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国史跡・秋田城跡。外郭東門・築地塀(復元)。続日本100名城。秋田市寺内大畑。
2023年6月4日(日)。
佐竹氏菩提寺の天徳寺から秋田市街地北西にある古代城柵遺跡の国史跡・秋田城跡へ向かった。自衛隊や護国神社などの表示を見ながら、丘陵地の道路から脇道を上ると、秋田城跡歴史資料館(秋田市寺内焼山)の駐車場に着いた。
秋田城跡歴史資料館はガイダンス施設であり、秋田城跡で発掘された資料の展示、史跡の保護管理、調査研究にあたる総合拠点施設として2016年4月に開館した。
秋田城跡と同じ台地上に設置されているので、台地下の秋田城跡見学者用駐車場から階段を昇ることなく、資料館から市道の上に架けられた歩行者用連絡橋を渡れば容易に秋田城跡政庁地区へ至ることができる。
連絡橋から眺める秋田城跡政庁地区。
秋田城(あきたじょう、あきたのき)は、古代日本最北の古代城柵である。
ジオラマ。秋田城跡。雄物川。男鹿半島。
秋田城は、秋田平野の西部、雄物川(秋田運河)右岸河口近くにある標高40mほどの丘陵地上に造営された城である。城柵の基本構造は、築地塀などで囲われた外郭と、政庁を囲う内郭との二重構造からなり、外郭の東西南北に城門が配置されていた。
政庁の配置は、正殿の南面に広場を設け左右に脇殿を配する「コ」の字型の施設配置となっており、これは都城にみられるような大極殿正面に朝庭を設け左右に朝堂を配する様式と共通する。
城の外郭の範囲は、北西部を切り欠いたような不整方形である。外郭の範囲は、東西・南北ともおよそ550m、約30haの広さを持つ。
外郭の位置も全期を通じて大きな変化は見られないが、塀の構造にはI - V期までの5期に渡る変遷が見られた。このような構造の変更は出羽側の城柵にみられる特徴で、それに対し陸奥側では多賀城が拡張した際も築地塀の基本構造を維持している。秋田城では9世紀初頭に築地塀から材木塀に変更され、官衙としての荘重さが後退したことから、この時期に秋田城の性質が大きく変化したことが示唆されている。
外郭の構造は奈良時代のI期では瓦葺きの築地塀、同じく奈良時代のII期では非瓦葺きの築地塀、平安時代に入ってからのIII期は柱列による材木塀、IV期は材木列による材木塀、V期は明確でなく、堀による区画がなされたと考えられている。III期以降は外郭に附設して櫓が設けられており、およそ80 - 90m間隔で外郭に櫓が並んでいたと考えられている。
外郭の城門はこれまで東門が確認されていたが、2008年以降西門南門がそれぞれ発見されている。
秋田城の創建は、733年(天平5年)に出羽柵が山形県庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、その後760年(天平宝字4年)に秋田城に改称されたものと考えられている。秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持し、出羽国北部の行政・軍事・外交・文化の中心地としての役割を担った。秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、律令国家による統治の拠点として、また津軽・渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった。
7世紀の中葉から9世紀の初頭にかけて、当時の朝廷は東北地方の蝦夷を軍事的に制圧し服属させ、柵戸移民を扶植して積極的な支配域の拡大を図っており、日本海側では708年(和銅元年)に現在の山形県庄内地方を越後国出羽郡として建郡、712年(和銅5年)には越後国から分離して出羽国に昇格させ、陸奥国から移管された置賜郡・最上郡とあわせて初期の出羽国を形成した。前後して出羽郡内に出羽柵を設置したものと考えられている。
秋田城は朝廷の支配域の北上にともない出羽柵を移転したものと捉えられるのであるが、8世紀当時の秋田地方では大規模な集落の跡が確認されておらず、後城遺跡のような城柵の進出にともなって形成された集落が城柵の近傍に存在する程度であった。すなわち当時の秋田地方は人口が希薄で、移転当初の出羽柵は朝廷の支配域の北辺に突出しており、出羽柵(秋田城)の設置にともなって城柵周辺に蝦夷や柵戸移民が混在する集落が形成されたものと推測されている。
804年(延暦23年)、秋田城が停廃されて秋田郡が設置され、秋田城が担っていた機能は河辺府へ移されたとされる。先の802年(延暦21年)に朝廷はアテルイとの軍事的抗争に勝利し、これを受けて陸奥に胆沢城・紫波城を造営、出羽でも同時期に払田柵(第II期雄勝城)が造営されたとみられるなど、9世紀初は朝廷と蝦夷との関係が大転換した時期にあたる。陸奥方面での朝廷の軍事的勝利を受けて、秋田城を取り巻く環境が孤立した状態から解消されたことにともなう、支配体制再編の一環として行われたものと考えられる。
830年(天長7年)には天長地震により城廓および官舎のことごとくが損傷する被害を受けた事が記されている。この時の被害報告から城に附属して四天王寺・四王堂といった宗教施設が存在した事実が示されている。
878年(元慶2年)に勃発した俘囚の大規模反乱(元慶の乱)では、俘囚側が秋田城を一時占拠するに至り、発掘調査からも乱によって城が焼かれたことを裏付ける焼土炭化物層が検出されている。
元慶の乱は、出羽権守として派遣された右中弁藤原保則が、主に上野国・下野国の兵で編成された軍を率いて乱の鎮圧にあたり、また鎮守将軍として派遣された小野春風による懐柔策も受けて、硬軟織り交ぜた対応により終結に向かい、秋田城は回復されて復興整備に向かっている。
その後939年(天慶2年)の天慶の乱の際にも、秋田城は攻撃を受けている。10世紀後半には秋田城の基本構造と機能が失われたと考えられている。
平安時代後期から中世にかけて、史料上はなおも秋田城の文字が継続して確認されており、鎌倉時代には秋田城介の官職は武門にとって名誉あるものであったとされるが、中世の秋田城として比定される有力な遺構は確認されておらず、古代の秋田城跡周辺が有力な擬定地として推測されるにとどまっている。
内郭にあたる政庁跡は城域の中心からやや南西寄りに位置しており、その規模は創建期のもので東西約94m、南北約77mと、東西方向の差渡しの方がやや長い、横長の長方形となっている点が特徴である。秋田城は多賀城等より一回り小さい規模の地域中核拠点であるとされる。
政庁の様式は都の朝堂、あるいは各国の国衙に倣うものであり、秋田城は地域一帯の行政の拠点でもあったことから、政庁では一般の政務のほか、在地の蝦夷の饗応、さらには渤海使をはじめとする外交使節に対する送迎の儀式も行われていたものと考えられている。なお、政庁跡を道路(国道7号旧々道)が跨いでいるために南西側が約3分の1に渡って削平・破壊されており、西脇殿・政庁南門の様相は不明である。
第I期の政庁配置を示す模型
政庁内部から外郭に通ずる内郭東門方向。
内郭東門と外郭東門に続く幅員12mの城内東大路。