オホーツクミュージアムえさし。枝幸町三笠町。
2022年6月18日(土)。
明治31年に枝幸町パンケナイ川上流で砂金地が見つかったことで、ゴールドラッシュが起こり、全国から2万人超の人が一攫千金を夢見て集まった。砂金採取遺構はパンケナイ川最上流域だけで十数か所におよんでいる。
「中頓別を歩く」(中頓別町 中頓別地元学・開拓100年の本 2009年刊)より抜粋
頓別原野の区画が定められていた頃、枝幸村の堀川泰宗は海岸で産出される砂金のルーツを探すため原野に分け入っていった。そして、北見山地のホロヌプリ山と珠文岳を水源とする幌別川の支流パンケナイ川(枝幸町歌登)に辿り着き、砂金を発見した。このニュースは、ニシンの不良で活気を失っていたオホーツク海岸全体の漁民を奮い立たせ、大挙して入山させた。
本州からも一攫千金を夢見た人々が波のように押し寄せた。にわか「砂金掘り」達は、山中の沢という沢を歩き回ったことであろう。ほどなく頓別川の支流ウソタンナイ川(浜頓別町)、ペーチャン川(中頓別町)にも新たな砂金田が発見された。
川の砂金採りの歴史は古く、北海道では江戸時代当初に道南の大千軒岳の沢筋で松前藩が採取していたとの記録がある。砂金を求めた山師は、密かに北海道の沢をくまなく歩き回っていたはずで、当時すでに採掘権に関する法律があり、採掘をする者は所轄の鉱山保安所を通じて国に許可を受けなければならなかったが、降って湧いたような突然の砂金発見のニュースは、多くの密採者の入山を呼び込み、警察の取り締まりも追いつかなかった。
明治31年にはパンケナイ川に、32年にはウソタン、ペーチャンに鉱区の許可を得た正式な砂金採取組合の事務所が開かれた。当時の文献や新聞報道を見ると、「枝幸に揚がった白米量から推して、既存住人以外に1万人以上」。伝聞記事では「ペーチャン川の上流には、一戸に5~8人住む草小屋が1千軒以上にも及び、一市街地を形成している」「小樽-枝幸間の定期航路は満員の増便」とある。正確な実数がつかめぬほどに、おびただしい密採者が山中に暮らしていたことは間違いない。
当時、いい砂金場なら1日4匁の砂金を採取することができたという。明治30年代は砂金およそ1匁(3.75g)4円であったから、1日16円の収入になったことになる。当時の物価は、白米10Kgが1円12銭(明治30年、中頓別郷土資料館)であるから、16円は現在の物価で5万円前後であろうか。ましてや、ろくな仕事もない時代である、人々が砂金に殺到したことは容易に想像できる。砂金でお金を手にした者は、枝幸や上頓別原野に形成された市街地に足を運び、商店から物を買い、料理屋などで豪遊した。街はさぞかし好景気に沸きかえったことだろう。
しかし、一攫千金の夢も長くは続かなかった。明治33(1900)年には産出量が急激に落ち込んだ。大がかりな組織的採掘をするには経営が見合わなくなり、人々は次々に山を降り、ゴールドラッシュは瞬く間に夢と消えた。なお、砂金採掘は細々ながらも昭和まで続いた。
4名が喰い殺され、1名が危篤…砂金採りに沸く北海道民を襲った「超・凶悪熊」のヤバさ
Yahoo news 2022/11/13(日) 文春オンライン
明治30年代、ゴールドラッシュに沸く北海道……一攫千金を狙い、砂金採りに沸く人たちも、ヒグマの標的の例外ではなかった。
ノンフィクション作家・中山茂大氏の新刊『 神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史 』より一部抜粋。19歳少年が「ほぼすべてを喰い尽くされた」恐るべき事件を紹介する。(全2回の2回目)
100億円の金塊に群がった人々
明治34年3月発行の『殖民公報 第一号』には次のような記事がある。
「北見国においては明治30年、始めて砂金の存在せるを発見せられたるが、同国枝幸郡の如きは全道第一の砂金産地となり、日本のコロンダイクとまで言いはやされ、はなはだ盛況を呈せり」――明治34年
「コロンダイク」というのは、カナダ北西部クロンダイク地方のことで、明治29年に、世界中の山師が一攫千金を夢見て極北の地に殺到した「アラスカ・ゴールドラッシュ」の震源地となった場所である。奇しくも同じ時期に、アラスカと日本で、空前の「黄金狂」が発生していたのであった。
当時「地の果て」であったオホーツクの寒村は、にわかに活気づき、人煙希なる頓別川、幌別川の上流には、数千軒の掘っ立て小屋がひしめきあい、料理屋、一杯飲み屋、女郎屋、床屋、風呂屋までもが建ち並んだ。
この頃の砂金場を視察した道庁職員の談話が残されている。
「とにかく鰊(ニシン)以上の大景気ですよ。目下、採取に入り込んでいるのは、およそ3000~4000人だそうです。枝幸地方の労働者は老若男女問わず、家を挙げて砂金場に向かっています。神主や僧侶もいて、漁夫なんかは船が着くたびに100人ずつ、続々山に入ってます。ペイチャン川には1000~2000人くらい入り込んでいるようで、川岸には数え切れないほどの小屋があり、ひとつに5、6人が住んでいます」――『枝幸町史 上巻』昭和42年より要約
地元紙も次のように報じている。
「昨年、北見国頓別川で砂金発見の報が伝わりて以来、本道はもちろん内地各府県に至るまで響応雲集して、採収のため枝幸地方に入り込みたる者は無慮1万数千人の多きにおよび、蟻の甘きに寄りつき、カラスの腐屍に集まるごとく、その遺利を拾わんがために競争喧噪する有様は筆舌の尽くすところにあらず(「枝幸砂金採収の実況(一)」吉成二囚報)」――『北海道毎日新聞』明治32年8月11日
冒頭の『殖民公報』によれば、北見地方の産金量は、明治31年に33匁(123.75グラム)に過ぎなかったのが、明治32年には、104貫257匁(390.96キログラム)にも達している。明治34年9月発行の「第四号」には、明治33年における1人あたりの産金量も詳述されていて、「(北見国全体での)採取高は281貫646匁[約1056キログラム]。これを1年間の延べ採取人員72万5402人に割り当てれば、1人あたり1日に3匁9分[約15グラム]を得る割合である」という。
現在の金の相場が概ね「1グラム=8400円弱」なので、大ざっぱに言えば日当12万5000円である。
鉱山監督署の調査では、「枝幸砂金」の最盛期であった明治32年の産金量は約120貫(450キログラム)となっている。
しかしこれは真実とはほど遠いと言われる。その理由は砂金掘りによる「ホンマチ」であった。「ホンマチ」とは「猫ばば」の隠語で、元は「帆待ち」と書いた。船乗りが港で風待ちしている間に、私的に商品を買い入れて次の港で売るなどして余禄を得る行為を言う。
砂金掘りの言葉に、「大粒の砂金が採れる現場は潰れる」というのがある。めぼしい金塊は、みな人夫がホンマチしてしまい、上げ金が減ってしまうからである。それほどホンマチが、砂金掘りの間で横行していたのである。
一方で、枝幸市中で買い取られた砂金が、180貫余(675キログラム)であったという記録が残っている。しかし仲買商を経ずに郵送したり、持ち帰った砂金も少なくなかったはずである。従ってこの数字も当てにならない。
鉱区主が申告する産金量もまた当てにならなかった。初期には税逃れのために少なめに申告し、後期には鉱区の転売に利するため多めに申告するからである。
以上のことから、正確な産金量は推して知るよりないが、工学士西尾銈次郎の『枝幸砂金論』(明治35年)によれば、明治32年の産金量は、270貫(1012.5キログラム)であったと概算している。現在の相場で約80億円である。
80億円の金塊が裏山に埋もれているのだから、老若男女、猫も杓子も、取り憑かれたように山に入ったのは当然のことであった。
さらに景気のいい話をすれば、日本最大の金塊が採れたのは、明治33年9月のことで、目方は205匁(768.75グラム)であった。浜頓別町郷土史研究会がまとめた冊子『筆しずく』(平成14年)には、この金塊の原寸写真が掲載されているが、それはまさに「手のひらサイズ」である。発見した人物もわかっていて、「ウソタンナイ支流の川で205匁の大塊を発見してお互いに秘密にしていたが、たまたま遊郭で、酒の酔いもあり喜びのあまり遂に漏らしてしまったそうです」(「幌別河口の歴史」三野宮政夫、『枝幸のあゆみ~古老談話集~第二号』)と伝えられる。
金塊は1匁あたり4円70銭で取引された。概算で963円50銭となり、現在でいえば1000万円近い金額であった。
豊かになれた人は一握り
さらに大きいのが見つかったという伝説も、地元では語り継がれている。
「ペーチャンで大金塊が見付かったが、3人が共謀して、鉈で3つに分けた。その2つを枝幸の町に売りに行って、切口から足がついた。3つくっつけたらのし餅ぐらいの大きさになり、今までのうち一番大きな砂金だったろう」――『砂金掘り夜話草』日塔聰、ぷらや新書刊行会、昭和56年
この金塊は、なんと280匁(1050グラム)もあったそうである。しかしこのような幸運な人は、ほんの一握りであったことは言うまでもない。
多くの人々は徒手空拳のシロウトであり、北海道の寒さに驚愕し、厳しい肉体労働に辟易して、なにも得ぬままに帰国した人が圧倒的多数であったと言われる。黄金を手にすることができた、ごく一部の人々も、枝幸の妓楼、遊郭に散財して、富をなした者はほとんどいなかったとも伝えられる。
野獣が潜む山中で起きた惨劇
当時の「枝幸砂金」を報じた新聞記事に、ヒグマについて書かれたものをひとつだけ見つけた。
「従来は羆熊の跋渉に委ねたる地なりしをもって現時においても往々出没横行して、採取夫を恐怖せしむることありといえども、あえてこれがために被害を受けたることなしという」――『北海タイムス』明治33年9月14日
たしかに1万人ともいわれる人間が山中深くに分け入ったわりには(だからこそ、とも言えるかもしれないが)、ヒグマに関する話題はほとんど記録されていない。
しかし筆者が調べた限りでは、この空前の黄金狂のさなかにも人喰い熊事件が発生していた。しかも人夫小屋を押し破り、2名を引きずり出して喰い殺すという、極めて獰猛なヒグマであった。
明治34年9月14日朝、北見国枝幸郡頓別村字ビラカナイの山中で、富所林吾(52)が起きてこないのを不審に思った近傍の者が、富所の小屋を訪ねてみると、天幕の外部に血痕が付着しているのを発見し、小屋の中を窺うと、鮮血が飛び散り、すこぶる惨状を極めていた。さらに小屋付近の粘土に8寸余の熊の足跡を認めたので、ただちに警察に急報した。そして山中くまなく捜査したところ、小屋の対岸の山腹に林吾が枕にしていた股引、腹掛け、筒袖および鑑札、金員等が残されており、さらに米噌、塩鱒等には熊の歯形が印してあり、それらが一面に散乱していた。しかし死体はついに発見されなかった。
2日後の9月16日夜、ビラカナイの山ひとつ隔てたイチャンナイの山田砂金採取事務所に1頭の大熊が押し入り、寝臥中の大山栄助を引きずり出し、小屋の外、7、8間のところに投げ出して重傷を負わせた。さらに松吉常吉が熊のためにさらわれ、他の1人は布団の内に潜み、ようやく危害を免れた。栄助は生命すこぶる危篤で、常吉は行方知れずとなった。
山田砂金採取事務所の事務員で元軍曹の浜田建吉は、事件当夜は枝幸に下山していたが、この椿事を聞いてただちに事務所に戻り、負傷者大山栄助を介抱する傍ら、熊の再来を予期して、銃に弾を込めて用意をなした。
果たして翌18日午後6時頃になって、事務所の南方から大熊1頭が現れ、前々夜に侵入した窓に向かって突進してきた。待ち構えていた浜田は銃口を窓から差し出し、熊の接近を待ってズドンと1発放った。狙いは違わずに熊の脳天から左腹部に命中したが、怪力無双の大熊のこと、1発の銃丸などものともせずに、ますます猛り狂って、小屋よりわずか2間のところに迫った。そこで第2発が胸部に命中し、さらに第3発で、まったく撃ち倒した。
そこにビラカナイで富所林吾の死体捜索に出ていた巡査2名が帰って来たので、浜田に助力して熊の腹部を解剖、検視した。すると胃部にはなんらの残留物もなかったが、腸部からは「左右の拇指各1本ずつ、左の人差し指および薬指小指の連続せるものと髪毛の全部を認めるもの残りおり、人差し指には被害前日、松吉常吉が誤って負傷し布切れをもって傷口をくくりおりたるままの残留あり」ということで、まったく常吉は熊の餌食となったことが明瞭となった。さらに事務所の西方2町ほどのところに、常吉の寝臥中着ていた襦袢の引き裂けたもの、および肋骨と認められるものが噛み砕かれ、その他骨片が散在しているのを発見した。
熊は8歳で、身長1丈余、黒色のもので、アイヌの鑑定によれば「該付近にかくのごとき猛悪のもの棲息せざれば、他よりの渡り熊なるべし」という(『北海道毎日新聞』明治34年9月28日より要約)。
思わず自分の左手指を数えたのは、筆者だけではあるまい。おそらく第1犠牲者の富所も、松吉と同じく原形を止めぬほど喰い尽くされたために、ついに遺体発見に至らなかったのだろう。
大牛のように巨大かつ残忍
こうして稀代の猛熊は退治されたのであったが、実はここに興味深い事実がある。この凶悪事件が発生する、わずか2ヵ月前、頓別村から40キロ西の天塩村にも、恐るべき人喰い熊がうろついていたのである。こちらもまた、通行中の若者を襲い、頭部など、わずかな部位を残してことごとく喰らい尽くすという凶暴なものであった。
明治34年7月13日、天塩国天塩村農夫、吉井孫三郎の次男某(19)が天塩市街地へ買物に出かけたまま、翌々日になっても帰らず、家内一同が心配していたところ、15日午後に山中で某の所持品が発見され、あるいは熊のために害せられたものかと、近隣の農夫を頼んで必死に捜索したところ、ようやく17日になって、某が熊のために無惨の最期を遂げているのを発見した。
「その時はすでに被害の時より数日を経たる後のこととて、全身大方は喰い尽くされ、ただわずかに毛髪の付着せる頭蓋部の一片と足の指片とを残せるのみ、骨散り血飛びて見るも無惨の有様なりき。(中略)某の所持せし赤毛布はずたずたに破れありしと、家出の時に新たに穿ち行きたる紺足袋も、これまたずたずたに切れおりしとより察すれば、某はいかに激しく熊と戦いしかを想像するに足るべし」――『北海道毎日新聞』明治34年8月7日
加害熊は「太さは大牛ほどもあり」、さらに「いまなお近辺を徘徊しつつあり」とのことで、村人はこれを銃殺しようと息巻いた。
稀代の凶悪熊
そして3ヵ月以上経ってから「加害熊が撃ちとられた」という続報が掲載された。
「先頃、天塩川筋および同市街地で若者2名とも猛熊の餌食となったが、(中略)このほど遠別村字マルマウツあたりに2匹の子熊を引き連れた大熊が出没し、アイヌ藤吉が幌延村ウブシ原野で撃ちとった。そして「右はまったく農場、市街地の若者どもを惨殺したる猛熊」なりし由」――『北海道毎日新聞』明治34年11月20日より要約
記事によれば、犠牲者は2名であり、撃ち取られた親子熊が加害熊であると断定されたという。
しかしこの親子熊が本当に若者2名を喰い殺した加害熊であったのか。「太さは大牛ほど」という目撃情報は「身長1丈余、黒色」という、砂金掘りを喰い殺した加害熊の特徴と酷似していないだろうか。また被害者の遺体のほぼすべてを喰い尽くす残忍さも共通しており、「他からの渡り熊ではないか」というアイヌの言葉もまた、同一個体による凶行であった可能性を示唆しているようにも思える。もしそうだと仮定すれば、この加害熊は4名を喰い殺し1名を危篤に陥れた稀代の凶悪熊ということになる。
オホーツクミュージアムえさしを見学後、16時30分ごろに出て宗谷方面に北進し、17時ごろに猿払村浜鬼志別の道の駅「さるふつ公園」へ到着、道の駅併設の「さるふつ憩いの湯」に入浴した。