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秋田市 国名勝・如斯亭(じょしてい)庭園 旧佐竹氏別邸 天徳寺

2023年10月11日 08時46分00秒 | 秋田県

国名勝・旧秋田藩主佐竹氏別邸如斯亭(じょしてい)庭園。秋田市旭川南町。

2023年6月4日(日)。

秋田大学附属鉱業博物館の見学を終え、北西近くにある旧秋田藩主佐竹氏別邸庭園の国名勝・如斯亭庭園へ向かった。交差点付近の道路横にある駐車場へ駐車し、回り込んで庭園入口に向かった。受付で、無料のボランティアガイドを勧められて了解した。

国名勝・如斯亭庭園は旧秋田藩主(久保田藩主)佐竹氏の別邸およびその庭園で、附属茶屋を含む。通称「如斯亭」の名は本来1棟の建物を指す名称であったが、今では建物をめぐる庭園を指す名称として用いられている。

本庭園は江戸時代中期に田園の景勝地に営まれたもので、周囲の山並みと築山の構成が相応する風土的特色を有し、旧秋田藩主佐竹氏に関連して現存する唯一の事例として東北地方の大名庭園及びその文化を知る上で貴重で、学術上の価値は極めて高い。

如斯亭庭園は、佐竹氏の居城であった旧久保田城の北方約1kmに所在し、秋田市街北東部を流れる旭川の左岸に位置し、久保田城の搦手に近在する田園の景勝地(搦田)に営まれた。

庭園は南に主屋(如斯亭)を置いて北方を正面とし、遠く北方から東方にかけて新城山、太平山系を望む構成としている。北東部に園内最高所となる築山(観耕台)を設けて、そこから南に3つ、西に1つの築山を連ね、敷地中央部に円く平たい長径約3mを測る岩塊から成る中島(巨鼈島)を配した小さく浅い流れの園池(玉鑑池)を設ける。

庭前の巨石は高野石、また、池の中に配置された雪見灯籠は250年ほど前のもので、東北地方における遠州流庭園の名園とされる。

東辺の築山の間の峡谷から発する流路は、伝い落ちの滝(仁源泉)を成して園池に流れ、園池の西端からは再び流路に収束し、水辺に設けられた大きな景石(渇虎石)を北にやり過ごして、石橋(星槎橋)をくぐり、渓流(幽琴澗)を成して一段低い場所に設けられた茶室(清音亭)の露地に至る

茶室(清音亭)

庭園の地割を東から西に向かうこの流路は間断なき水流を成し、「如斯亭」の名の由来となった『論語』の「逝者如斯夫、不舎昼夜」(逝くものは斯くの如きか、昼夜をおかず)を嘆賞する風景として構成されたことを窺わせる。その意味は「水流の間断なき流れを嘆賞しつつ、人間の道も学問もまたかくあるべき」と解される。

主屋正面の緩斜面に設けられた園路は、途中で2つに分岐してそれぞれ巨鼈島と星槎橋を経て流れの対岸に至り、また、東辺に連なる南端の築山(清風嶺)に登る坂(夕陽坡)から北方に延びる園路、西端に位置する清音亭の露地に至る園路ともに、園内全体を巡る回遊路を構成する。園内の随所には、奇岩の景石や燈籠、蹲などを配し、回遊することで様々な風景を楽しむことができる。

如斯亭は、元禄年間(1688〜1704)に第3代藩主佐竹義処(よしずみ、1637〜1703)が下賜した土地に近臣の大嶋小助が整備・管理した別荘を起源とする。

第5代藩主義峰(1690〜1749)のとき藩主が遊猟する際の休憩所として用いられたため、藩に献上され、庭園や建物が整備された。倹約の旨によって一時衰亡したが、第8代藩主義敦(1748〜1785)が安永4年(1775)に再興した。第9代藩主義和(よしまさ、1775〜1815)のときに、庭園を整備して、秋田藩校明徳館の助教兼幹事であった儒者那珂通博に「園内十五景」(紅霞洞、靄然軒、夕陽坡、観耕台、清風嶺、佩玉矼、仁源泉、超雪渓、玉鑑池、弓字径、渇虎石、巨鼈島、星槎橋、幽琴澗、清音亭)を選ばせるとともに、その名を「如斯亭」と改め、賓客をもてなす場として活用され、また、文人墨客の交遊の場としても活用されるようになった。

廃藩置県により佐竹氏が東京へ転居した際、庭園はそれまで藩政によく貢献した那波氏へ譲渡された。以降は民間所有となったが、2010年に秋田市へ無償譲渡された。2014年から庭園の復元や主屋の解体修理などの整備工事に着手し、2017年に開園した。

2017年に復元された如斯亭の主屋

北東の正門。

 

天徳寺。秋田市泉三嶽根。

如斯亭の見学を終え、北西近くの天徳寺へ向かった。山門近くの駐車場に駐車したが、修理工事中であった。

天徳寺は曹洞宗の寺院で、久保田藩主(秋田藩主)佐竹家の菩提寺である。

1462年(寛正3年)、当時の佐竹家当主佐竹義人(義憲)が夫人(佐竹義盛娘)を弔うため、常陸国久慈郡太田村(茨城県常陸太田市)に創建した。1602年(慶長7年)、佐竹家の転封に伴い、出羽国秋田郡楢山村に移る。1624年(寛永元年)、火災により総門を残して全焼したため、翌年に現在地である泉村の泉山に移された。この際、焼失を免れた総門も移築されている。その後1676年(延宝4年)に再び火災が起こり、総門と山門を残して全焼。9年の月日をかけて再建され、現在に至る。

また1672年(寛文12年)には本堂西の墓所に佐竹家の霊屋が建てられ、歴代久保田藩主と夫人の霊が祀られている。1998年東京の総泉寺にあった正室や側室などの墓も移された。

1990年に本堂、書院、山門、総門の4棟と佐竹家霊屋が重要文化財に指定された。

本堂は、1687年(貞享4年)の建立。入母屋造、茅葺き、間口約30メートルの大建築。

山門は、1709年(宝永6年)の建立。三間一戸(柱間が3間で中央1間を通路とする)、瓦葺きの楼門(2階建て門)。

山門・駐車場の横には仮本堂・庫裏的な建物があった。佐竹氏の家紋「扇に月」が鮮やかであった。

 

このあと、古代城柵遺跡の国史跡・秋田城跡へ向かった。

秋田市 秋田大学附属鉱業博物館 玉川温泉北投石 佐藤信淵



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