海外協力隊への応援歌

青年海外協力隊はじめJICAボランティアを心から応援しています。
2010年1月帰国、イエメン、青少年活動隊員より

なぜ協力隊に参加したか

2010-04-10 | Weblog
 帰国後、3ヶ月たった。「なぜ協力隊に参加したか」ときかれることがあるが、正直言ってもうよく覚えていないので、参加する前に書いた手紙をここに転記しておこうと思う。これからおいおい、協力隊の活動をここに整理していくかもしれない。

 手紙の背景を先に補足しておくと、この手紙は、協力隊参加前に何人かに出した手紙で、会社や周りとの折衝の後、どちらかというと失意の中で書いている。国破れて山河あり、虚しく理解を求める敗者の悲哀が若干漂う。今、折しも協力隊の春募集の時期で、女の子が「行こう!」と明るい決意をするテレビCMが流れており、私も、外から見たら、同じように見えただろう。が、実際は、まあいろいろあるわけで。この手紙を書いたときの年齢は、協力隊の募集年齢上限の39歳だった。(40歳以上はシニア海外ボランティアとなる)

 一部、固有名詞のみ、伏字にさせていただきます。

・・・

ご迷惑をおかけするみなさまへ

このたび、青年海外協力隊に参加するため休職をすることをご報告いたしましたが、あらためて、お礼とお詫びを申し上げさせていただきたいと思います。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません。そして、勝手を許してくださって、ありがとうございます。心より、お礼を申し上げます。

この応募に至った経緯を、きちんとご説明できたらよいのですが、私はあまり話すのが上手ではありませんので、手紙にしたためさせてください。

青年海外協力隊は、おそらく、自分の中で、20年以上の懸案だった気がします。
「無知をなくす仕事、病気をなくす仕事、差別をなくす仕事」。世の中には3つの大切な仕事がある。学生時代の講義できいてから、この、3つの大切な仕事、という言葉がずっと心にひっかかっていました。自分はこのどれかに従事しているだろうか。

ビールを売りながら、ビールを飲んだときの楽しさを提供している、心を癒したり、友達との語らいの潤滑油になったり、おふろあがりにおいし~い!という幸せを提供している。とても単純で、でもとても大切な仕事をしていると思っていました。利益を出せば、それを社会貢献にも使えるし、******の社員はみなお人好しでビールが好きで、ビールを喜ぶ人を見るのが好き。本当にいい会社だと思います。でも、そんな中で、ときどき、先ほどの3つの大切な仕事のうちのどれに貢献しているんだろう、という疑問がわいては、もう少し待って、もう少し待って、と先送りしてきたように思います。

戦後、日本は高度成長を経験し、安かろう、悪かろうのイメージから品質で世界中の信頼を得るようになりました。国際の仕事をする中で、この理由は日本人一人一人の意識の高さ、勤勉さと誠実さだと思うようになりました。人の見ていないところでも手を抜かない、自分に恥ずかしくない仕事をする。***で働く中で、工場の人たちのビールに対する情熱や誠実さに、何度も感動しました。この人たちのつくったビールなら誇りを持って売れる。もし、なにかあっても営業として絶対楯になるぞ。そんな気持ちで営業をしてきました。

この一人ひとりの意識の高さは、道徳と教育からくると思います。敗戦国である日本を植民地にしないで国として立ち直るようにしてくれたのは戦勝国である当時の先進国たちでした。今、日本は先進国といわれ、ゆたかになりました。そろそろ世界に恩返しをしてもいいんじゃないか、開発途上国に、ぼろぼろになった国から先進国になれた日本だから伝えられることがあるのではないか。では自分に何ができるかと考えたとき、高度成長を目の当たりにした自分だから伝えられることがあるのではないかと思いました。ボランティアでだれかがいかなければ教育の機会の与えられない子供たちに教育の機会を提供したい。貧しい国でも、教育があればゆたかになることができるんだという希望をわかちあいたい。

青年海外協力隊は春と秋、年2回募集があるのですが、昨年秋の募集が終わったころにJICA(国際協力事業団)のホームページを何気なく見たら、年齢制限があることに気がつき、しかも次の春募集が年齢的に最後のチャンスであることがわかりました。青年というくらいなので、年齢制限があるのは当然なのかもしれませんが、はじめて気がついたんです。いつか応募するかもしれない、と漠然と思っていたことが一気に最後の機会、もうあとがない、という現実になりました。

今しかないけど本当に応募するのか?会社はどうする?仲間は?生活は?自分にいったいなにができるというのか?

4月頃、平成19年の春募集が始まり、早い時期にJICAの青年海外協力隊説明会に行きました。広尾のJICA広場だったと思います。後に面接試験の待合室となる、大きな講堂でした。そのとき、なぜか最初から最後まで涙が止まらなくてたいへん恥ずかしい思いをしました。まわりはみんな20代そこそこの若い人たちです。もともと涙腺は弱いほうですが、一人だけおばさんで、そうでなくても恥ずかしいのに、しかも泣いている。みっともいいもんではありません。隠そうにも、あとからあとから涙が出てきて止まらないんです。小一時間の説明がすんだら質問もしたかったのに、トイレに行って顔を洗わなくてはなりませんでした。応募するの?本当に?なんで?何のために?

そのころ、本か協力隊のレポートかで、「笑うことを知らない子供たち」の話を読みました。5歳、6歳の子供がそれまで一回も笑ったことがないというものです。協力隊の人形劇だかなんだかで、集まってきた子供たちが生まれてはじめて「たのしい」という感覚を体験した、はじめて笑った、というんです。私には最初、この意味がわかりませんでした。食べ物がなくてひもじいとか、教育を受けられずおつりをごまかされていつまでも貧しい、という世界があることは知っていました。でも、笑ったことがない子供がいる、何年も生きていて、一度も笑うことを知らずにそのまま死んでいく子供たちがいる、という事実が、自分にどうしてもわからなかった。うちも相当貧乏でしたが、さすがに笑ったことくらいはありました。楽しいこともありました。私は自分に子供がいないからわからないのかと思いましたがそれも違うような気がします。そして協力隊に応募するべきかどうか考えながら調べているうち、「娯楽に飢えた子供たち」という表現を何度も見かけることになりました。子供に娯楽?飢える?どういうこと?私には実は今でもわかりません。結局、これが最後まで自分の背中を押し続けた気がします。

今の仕事は楽しいです。お金儲けは大好きです。利益が出るのはおもしろく、利益を正しく使える企業がたくさん儲けて、社会貢献にもどんどんお金を使ったらいいと思っています。仲間にも恵まれ、営業も私には天職で、一生ビールを売り続けるのもいいかなと思っているくらいです。ただ、ビールを売りながら、ときどき、世界のお取引先はその国の富裕層で、その同じ国に、飢えた子供たちがいること、教育を受ける機会のない子供たちがいることを思い出し、どこかしらちくりちくりと心がいたんでいました。どこかで、一度、バランスをとらなくてはいけない限界にきていたのかもしれません。自分の中の矛盾を一回解決してあげないといけない。それが、今だったのではないかと思います。

合格できる自信はありませんでした。一所懸命勉強もしましたし、情報も集め、いろいろな人にご助言を仰ぎ、試験に備えました。でも、倍率も高いし、自分のバックグランドを考えると、即戦力になりそうもない。受験は、私にはとてもたいへんでした。合格できなければあきらめよう、仕事をして稼いだお金を寄付にまわせばいいのだから、と、自分を励ましながら、準備をしました。

青年海外協力隊の年齢は上限39歳で、私は派遣者の中では最高齢です。試験会場でもひとりだけ年がぽっかりと上でした。二次試験の日、待合室の講堂には200名近く受験者がいたと思いますが、面接は一人ずつで、待っている長い時間、若い人たちがどんどん話に花が咲く中、私は9時半ころから5時すぎまで一人でした。話の世代があわなかったということもありますし、本当にいいんだろうか、ばかなことをしているのではないだろうかという迷いで、なんとなく、話に入っていく気になれませんでした。合格するかもしれない、しないかもしれない。合格したらしたで、訓練所ではまた若い人たちの間で一人年が離れ、語学の覚えも悪いだろうし、体力も追いつかないかもしれない、それでもやるんだろうか。

8月11日、結果通知を受け取り合格だとわかったとき、行こう、と思いました。生活も、仕事も、仲間も、友人も、なにもかも放り出すのだな、と。もし、理解してくれる人が誰もいなくても行くか?やっぱり行くだろう。ばかだなあ、行かないという選択肢もあるのに。そして、参加同意書を提出しました。これが、青年海外協力隊への経緯でした。

本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ございません。たいへんなわがままですが、2年間、現地で一所懸命活動してきます。現地に、精一杯の愛情をそそいできます。ビール会社の誇りを持って、世界中の人がビールを楽しめるくらいにゆたかになれるように、微力ながらできることをやってきたいと思います。そして、2010年、******グループのどこかに戻ったら、また会社の利益のために一所懸命稼ぎます。

長文、読んでいただいてありがとうございました。
どうか、お体にお気をつけて。2010年に、またお目にかかれるのを楽しみにしています。今まで、ありがとうございました。できましたら、これからもどうぞよろしくお願いいたします。ご迷惑をおかけして、申し訳ございません。ほんとうに、ごめんなさい。

・・・

 協力隊参加前に何人かにあてて出した手紙の内容は以上。結果的に、思いがけないほど会社での経験を活かすことになる配属先だったが、このときの自分はまだそれを知らない。

 2010年4月10日、帰国後、3ヶ月たった日に。