都立庭園・清澄庭園。正門(門松)。東京都江東区清澄。東京都指定名勝。
2025年1月3日(金)。
清澄庭園は、三菱財閥岩崎家三代が築いた池泉回遊式庭園で、名石の庭として知られる。
本日は箱根駅伝2日目ゴール地点・大手町での見学がメインである。しかし、何時から場所をキープすべきか情報はなかった。ゴールが13時過ぎとして9時では4時間も待つことになるので早すぎると思った。
そこで、都営地下鉄の車内広告に都立庭園が2日と3日にも開園するとあったので、見学したことがなかった清澄庭園を見学することにした。
一方、東京サブウェイ72時間券の期限は1月3日の8時41分までだったので、東京サブウェイ72時間券の2枚目を清澄庭園見学後の10時過ぎに購入すれば、期限は1月6日の10時過ぎになり、JR都区内フリー乗車券を使用する1月6日早朝に新橋から「ゆりかもめ」に乗り、終点である豊洲から有楽町まで地下鉄を利用することができることも考慮した。
大江戸線「清澄白河」に8時30分ごろ着いて、9時に清澄庭園へ入ると、意外と見どころがあり、9時45分ごろに出て、深川江戸資料館まで歩いてから半蔵門線「清澄白河」から大手町に着いたのは10時30分ごろだった。すでにゴール付近は空いている場所はなかったので、10時までには来ている必要があったと思われる。
入口。「下町気分でお正月」2025年1月2日(木)・3日(金)開催。
清澄庭園の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられている。享保年間(1716~1736年)には、下総国関宿(現・野田市)の藩主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようである。
清澄は深川地域内にあり、江戸時代以前のこの一帯は隅田川の三角州に蘆荻の茂る低湿地帯であった。徳川家康の江戸入府に伴い、隅田川の水運や木場の発展を背景にして、魚介類の需要に応えるため隅田川河口に深川猟師町が誕生した。清住(現・清澄)周辺に町が出来始めたのは寛永時代(1624〜1643年)頃で、江戸の繁栄に伴い猟師町から商業中心の町屋に変貌し、清住町には仙台蔵が出来て、仙台掘が深川木場への重要な流通水路として発展した。
明治11年(1878年)深川清住町と伊勢崎町の土地約3万坪を、三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、以降、弟・弥之助、長男・久弥へと岩崎家3代にわたって清澄庭園は引き継がれた。
明治13年(1880年)4月、庭園は「深川親睦園」として 一応の竣工をみて、平時は三菱社員の慰安の場、特別の内外の賓客がある時は接待の場とされた。
清澄庭園の特徴の一つが巨石の石組みで、弥太郎は全国から集めた巨石を船便で庭園に持ち込んだ。また、池沼を改修し、新たに林泉を設けて大庭園を築造、池は二カ所の堀で仙台掘さらに隅田川に通じている。
『岩崎久弥伝』によれば「ここには旧幕時代の大名屋敷の池庭があった。弥太郎はそれらの庭を改修し、これを綜合拡張して新たに林泉の布置を定めてここに一大庭園を造築した。」と記されている。また弥太郎は青年時代から造園に興味があり、特に石が好きだったようで「吾は性来これという嗜好なけれど、常に心を泉石丘壑に寄す。これを以て憂悶を感ずる時は名庭園を見る。中略、ひとり加賀邸の庭園は無数の巨巌大石を配し、老樹黙綴して豪宕の趣き深山の風致あり。若し吾に庭園を造る時あればかくの如きものに倣はんと欲す。」と記されている。
明治19年(1886年)の地図によると、洋館東側に大きな建物があり、日本館と思われる所にも小邸がある。庭園の殆どの所は池が掘られ、築山と回遊する園路があり、南側には仙台掘から引込んだ水路が東に流れ、富士山から遊園地にかけて大きな鴨池がある。
弥太郎の弟・3代目弥之助は、明治18年(1885年)弥太郎の没後、完成途中だった清澄庭園の後を受け、施工計画書を作って修築を進め、国内外の要人の社交場として豪華さを目指し、巨額の建設費を投じて明治24年(1891年)に完成させた。
弥之助は明治19年(1886年)に京都から武者小路千家一門の茶匠である磯谷宗庸を招き、園游開場、温室園芸場、植込地を設け、多くの庭石を入れた。また、日本館と洋館を新築、日本館は木造建坪315坪で河田小三郎の設計で大広間、茶室、小集会室、松の茶屋などを備えた。洋館はチューダー式赤煉瓦建坪782坪で英国のジョサイア・コンドルの設計で、明治22年(1889年)に完成した。
弥之助によって完成された庭園は、明治初期の回遊式潮入り林泉の名園といわれ、敷地約3万坪で「汐入り」の庭に渓流、入江、渚灯を設け、池には大小の島を配し橋を架け、東西に藤を擬した小丘を築き、老樹に見事な庭樹で補い、東北、四国、九州、小笠原、伊豆などから庭石を収集搬入し完成された庭園であった。
弥太郎の長男で4代目の久弥は、池の南岸に保岡勝也設計の小亭「池の御茶屋」(現・凉亭)を建て、明治42年(1909年)英国の陸軍元帥キッチナーを歓待した。
大正9年(1920年)、久弥は社会情勢の変遷や将来の経営を考え、庭園の南東の園芸場、園遊会に使われていた芝生区域約3,000坪の公開を目的に、東京市公園課と相談し児童遊園として改造し、大正10年(1921年)12月に一般公開した。
大正12年(1923年)9月1日の関東大震災では清澄庭園は逃げ惑う人々の避難場所となった。建物は凉亭を除き日本館も洋館も灰となり、庭園も老木大樹は焼かれ、石組みも損傷、壊滅的な打撃を受けた。
大正13年(1924年)10月、岩崎久弥は破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7年7 月に公開した。寄付された内容は、敷地15,541.08坪、日本館、凉亭、中島、松の茶屋の焼跡、沢渡りの大飛石、長瀞峡などの水景と芝生築山、清澄遊園である。
昭和2年(1927年)2月、新宿御苑で行われた大正天皇御葬儀で使われた葬場殿(建坪71坪)を、清澄庭園に移築して「大正記念館」と命名し、昭和3年(1928年)5月27日、開館式を行った。
昭和52年(1977年)庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園した。
名石。
伊豆石、伊予青石、紀州青石、生駒石、佐渡赤玉石、備中御影石、讃岐御影石。これらは庭園に据えられた庭石の代表的なものである。このほか敷石や橋、磯渡り、枯滝の石を含め、園内には無数の石が配置され、「石庭」の観を呈している。これらの石は、岩崎家が自社の汽船を用いて全国の石の産地から集めたものである。
水鉢(大和御影石)。
一両・十両・百両・千両・万両。
大きいものは、霜除け(鎧)、小さいものは霜除け(巻おろし)。
大正記念館。
昭和3年(1928)、大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移築したもの。最初の建物は戦災で焼失(1945)してしまったため、昭和28年(1953)に貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建した。平成元年(1989)4月に全面改築され、現在は集会施設となっている。
大泉水。三つの中島を配した広い池。水面に島や数寄屋造りの建物、樹々の形を映しだすこの池は、庭園の要である。昔は隅田川から水を引いていたため潮の干満によって池の景観が微妙に変化したといわれている。現在は雨水でまかなわれている。
富士山。
この庭園で最も高く大きな築山。関東大震災以前は、この築山の山頂近くには樹木を植えず、サツキやその他のツツジ類の灌木類を数列横に配して、富士山にたなびく雲を表現していたという。
石仏群。
枯滝。青石。
真鶴石。
芭蕉の句碑。「古池や かはづ飛び込む 水の音」。
涼亭(りょうてい)。
池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物。明治42年(1909)に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたもの。
震災や戦災をまぬがれ今日に至ったが、昭和60年(1985)に全面改築工事を行い、現在集会施設として利用できる。平成17年(2005)、「東京都選定歴史的建造物」に指定。
磯渡り。池の端に石を点々と置いて、そこを歩けるようしたもの。広々とした池の眺めが楽しめるだけでなく、歩を進める度に景観が変化するように配慮されている。
長瀞峡。
9時45分ごろに庭園を出た。
深川江戸資料館へ向かうと、寺が通りの両脇に密集していた。付近を散策する人たちが多くいた。深川江戸資料館は有料だったので、「清澄白河」駅に戻り、東京サブウェイ72時間券を発行してもらい、大手町へ向かった。