斎藤・斉藤 どっち?
元々は齋藤らしい。今の漢字で書けば斎藤。斎宮頭の役職を務めていた藤原何某が斎藤と称したのが始まりらしい。
斎と斉は全く違う漢字なのだけれど、斎を斉で代用することも行われて、今では斎藤さんと斉藤さんがいるということらしい。
斎藤さんを「齊藤」さんと書いても、「違いますよ」とは言ってくれないかもしれません。
いつの間にか別の漢字が使われてしまった例としては大山祇神社と大山祗神社の例があります。元々は「祇」のようですが現在でも「祗」を使っているところがかなりあるようです。たとえば「ぎおん」を変換すると祇園と祗園が出てきます。
時間は「量子もつれ」の副産物に過ぎないとする研究結果が発表された
リンクを貼っておきます。
こういう記事には、ついつい興味を感じてしまいます。
我々の生きているこの世界は、とても不思議な世界でして、たとえば「同時」という非常に基本的に思える当たり前の概念にしても、観測者によって「同時」が異なってしまうような世界なのです。
絶対的な時間軸などは存在しないのです。それはたぶん間違いありません。では時間とは何なのか、ということです。
私は時間を感じています。過去に出来事があって将来には不安を感じています。たとえば今日は、あれをしなければこれをしなければと思いつつ、結局たいしたこともせず一日を過ごしてしまって反省しています。
時間という概念があるから、自分には自由があって、自分の行動を選ばなければならないし、その結果には責任を持たなければならないと、私の意識はそう考えています。
そういった感覚が間違っているわけではないのですが、この記事を読むと世界についての別の解釈もありそうだと思うのであります。
世界についての別の解釈つまり別の世界観に、東洋の宗教の世界観と共通するものが感じられることが多くて、それで余計に強く興味をそそられます。
バガヴァッド・ギーターで、アルジュナにクリシュナが見せた神としてのクリシュナの姿はカーラつまり時間でした。時間の概念が変わっていくと、世界が違って見えてくるのです。