国史跡・日本100名城・小峰城跡(白河小峰城跡、白河城跡)。福島県白河市郭内。
2024年6月1日(土)。
小峰城歴史館の見学を終え、小峰城跡へ向かった。通常は清水門から本丸に登るようだが、整備工事中のため、歴史館・二の丸茶屋近くに帯曲輪門跡への仮の登り口が鉄骨で架けられていた。
白河市は本丸正面にあった清水門の木造復元を目指し、2024年1月着工2025年度末完成を目指すとしている。
老中・松平定信(白河藩主久松松平家9代当主・子孫は桑名藩主)時代(1800年頃)の小峰城
小峰城は、阿武隈川と谷津田川の間に位置する、小峰ヶ岡という丘陵に築かれた平山城である。東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、会津若松城と共に「東北三名城」の1つにも数えられている。
城郭は阿武隈川の南側に東西に延びる独立丘陵と、丘陵の南方に広がる段丘上を利用して築城されている。本丸の標高は370m、本丸と二之丸との比高は約15mである。本丸と二の丸の一部が残っており、JR白河駅の北方約500mに本丸が位置する。
縄張りは梯郭式で、阿武隈川を背にした北端に本丸が位置し、本丸の南に二の丸、三の丸と広がっている。また本丸は周囲を帯廓および竹之丸で囲んでいる。二の丸までは総石垣で固められていたが、三の丸からは一部が土塁となっていた。
白河小峰城は南北朝時代の興国元年/暦応3年(1340年)に結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。 この当時は、現在の本丸と三の丸北端の丘陵部が城域で、現在の二の丸付近を阿武隈川が流れており、川に挟まれた細長い丘の上の城だった。
天正18年(1590年)、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されるとこの地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度蒲生氏が支配したが、寛永4年(1627年)に丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封されると、幕命により寛永6年(1629年)より城郭の大改築に着手、3年の歳月を費やして寛永9年(1632年)に完成した。
この際に阿武隈川は城の北の流れを本流とし、南の河床は埋め立てて二の丸、三の丸が築かれた。また、竹之丸東側の堀切を拡大して本丸を丘陵から切り離し現在の縄張りとなっている。後には、城の西側で南に大きく蛇行していた阿武隈川の流れを北につけかえ、埋め立てた跡地には町屋が形成された。会津藩の出身者が多く住んだ事から、会津町の名が今に残っている。
その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があったが、慶応3年(1867年)に最後の阿部氏が棚倉藩に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる。
白河城主が松平定信であった文化5年(1808)に作成された城郭町割絵図。
翌慶応4年(1868年)、白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城した(白河口の戦い)。
城跡には曲輪・土塁・石垣・水堀を残すのみであったが、1991年に天守に相当する本丸御三階櫓が木造により復元された。現在各地の城址で進められている、発掘調査や、図面、古写真等の資料に基づく木造による復元の嚆矢とされている。1994年(平成6年)に前御門が復元された。
多門櫓跡。
多門櫓跡から清水門跡。
前御門。
三重櫓。
三重櫓は1632年(寛永9年)に建てられた複合式層塔型3重3階の櫓で、当時は「三重御櫓」と呼ばれた実質的な天守であった。石垣上端に余裕を持たせ付櫓や2階に出窓を付けた姿は、若松城天守に共通する。黒漆塗りの下見板張りで、風雨にさらされることを考慮して窓を小さく開いている。この三重櫓は1868年(慶応4年)に起こった戊辰戦争によって焼失した。
現在の御三階櫓は1991年に復元された建物である。復元天守は昭和期に多数造られたが、それらはみな鉄筋コンクリート造で、外観のみ元に復したもの(外観復元)であった。白河城の三重櫓は木造復元された城郭建築のうち、天守に相当する建物の復元では最初のもので、現在でも数少ない木造復元天守の1つである。
天守台から。
おとめ桜の伝説。
寛永年間に城の大改修を行った際、本丸の石垣が何度も崩壊したため、人柱を立てることになり、人柱にするのはその日、最初に城に来た者ということに決まった。すると、最初に来たのは作事奉行和知半三郎の娘「おとめ」だった。父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは捕らえられ、人柱にされてしまった。その後、石垣は無事完成し、おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ「おとめ桜」と呼ばれるようになったという。現在三重櫓のすぐ横に植えられているおとめ桜は二代目で、初代は戊辰戦争の時に焼失している。
このあと、駐車場へ戻り、車で数分の旧小峰城太鼓櫓へ向かった。
旧小峰城太鼓櫓。白河市郭内。
もとは小峰城二之丸の南側入り口にあたる、太鼓門西側に所在したとされ、一部の小峰城絵図に描かれている。
明治7年(1874)から行われた、小峰城内の土地・建物の民間への払い下げに際して、白河の城下で商家(山城屋)を営んでいた荒井家が譲り受け、当初は三之丸の紅葉土手(現在は消失)に移築された。その後、昭和5年(1930)に現敷地北側に移築され、茶室に改装後利用された。平成27年(2015)、荒井家より市へ寄贈され、その後、老朽化や東日本大震災による影響により倒壊の恐れがあったことから建物を解体し、令和4年(2022)に同敷地(南側)へ移築修復工事を行った。
これまでの移築により建物そのものは原型と変わっているが、大正年間の写真や骨組みなどから、建物の原型は重層で、四方に転び(柱などの材を傾ける作り方)をもつ2間四方の寄棟造りであったと推定できる。
小峰城に関わる建造物が江戸時代末から明治初期に全て焼失・破却等により失われた中で、唯一現存する貴重な建造物である。
このあと、白河ハリストス正教会へ向かった。