旧岩谷堂共立病院。岩手県有形文化財。岩手県奥州市江刺南町。
2023年6月14日(水)。
14時10分ごろ金ケ崎要害歴史館へ戻り、奥州市江刺の旧岩谷堂(いわやどう)共立病院へ向かった。「緑の丘の赤い屋根とんがり帽子の時計台鐘が鳴りますキンコンカン」。戦後のNHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のモチーフになったとされるとんがり帽子の建物はすぐ分かる。坂道を上ると、建物右奥に駐車場があり、14時20分ごろに到着した。
旧岩谷堂共立病院は、明治7年(1874)に竣工し、明治8年1月に岩手県初(当時は水沢県)⻄洋医学に基づく総合病院として開院した木造4階建ての⻄洋式病院建築の様式を伝える擬洋風建築として全国的にも珍しい建築物である。
開院にあたり、院長には旧白河藩士で江戸で蘭学を学んだ横田信行を迎え、一般医療と共に郡内漢方医師再教育の医学所でもあったが、経営難により病院としての稼働期間は短く、明治11年には病院としての役割を終えた。
その後、明治11年(1878)から明治39年(1906)までは磐井治安裁判所岩谷堂出張所および登記所として、明治40年(1907)4月から翌年3月までは岩谷堂尋常小学校の仮校舎、大正初期からは岩谷堂町役場、江刺町役場、江刺市役所として利用されるなど一貫して公共建築としての役割を担った。
昭和57年(1982)には保存修理工事が実施され、近世から近代の医療関係資料等を展示する施設「明治記念館」として活用された後、平成26年(2014)からは歴史的建造物として一般公開されている。
開院の前年、明治7年7月に竣工したこの建物は、地元の大工棟梁及川東助の手によるもので、楼閣様式をもって病院施設に応えようとした設立関係者の創意と、それを具現化した地元棟梁の堅実な技法がうかがえる。
下層部は、六間四方の1階に中2階を含め、下層屋根裏に三間四方の3階部を配置。上層に4階を設け、頂部に搭屋をのせた外観三層の楼閣式建築となっている。特に上部の楼閣と八角形の搭屋は特徴的で、縦長の方引きガラス窓を採用するなど洋風のモチーフが取り入れられている。
昭和6年当時の岩谷堂町役場。多聞寺新公園内。
昭和56年(1981)に当時の姿に復元され移築されたという。多聞寺新公園は平地のように見える。多聞寺は旧岩谷堂共立病院の裏手あたりにあり、源義経が平泉を脱出して蝦夷地へ逃げた際に投宿したという伝説があったが、明治5年に焼失したという。病院の入院棟跡が裏手にあり、役場の一部であったというので、丘上台地上に旧所在地があったものか。
「鐘の鳴る丘」。この建物は、戦後のラジオドラマ菊田一夫原作「鐘の鳴る丘」のモチーフなったとも言われ、4階からは菊田が疎開で身を寄せた及政旅館を望むことができる。
菊田一夫は戦時中家族を岩谷堂町に疎開させており、そのときに見た岩谷堂役場からドラマの舞台設定を着想したと言われている。現在当館では朝と夕方に同作品の主題歌「とんがり帽子」(作詞:菊田)のメロディーを流している。
菊田一夫(1908~1973年)は、不遇な幼少時代を過ごし、昭和4年浅草公園劇場の文芸部に入り、戯曲で才能を示した。戦後、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」で人気を集め、さらに「君の名は」の春樹と真知子の恋愛メロドラマは空前の大ヒット作となる。30年より東宝取締役となり、東京劇場、芸術座を主な舞台に毎月精力的な劇作活動を続けるとともに、プロデューサーとして「マイ・フェア・レディ」「王様と私」などのミュージカル日本初演を行なった。戯曲の代表作に「がめつい奴」「がしんたれ」「放浪記」がある。
「鐘の鳴る丘」は、1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日までNHKラジオで放送されたラジオドラマである。菊田一夫作。ラジオドラマの放送回数は790回に及ぶ。
「鐘の鳴る丘」とは、その共同生活の施設が丘の上にあり、とがった屋根の時計台に鐘を備えているというドラマの設定による。空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描く。日本全体が苦しかった時代、大人子供を問わず多くの人の共感を呼び、大ヒットとなった。
主題歌「とんがり帽子」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、歌:川田正子、ゆりかご会、1947年9月発売)も広く歌われた。歌の題名は「とんがり帽子」だが、ドラマの名前から「鐘の鳴る丘」とよばれることも多い。
歌詞は「緑の丘の赤い屋根とんがり帽子の時計台鐘が鳴ります キンコンカンメエメエ小羊も啼いてます風がそよそよ丘の家黄色いお窓は俺らの家よ 緑の丘の麦畑俺らが一人でいる ...」。
当時の日本には「浮浪児」と呼ばれる戦災孤児が何万人も街頭にいて社会問題と化していた。そういう社会状況を背景にしたドラマ「鐘の鳴る丘」は、浮浪児たちのかたくなな心をときほぐし、少年の家を建てようとする主人公・修平青年の情熱と、次第に力を合わせてたくましく生きようとする子供たちの姿が多くの聴取者の共感と感動を呼び、テレビ放送はまだなく、NHKラジオを聴くことが家庭での最大の娯楽だった戦後早々の時期を代表する国民的ヒット番組となった。
1947年(昭和22年)4月マッカーサーの要請によりフラナガン神父が来日して孤児対策を助言すると、GHQの民間情報教育局はNHKに対し、フラナガンの精神を踏まえた戦争孤児救済のためのキャンペーンドラマを制作するように指示したことが放送開始のきっかけとなった。
ドラマに関係する施設は、旧岩谷堂共立病院のほかに、鐘の鳴る丘少年の家(群馬県前橋市堀越町)、有明高原寮(長野県安曇野市穂高)、栂池高原スキー場(長野県北安曇郡小谷村)があるが、いずれもドラマ化以降の建設である。
このあと、奥州市水沢の国立天文台へ向かった。