下山の心配もありググッとこらえて皆様をお見送り。
   診療所に行った仲間も気になるところ。


4:00 福井県警の警察学校の若手や永平寺の若手修行僧
   色々な団体や個人が次々と登拝道を列になって登ってゆく。
   手にした懐中電灯が昇竜のように見える。


4:20 闇が白み始める。室堂でも風があり寒さで立っていられない。
   山頂を見上げた眼がすぐ潤み注視できない。
   センターのロビーにもぐりこむ。
   ドアのガラス越しに見える登拝の列が
   じょじょに山頂に近づく。


4:31 一行が山頂奥宮に無事到着。最後尾はまだ8合目辺り。
   恐らく奥宮周辺は大変な人だかりであろう。


4:40 曙光が射した瞬間。右手にはるか槍ヶ岳。
   山頂では万歳の声か。
   室堂にも朝焼けが訪れる。

5:05 山頂での日供祭。一行が参列。



6:00 一行が下山。社務所に戻る。至福の顔。
   ご加護を得た、という晴れやかな顔。
   
   いよいよ下山の時が迫る。

(つづく) 

白山登拝記録11

2007-08-20 | Weblog
白山登拝記録11
(白山室堂センター)

7月30日(月)
14:30 
夕食チケットの買出しに室堂センターへ出かける。
受付は登山を終えた人々が押し寄せていてた。
チケットを受け取るのに一苦労する。
出かけたついでに、暖かいコーヒーを一杯。
ゴミ削減のため、マイカップ持参はお約束。



室堂センターでは毎日700名を超える登山者に見事に管理されたトイレ
や柔らかい毛布と暖かいご飯を提供してくれる。
食堂に売店、郵便局、診療所と設備は充実している。
現在の室堂センターは平成14年にリニューアルオープンされ、
運営管理は白山比神社内にある財団法人白山観光協会が行っている。
(参照 http://www.kagahakusan.jp/)
法人化される以前は白山比神社の神官、舞女さま達が、ご奉仕という形
で室堂の管理運営を行っていた。
現在の室堂は開山神事から始まり、毎朝の日供祭と神域として護られてきた
白山奥宮の歴史とその存在なしにはありえない。



(白山診療班)
16:00
外は相変わらず、ガスっていて寒さが増してきた。
白山は夜になると5度くらいまで気温が下がる。
奥宮に戻ると、みんなは体を休めながら談笑をしていた。
さっきまで指先だけに感じていた寒気が両腕全体に広がっている。
再びストーブの前で温めてみたが、治まらず、背中に鈍痛が走る。
「これはちょっとまずいなぁ。貧血かな。」
携帯用カイロを使い、さらに体を温める。

17:00
冷え切った体に待望の夕食。


寒さのせいで、少し気分が悪かったが、無理やりでも食べきった。
「これを食べとかないと、きっと明日下山できない。」

18:00
別山に行っていたメンバー2名が無事帰還。
夕食チケットを手渡したが、顔面蒼白の様子に、疲れ切っている2名から心配される。
一人早めに床についたが、寒気は取れずどんどん気分が悪くなる。

18:30


ガスが晴れ、雲海に写る美しい夕日が白山の麓に広がる。


一方、悪寒で起き上がれなくなってきた。
様子を見かねたメンバー達によって、ついに室堂センターの診療所
に連れ出されることになってしまった。
白山奥宮から急患が診察に行くという連絡が室堂センターに入る。
室堂センターの方に診療所へ案内される。
診療所では金沢大学医学部学生の羽場さん(6年生)と藤田さん(3年生)
の診察を受ける。
問診の後、脈拍と酸素飽和度を測られ、高山病でないことが判明。
熱を測ると37.5度。
山に来てからの睡眠不足と体が冷えたことによる
風邪の引き始めだろうとのことだった。
今晩は大事を取って、診療所に泊まることになった。
ストーブが焚かれた暖かい部屋で、清涼飲料水と薬を手渡された。
診療所にいる安心感とシングルベットの厚い布団のおかげで、
ぐっすり眠ることができた。

7月31日(火)
3:40 
奥宮の方向から「ドンドンドンドーン、ドンドンドンドーン」
と太鼓を叩く音がした。

「あっ!今日はお日の出が拝めるんだ」

寒気はちっとも感じず、お腹が空いてきた。
熱はすっかり下がっていた。

「これで皆と無事に下山できる!」

診療所を後にする時、下山後の様子を知らせて欲しいと追跡調査の紙を頂いた。



診療班のお二方、白山奥宮さま、室堂センターの方々、
心配をおかけしたメンバーの皆様に支えられて、
私は無事下山することができました。ありがとうございました。

(今回、お世話になった白山診療所について)
白山診療所は石川県の要請で金沢大学医学部白山診療班という組織で開設されている。
白山国立公園内で夏山登山者や従業員の緊急疾病治療が目的である。
開山中は毎日診療が行えるようにと2~3日交代で、医師や学生が登山して来られる。
土日は医師が居ることが多いのだが、平日は医学部学生さん達が診療所で活動されている。
この診療所では年間400名以上の患者の診察が行われている。
http://www.geocities.jp/hakusan_shinryouhan/index.html


第11回例会報告2

2007-08-20 | Weblog
第11回例会報告2
2007年8月18日

伊藤博紀様ご発表「宝満山護持と登山形態の変遷」
の質疑応答

Q;九重の小屋の管理を10年したことあるが
 やはりトイレの管理が大変だった。
 トイレを有料化してはどうか?


A;お金がかかっているのは確か。
 バイオになればさらにいくら経費がかかるが
 わからないところはある。
 有料化するか否かは迷っている。


Q;有料化するとトイレ以外の場所が
 汚れるのではないかという懸念が出る。
 登山口の一の鳥居あたりにちゃんとした
 トイレを整備してはどうか。

A;それが理想と考えるが
 市などの助成がないとできない。

Q;登山者の推移はどうか?

A;昭和40年代は大学のワンゲルブームで
 大学生が頻繁にテントを張って入山していた。
 60年代以降はそのブームが去り
 小屋の宿泊自体も少なくなった。
 平成10年代になってテントを持ち込む
 親子連れが見られるようになった。
 売られている装備が軽くなったからでないか?
 現在では元気な若い女性が増えている。

Q;トイレの浄化された水は最終的には
 自然流下していると聞いたが
 山内の聖水の水源をおかしている状況は無いか?

A;地理的にそれはないと考える。
 近世(江戸時代)に山伏の25坊が山中にあった時より
 現在のほうがし尿という点ではよほど清潔な状態と思う。
 水場に関しては「閼伽の井」の水は飲まないようにすすめている。
 登山者が犬を連れてきて飲ませたり
 入ったりしているため飲まないほうが良い。
 沢の水も大腸菌ゼロとはいいきれない。
 環境の変化でイノシシが増えており
 沢近くで泥浴びをしている。

Q;登山者のマナーの変化はどうか?

A;登山者の数が増え基本的な山のマナーがぶれている。
 近道を勝手に伐り開く話はしたが
 登拝道の石段脇の雑木を伐り払う人がいる。
 本人は親切心でしているとおもうが
 その雑木で石段が保たれている側面がある。
 伐り払った後に水みちが出来て
 石段が危うくなっている。


Q;吉田屋敷近くに見晴らしの良い箇所ができたが
 あえて伐り開いたのか?

A1;それもやった主はわからない。
 基本的には樹木など自然のものは
 手をつけないほうが良いと考えている。
 反対に石段などの人工物は手を入れなければならない。
 四六時中山内での人の活動を見張っているわけではないので
 皆で啓発し続けてなんとかする他は無い。

A2;休堂から上は基本的に竈門神社の境内地であり
 保全の対象になって木も伐ってはいけないところ。
 伐っている人に出くわして注意すると
 逆に怒る人がいる。理屈を理解しようとしない。
 啓発を続けるしかないと思う。


Q;山内の土地の名称について
 仏頂山の所の道を「うさぎ道」と発言したら
 本来はなかった名称とご指摘をうけた。
 竈門神社でいいからしかるべきところが
 看板でも建てて正式な名称を浸透させてはどうか?

A2;一個人がつけた名称が通称とはいえ
 使い続けられるのはどうかと思う。
 近世以来使われてきた名称が大事だと思う。
 看板は金銭面での問題もある。(だれが置くのかも)
 この会で地図の作成をして配るようにしている。
 また、確定できないものもあり
 文献などをよく検討しなおす必要もある。
 今後の取り組みとしたい。

(記録;山村)

※ A2は事務局の応答



後半は7月末に研究会でおこなった加賀白山の
スライドを交えた登拝報告会をおこないました(事務局小西、山村)。

登拝にご参加いただきました皆様。
お疲れ様でした。
また、道中での貴重な写真を整理し
例会に間に合うようお届けいただき
感謝しております。ありがとうございました。
(本ブログでも活用させていただいております)

次回例会は10月20日の第三土曜日を予定いたしております。
フィールド・ワークの企画もあり
詳細が決まり次第ご連絡いたしますので
お楽しみに!

第11回例会

2007-08-19 | Weblog
第11回例会
2007年8月18日 午後1時~15時 
於太宰府天満宮崇敬者会館天拝の間

 定期の11回目の例会がおこなわれました。
今回は猛暑の中に46名と最大規模のご参集をいただき
配布資料が一時足りなくなるほどの盛況ぶりでした。


 内容は西鉄山友会副会長の伊藤博紀様に
「宝満山護持と登山形態の変遷」と題して
昭和30年代後半より登山者のための便益施設を
建設、維持管理されてこられた視点からの
山の原状とそこから見える課題についてお話いただきました。

後半は7月末に研究会でおこなった加賀白山の
スライドを交えた登拝報告でした。

以下に概要を残します。


伊藤博紀「宝満山護持と登山形態の変遷」

(山内の整備)
 年次的に宝満での活動を述べると
昭和38年(1963)に上宮踊り場下に最初の
木造の避難小屋を建設した。


キャンプ場下の水場もその時整備している。
しかし、小屋は部材が燃料として焼かれ
3年ほどで消滅した。非常に悔しい思いをした。


 昭和37年から39年には羅漢道の整備をおこなった。
明治の廃仏毀釈で北谷側の谷に捨てられた羅漢像を
一体一体拾い上げて据え直す作業をおこなった。
ちょうどこの頃、金の水に至るルートも整備した。
この頃は「西鉄福岡山学会」と称して活動していた。
かなりのメンバーがいた。

 昭和43年にプレハブ小屋を現在のキャンプセンターに建設する。
約35坪の広さで、倉庫、管理人室、そして50人が泊まれる大広間が在った。
(参照 http://www1.bbiq.jp/houman_k/2page/2page.html)
創建当時は会で毎日当番を作って小屋で番をしていた。
5年ほど続いたが会社自体がバスはワンマンカーの時代となり
人が減るなどしてしまい、土日の管理に移行した。


 平成元年に当時珍しかった日田郡森林組合の
プリカットのログ材を使用した山間の景観にマッチした
現在のログハウスに立て替えた。約24坪で管理人室、倉庫、
そして30人は泊まれる広間を備えている。


また竈門神社の上宮社務所も兼ねている。
ログハウス風のトイレと木造の倉庫を併設。

(ゴミの問題)
 昭和42年頃、ゴミカゴを山頂やチャンプ場に置いたが
仇となりカゴがゴミの山となってしまった。
ゴミの処分で日曜の当番の人は夜の下山となる状況だった。

 昭和50年頃にゴミ箱をなくし、各自でゴミを持ち帰る運動に移行した。
太宰府町(当時)に持ち帰り用のビニール袋を作ってもらい
山頂やキャンプセンターで配布した。
定着するまでに10年かかった。
考えてみれば会はゴミを拾って40年の活動だったと思う。
持ち帰りを勧めると最初は嫌みや嫌がらせがあったが
今はゴミがほとんどなくなった。

(トイレの問題)
 ゴミの問題は一応解決したが
トイレの問題は未来永劫続くものと考えている。
 昭和43年のプレハブ小屋建設に併せて
警察のポリボックスを改造した
いわゆる「ボットン便所」を設置した。
便槽にたまった排泄物18リットル缶3杯を
会のメンバーが毎回担いで下ろしていた。
これをやると臭いが2,3日しみついて取れず閉口した。


 平成元年の小屋の改築時に430万をかけて
現在のトイレを新築した。


山小屋全体の雨水がすべてトイレにまわる仕組みとした。
300リッターのポリタンクを水洗の水としている。
排便はトイレから下に落下させる方式で
トイレの15m下に3槽式の沈殿浄化槽を設置した。
最終槽の上澄みが排水される仕組みで
環境への負荷が少ない仕組みであった。
当初はうまく稼動したが、半年でだめになった。
原因は女性用の生理用品、食事の残滓、ビニールごみ
を捨てられていたことであった。
現在では年2回それを汲み取る作業をしている。

 ここ5,6年で全国の山のトイレが問題になっている。
北海道では携帯トイレを持参させ麓で回収する
仕組みが採用されている。
九州の山は浅い山が大半で、2,3時間でピークに達する。
この状況からすれば大半の山は山中にトイレは必要ないと思う。
むしろ麓に良いトイレを配置すべきと考える。

 しかし、宝満はそうはいかない状況がある。
とくに学校の遠足利用など団体での利用が頻繁で
便益施設としてのトイレ設置は必須な状況である。
 近年、微生物を利用したバイオトイレに関心が向き
福岡でも福智山に設置されるなどしている。
しかし、バイオトイレは電気を必要とする。
攪拌のための動力施設もあるなど維持には相当の
資金と覚悟がいる施設である。実績も少ない。
宝満でのトイレの利用実態は小便が95パーセントで
大便は宿泊者などが5パーセント程度利用している状況で
基本的にはバイオには不向きな実態と考えられる。
将来的な理想は大便のみをバイオにして
環境負荷の少ない小便は現在の仕組みで
併用して運用するのが理想なのだが
バイオについては福智山などでの今後の経過を見たい。

(道の荒廃と整備)
 山の荒廃にとって平成2年の台風17,19号被害は忘れられない。
これで破壊された登拝道の復旧には3年を費やした。
4合目の木橋は大変でここ20年間で3回架け替えている。
 現在の宝満の問題点は、まず登山者が多くなった。
歩きでなく走りで登山するため石段がゆるんで
破損箇所が多くなってしまっている。
 また、勝手に新しい道をつくるひとがいる。


その一つの「天狗みち」などは禁止になっているのに
未だに勝手に通行している人がいる。
水みちが出来てしまい水害のもとなどになっている。

(人間による環境の変化)
 ここ数十年で宝満の植生は大きく変わってしまった。
以前は山葵などはたくさんあったが
現在では一日かけて探しても見つからない。
「羅漢めぐり」周辺にはしゃなげが沢山自生していたが
ほとんど消滅した。
 反対に「西洋しゃくなげ」を勝手に山中に植え回った人がいた。
もともと無いものを個人の発想で勝手に植えられては
困るということで除去してまわった。
イタチゴッコが10年ほど続いたが3年ほど前にやっと終息した。

(登山者のマナー)
 冬場の難所ヶ瀧への見学などで
アイゼンを着用している登山者がアイゼンをはずさないまま

山小屋のデッキに上がりこむため
床に穴があいて材木が早く腐食する状況となっている。
補修には相当の資金が必要になる。
資金はメンバーがアルバイトをしたり
企業からの協賛金を集めたりしてなんとか集めている状況である。

 西鉄山友会は会員が10数名の小さな会であるが
今後もいろいろな人の協力を集めて宝満を守っていきたい。
命ある限りつくしていきたいと思う。

記録;事務局 山村

(つづく)



白山登拝記録10

2007-08-18 | Weblog
白山登拝記録10
(大汝峰から室堂へ)

    「進んでいる道と反対に目指す峰が見える」
    周囲は3m先も見えないほど、ガスってきた。
    「この状況で道を知らず、あせって近道しようとすると遭難するからな。」


    背中から声がかかる。分岐の表示が見えて、ほっとした。
    たしかに、この状況で悪天候や体調、
    時間的制約が加わると遭難する確率は格段に高くなる。


9:50 大汝南登山口に到着。説明版を見て、説明を受ける。
    急なガレ場を登るため、ストックはしまってから、登山開始。


    最初は石段だが、後は四つん這いになって岩肌をよじ登っていく。
    赤いマーキングしてあるところを目指していくのだが・・・。
    「右じゃない!左!っ馬鹿!脚が違うだろ」
    不幸にも左右の区別がついてない者が先頭だったおかげで、
    非常にゆっくりしたペースで山頂を目指した。


10:20 大汝(2684m)に登頂。

10:45 大汝北登山口から下山。南登山口の険しいガレ場とは違い、
     比較的緩やかな傾斜。ガスが切れず、七倉山への登山はあきらめる。
    這松が目線ほどの高さで道幅いっぱいに群生している。
    以前、白山比神社村山禰宜さまにご講演いただいた時、
    「未だに這松に迷い込んで、発見されない人がいます。」と伺っていた。
    這松は場所によって、背丈が違うが群生しているため、
    周辺の状況が分かりにくい。迷い込むと出てこれないし、
    見つけられにくい。山でルートを外れるのはとっても危険だ。
11:20 大汝南登山口に到着。昼食のお弁当を食べる。
    おかずがレトルトパック(石川ご当地料理の治部煮)
    になっていることにびっくりする。
11:50 五色池を右手に、雪渓で閉ざされた千蛇ヶ池に到着。


    お花畑が広がるコースをとって室堂へと移動。


白山フウロ


御前橘(白山奥宮の御印)

12:50 室堂に無事、到着。

白山の六道世界に咲き誇る花々の中を抜け、ようやく地上界へ。
今日一日は時折晴れ間も見えたが、ガスが濃く気温も上がらなかった。
奥宮に戻り、着替えを済ませる。
歩き回っていたのに、まったく汗を欠いていなかったことに気がついた。
ストーブの前で冷え切った体を温め始めたのだが、指先に血が戻ってこない・・・

つづく
    
    

第11回例会は明日18日

2007-08-17 | Weblog


日時:平成19年8月18日 午後1時から
場所:太宰府天満宮 崇敬者会館(御本殿裏)2階天拝の間
内容:
1 卓話 「宝満山護持と登山形態の変遷について」
    西鉄山友会 副会長 伊藤博紀氏

2 報告 「研究会主催加賀白山登拝の報告」
    ※ スライドをたくさん用意しております。

会費:資料代 200円
    ※ どなたでもご参加いただけます。